[流体枷仔]
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Thu
高村光太郎『道程』「父の顔」小考
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アーユーマイファザー?
フーイズマイファザー?
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父の顔
父の顔を粘土(どろ)にてつくれば
かはたれ時の窓の下に
父の顔の悲しくさびしや
どこか似てゐるわが顔のおもかげは
うす気味わろきまでに理法のおそろしく
わが魂の老いさき、まざまざと
姿に出でし思ひもかけぬおどろき
わがこころは怖いもの見たさに
その眼を見、その額の皺を見る
つくられし父の顔は
魚類のごとくふかく黙すれど
あはれ痛ましき過ぎし日を語る
そは鋼鉄の暗き叫びにして
又西の国にて見たる「ハムレット」の亡霊の声か
怨嗟なけれど身をきるひびきは
爪にしみ入りて瘭疽(へうそう)の如くうづく
父の顔を粘土にて作れば
かはたれ時の窓の下に
あやしき血すぢのささやく声……
(伊藤新吉編『高村光太郎詩集』)
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高村光太郎は多面的な詩人といえます。前近代と近代、東洋と西洋、父と息子といった相克と真摯に向かい合い、闘ってきた軌跡が詩となっています。「父の顔」は明治四十四年、光太郎が帰国して二年後に雑誌「スバル」にて発表されました。
「父の顔」を「粘土にて」つくると言っていることから、塑像をつくっているのかと想像できます。「かはたれ時」とは「彼は誰時」のことであり、明け方あるいは暮れ方のはっきりしない時間であっても、父の顔が「悲しくさびし」く見えるのは、この「父の顔」をつくっている人物にとって、父とはほとんど自己と癒着してしまっているような存在なのだろうと想像できます。したがって「悲しくさびし」いのは「父の顔」の作り手の気持ちでもあるのです。
作り手にとって血のつながりのある父と似ていることは当然のことであるかのように思えますが、「うす気味わろきまでに」似ている「わが顔のおもかげ」から血縁=「理法のおそろし」さを感じています。子は親を選べず、その血のつながりは不可避なものです。子が父の中に「わが魂の老いさき」を見てしまうのは「思ひもかけぬおどろき」を呼び起こしますが、「わがこころは怖いもの見たさに/その眼を見、その額の皺を見」てしまいます。不可避であるが故に当然の帰結としての「わが魂の老いさき」=「父の顔」ですが、しょせんこれは「つくられし父の顔」に過ぎず、「あはれ痛ましき過ぎし日を語る」声は、自身のつくった「父の顔」を通じて独白する作り手の声に他なりません。
こうした父と子の関係は、「ハムレット」に見るように古今東西見られるものです。つまり、子(息子)の大部分が父(親)の影響下にあるというものです。「怨嗟なけれど身をきるひびきは/爪にしみ入りて瘭疽の如くうづく」とあることから、父の子に対する影響というものにあまりいい印象を持っていないことが分ります。この「瘭疽」は「父の顔」を作る際に爪の間に入り込んでしまった「粘土」をイメージさせます。「父の顔を粘土にて作」るには、ある程度の距離を保ちつつ相対的な視線でもって「父」を見なければいけないでしょう。しかし、それは父の影響下にある自分自身をも相対的に見つめる視線でもあります。最終行「あやしき血すぢのささやく声……」では父と子がユニゾンでささやく声が想像されます。「理法」は「血すぢ」と言い直され、どんなに相対化しようとも「爪」の間に入り込んでしまう「父」の影響が、自分自身を形作っているのだということを、ある種の諦観を持って受け入れているのです。
詩「父の顔」の詩中主体と光太郎を意図的に切り離して考えてみました。次に、光太郎自身にもっと迫りつつ読んでみたいと思います。
光太郎はこの国近代のさまざまな分野に於いて、はじめの人だったと言っていい。誰の判断、誰の感情でもない自分自身のもの、それ以外に依るべき何者もない状態が周囲にある。だからこそ全責任を自己の存在そのものにかけ、いやが上にも自らを鍛える。論は先ず自分が日本人であること、だからどんな我儘をしても、跡には日本人でなければ出来ぬ作品しか残りはしない、ということを肚の底において、その制作時の心理状態には「一個の人間があるのみである。日本などという考は更に無い。自分の思ふまま、見たまま、感じたままを構はずに行るばかりである。」と記す。
(北川太一「評伝 高村光太郎」)
光太郎にとって留学以前と留学以後で大きく変わったことがあります。それは「日本」という意識です。自身が日本人であること、日本という土壌で育まれたこと。自分自身の出自と背景を、西洋に渡った経験から相対化してみることができるようになりました。これは光太郎にとってたいへん大きなショックを与えます。
ロダンに傾倒した光太郎は、幼少時より絶対的な存在だった父光雲とは異なる芸術を発見します。それがロダンであり、西洋美術だったのです。しかしながら、光太郎にとって西洋美術を勉強することは、決して自分は感得し得ないものであることの発見でもあったのです。それが日本人であることの自分自身の発見であり、帰国後「誰の判断、誰の感情でもない自分自身のもの」を作り出す原動力へとつながっていきます。
小学校から予備校にかけての、幼年時代、少年時代には、私は父を絶対に崇拝していた。父以上の人を考えられなかつた。その一言一句は皆金科玉条であつた。[…]私は長男なので、父の家業をついで彫刻家になるといふことは既定のことであつたが、特に父の指導をうけるといふこともなかつた。多くの内弟子などの間にうろうろしてゐて、見やう見まねで何となく彫刻に親しんだに過ぎない。七歳頃に父から小刀を二三本もらつていたづらしてゐたことをおぼえてゐるが、よく刃物で怪我をした。
[…]
アメリカで私の得たものは、結局日本的倫理観の解放といふことであつたろう。祖父と父と母とに囲まれた旧江戸的倫理の延長の空気の中で育つた私は、アメリカで毎日人間行動の基本的相違に驚かされた。あのつつましい謙遜の徳とか、金銭に対する潔癖感とかいふものがまるで問題にならないほど無視されてゐる若々しい人間の気概にまづ気づいた。自分の作品を人に見せる時”How do you think”とはいはないで、”How do you like”といきなり言ふ。こちらが謙遜して自分が未熟だといへば、言葉通りに未熟だと思ふ。人が金をくれるのは恩恵でなくて、当然の場合だからである。
[…]
そのうちパリに居ることに疑問を持ちはじめた。モデルの体を写生しながら、これは到底分らないと思ふやうになつた。虎を見てゐるような気がした。対象の内部がどうしてもつかめない。これが日本人のモデルならもつとしん底から分るだらうと思ひ出した。さう思ひ出すとパリに居て習慣的にモデル勉強してゐるのが無意味に考へられ、たまらなくなつて、つひに父の許へ帰国する旨の手紙を出した。父や母は大よろこびで、沸き立つたやうな返事をよこした。
[…]
「弟子たちとも話し合つたんだが、ひとつどうだらう、銅像会社といふやうなものを作つて、お前をまんなかにして、弟子たちにもそれぞれ腕をふるはせて、手びろく、銅像の仕事をやつたら。なかなか見込があると思ふが、よく考えてごらん。」といふやうなことだつたが、私はがんと頭をなぐられたやうな気がして、ろくに返事も出来ず、うやむやにしてしまつた。何だか悲しいやうな戸惑を感じて、あまり口がきけなくなった。
[…]
父の派閥にとって私は獅子身中の虫となつたわけである。何しろ子供の頃から父の傍で育ち、多くの弟子たちの間に立ちまじつてゐたので、芸術界の内輪の情実、作家勢力の均衡、展覧会受賞の争奪、銅像其他の制作請負の運動、他派排撃の感情などといふイヤな面を巨細に知つて居り、それらのことが今や反吐の出るほど愚劣に見えてくると、さういふ逐鹿場へ足を入れる気がまつたく無くなつてしまつた。父の誇とする位階勲等とか、世間的肩書とか、門戸を張つた生活とか、顔とか、ヒキとか、一切のさういふものを、塵か、あくたか、汚物のやうに感ぜずにはゐられず、父の得意とするところをめちゃめちゃに踏みにじり、父の望むところを悉く逆に行くといふ羽目になつた。
(高村光太郎「父との関係―アトリエにて 2・3・4―」旧漢字は新漢字に直して引用、以下適宜同じ手続きを行う。)
少し長いが、光太郎の留学前から留学後の心情の変遷を追って引用しました。「父との関係」は昭和二十九年に書かれたものです。光太郎七十二歳。晩年になっても光太郎にとって「父」とは攻略すべき対象であり、この自伝風エッセイはその決算のようなものと言えます。明治四十四年に発表された詩「父の顔」を、晩年の告白から逆照射して見てみることも可能でしょう。
幼少時の光太郎にとって父は絶対的な存在でした。後に光太郎が父光雲の彫刻作品を評して「職人的、仏師屋的で、又江戸的」と述べたように、光太郎自身、自分自身を形作っているものが職人的仏師屋的江戸的な精神だったことに気づいていました。その証拠にパリでモデルをデッサンしていた光太郎は不意に「虎を見てゐる」気分を覚え、帰国の決意をしてしまいます。光太郎は勉強熱心で、そのため西洋美術(ロダン!)を理解することはできたでしょうが、その精神を感得することができない、自分自身が日本人に過ぎないということに気がついたのです。
近代詩の途上にはその母体となった島崎藤村をはじめ、それぞれの時期に、それぞれの才能をひらめかせた多くの詩人が登場している。それらの数多くの業績が近代詩の歴史を織り成したのだが、その歴史を支える三点として、私は北原白秋、高村光太郎、萩原朔太郎の三人の業績を大事に思う。もちろんこれとは違った評価もあるだろうが、しかし北原白秋は詩の意匠を新しくしたことにおいて、高村光太郎は近代の精神の詩的形成において、萩原朔太郎は近代的心理の形象化において、それぞれに他に比類のない感情の領域をひらいた。この三人の詩人の業績をつらねたところに、私は近代詩の特質をほぼ全的に望見することができると思う。
それならば高村光太郎における近代の精神の詩的形成は、どのような特質を持つものだったろうか。おそらく近代の詩人たちの中で高村光太郎ほどに「意味」を語る詩人は絶えてなかった。詩を美そのもの、芸術的完美そのものとする見地からすれば、高村光太郎の作品は「意味」過剰であるだろう。一面においてそれはたしかに「意味」過剰であり。饒舌であり、エロカンス(雄弁)の文学といえるほどである。しかしこれを裏返していえば、高村光太郎はその饒多な「意味」によって、情意の文学――延いては生命の文学としての詩に、ほろびることのない言葉を刻みつけたのである。高村光太郎という一個の肉体はほろびても、その生命の言葉はほろびることがない。そこに人間性の文学があり、生の文学がある。人間の存在を語る文学がある。一個の人間の生命とその存在に根ざす文学がある。高村光太郎はもっとも生命感的な、もっともつよく人生論的命題を語る詩人だったのである。
(伊藤信吉「解説」『高村光太郎詩集』)
光太郎にとって「近代の精神」とは日本人であることの自覚であり、それは近代的自我なるものが西洋文明からもたらされた概念であることを考えれば逆説的にもう見られます。しかしながら、日本人であることを自覚するためには、自身の中の「日本」を相対化する必要があります。そのことは、光太郎の留学経験が引き金となりました。そして日本人である自分自身を発見したとき、自身を形成する日本的なるものが父(=光雲)によってもたらされたものだと気づくのです。
したがって詩「父の顔」は、光太郎の私的な詩作品ということが一つ言えます。光雲−光太郎という父−子関係を、「粘土」という二人の共通項である彫刻をモチーフに語られた、私的な詩的独白と読めます。それでは何故、伊藤は光太郎を「もっともつよく人生論的命題を語る詩人」と見たのでしょうか。それは、光太郎があまりにも「意味」を饒舌多弁に語ることから、私的なものが膨張し突き抜けて、一般化されてしまったということでしょう。スタイルもモチーフもテーマも異なっていますが、現代詩でいう伊藤比呂美(特に『とげ抜き新巣鴨地蔵縁起』の達成)が私的題材を氾濫/反乱させ人間存在を揺さぶるような詩を書きます。
では、詩「父の顔」における一般化されうる主題とはなんでしょう。それはもちろん「父子関係」です。
「父と子」の問題はギリシヤこのかた、この世に於ける最もむつかしい、解決に苦しむ関係の一つである。それは時代のもつれにかかはり、遺伝の入り交じりつながり、個と個との相反親和、処世と信念との衝突妥協の微妙な有機的因縁に左右せられ、その上、親子の愛といふ本能的原始感情が加はつて、大局は一つの運命といふやうな形となつてこの問題に被ひかぶさつてくる。
小さくはあるが、私たちも亦私たちなりに苦しんだ。この一隅の苦悩にどんな意味があるかないか知らないが、一度はきれいさつぱりと清算しておかうと思ふ。父生前中には出来なかつたが、今なら、年月が一切を緩和してくれるので出来る。
(高村光太郎「父との関係」)
「私たちも亦私たちなりに苦しんだ」とは光雲−光太郎のことです。父子関係が「時代のもつれ」「遺伝の入り交じり」「個と個の相反親和」「処世と信念」「親子の愛」等が相互に絡み合い「一つの運命」と呼ばれるものとなって光太郎たちの眼の前にあらわれます。
「時代」は明治。江戸気質の父光雲の性質と、西洋文化に直に触れ古い日本を脱ぎ捨てようともがく光太郎は、父を見ることで時代の「これまで」を見、ロダン等西洋文化を通じて「これから」を見ました。
「遺伝」は「父の顔」詩中でも触れられています。「理法」「血すぢ」によって父光雲とのつながりは(精神的なものだけでなく)肉体的にまざまざと実感させられます。これが日本人であることの発見にも強くつながります。
「個個の相反親和」は、父子関係が一個の人間同士のつながりであることを改めて見る冷めた視線を思わせます。父光雲を、父としてだけではなく、日本美術界を代表する一人の人物=高村光雲として見る視線です。これは帰国後父に反発する形で芸術活動を行った光太郎の心情が、光雲を父に持つ子としての光太郎、という立場以外のものを感じさせます。つまり、一芸術家として高村光太郎が一芸術家である高村光雲に代表される日本美術界に反旗を翻したと見ることも可能だということです。
「処世と信念」というものも、各々の考え方の相違によって反発しあう形となったことを読み取れます。帰国後の光太郎に対して光雲が「銅像会社」をつくることを勧め、それが光太郎の心情(彼は勉強を続けたかった!)とかけ離れたものだったことは、父子関係だけを理由としたすれ違いとは言えないものです。
そして「親子の愛」を理由に離れきれない自分たちがあります。光太郎は智恵子との結婚を機に光雲から自分たちだけで生活することを告げられ、自らもそのつもりであったと告白しています(「父との関係」)。このことは、光雲も光太郎もお互いに反発しあうことを自覚しながらも、結婚という契機がなければ「離れる」という行動に出られなかったということでしょう。先の「銅像会社」を勧める光雲の言は子を思う父の愛を、晩年まで父について書き続けた光太郎の筆は父を思うこの愛を、それぞれ感じます。
このような複雑な関係を、相対的な視線でもって詩「父の顔」を書いた当時の光太郎は本当に把握していたのでしょうか。
この詩で「ハムレット」がでてくるが、フロイトはこの「ハムレット」もエディプス・コンプレックスの例証の一つとして取り上げている。
「『ハムレット』の場合には、描写はもっと間接的である。主人公は父親をわが手にかけたわけではなく、彼の父を殺したのは他人であり、その他人にとっては、彼の父親を殺すことは、父親殺しとはならないのである。けれどもそうだからといって必然的に、もう一つの不愉快な動機、すなわち女性をめぐる性的な抗争のほうも隠蔽されているというわけではない。伯父による父親の殺害が主人公におよぼした影響がいかなるものであったかを知ることによって、われわれは、主人公の持っているエディプス・コンプレックスをも、いわば反射鏡に映った形で見ることができるのである。すなわち本来ならば、主人公は父親を殺した伯父に復讐すべきである。ところが、不思議なことにはそれができない。われわれは、彼の気力を奪ったものが彼の罪悪感であったことを知っている。彼は、殺された父親の子として、当然伯父に復讐すべきでありながら、自分にはその能力がないことを知って、それを罪と感じた、ということになっている。けれどもそれは、自分にも父親を殺したいという欲望があったことについての罪悪感が転位させられたもので、このような現象は、神経症の場合には、きわめて普通に見られるものなのである」(「ドストエフスキーと父親殺し」『文化・芸術論』フロイト著作集3)
このようなエディプス神話への言及といい、ハムレットの引用といい、光太郎はフロイトの著作を読んだことがあるのではないかとすら思われるが、その確証は得られていない。
ともあれ、光太郎にとって留学前から血筋が問題となっているが、それは嫌悪すべきものとしてである。そしてそれが留学でさらに尖鋭化されてしまう。光太郎のエディプス・コンプレックスの構造は父との関係が大部分であり、母は影ないし背景となっている。また意識面では激しい対立をし、無意識では甘えないし愛着がきわめて強かった[…]
(町沢静夫「高村光太郎」、なおフロイトの引用は本書の孫引きによる)
「そは鋼鉄の叫びにして/又西の国にて見たる「ハムレット」の亡霊の声か」の指示語「そ」が指しているものは、直前の「あはれ痛ましき過ぎし日を語る」声ですから、それは「つくられし父の顔」が「魚類のごとくふかく黙」しながら発した声だと考えられます。
戯曲『ハムレット』における亡霊とは伯父に殺された先王、ハムレットの父の霊です。すると、「鋼鉄の叫び」を発しているのが「父(光雲)」だとしたら、光太郎にとって光雲は既に亡霊ということなのでしょうか。きっとそうでしょう。なぜなら光太郎を形成した光雲の精神的価値観・肉体的血筋といったものが対象化相対化されているからです。文字通り血肉の如く父光雲の影響下にあったら、自身が父の影響下にあることを気づくことはできないはずです。これは、「父の顔」を粘土で作った中から「わが魂の老いさき」を見出す冷静さからも指摘できます。逆に、自身の顔を粘土で作り、そこに若かりし日の父を見出したとしたら、それは粘土制作を通じて父を対象化相対化したのです。しかし実際は「父の顔」を作ることができている。これは、留学経験――東洋−西洋の相対化――を通じて東洋=父と転化し、自身を形作っていたものを相対化しえていたと見るべきです。
そうなると「ハムレット」を詩の中で呼び寄せた光太郎は、自身の中の東洋的なもの=父光雲を殺したのは自分ではないということが分っていたわけです。それは留学経験そのものであり、それを許可した父光雲をも含んでしまうでしょう。そして父が殺されたこと=自身の中の日本的なものを相対化することができたことを悔やむのではなく受け入れてしまった(復讐は行われなかった!)ところに、光太郎の「ハムレット」引用の意図を見出せそうです。
有名な「出さずにしまつた手紙の一束」には「親と子は実際講和の出来ない先頭を続けなければならない。親が強ければ子を堕落させて所謂孝子に為てしまふ。子が強ければ鈴虫の様に親を喰ひ殺してしまふのだ。」とあります。しかし父殺し=日本的なものの相対化は、自身のうちの日本的なものの排撃にはなりえませんでした。それが光太郎の「根付の国」などにも見られる徹底して見られる日本批判=自己批判なのです。
ふらふらと立つて洗面器の前へ行つた。熱湯の蛇口をねぢる時、図らず、さうだ、はからずだ。上を見ると見慣れぬ黒い男が寝衣のまま立つてゐる。非常な不愉快と不安と驚愕とが一しよになつて僕を襲つた。尚ほよく見ると、鏡であつた。鏡の中に僕が居るのであつた。
「ああ、僕はやつぱり日本人だ。JAPONAISだ。MONGOLだ。LE JAUNEだ。」と頭の中で弾機(ばね)の外れたような声がした。
夢の様な心は此の時、A VALANCHEとなって根から崩れた。その朝、早々に女から逃れた。そして、画室の寒い板の間に長い間座り込んで、しみじみと苦しい思ひを味わつた。
話といふのは此だけだ。今夜、此から何処へ行かう。
(高村光太郎「珈琲店より」)
西洋の女性と一晩過ごした翌朝の情景です。自分の視界には自分は映りません、それこそ鏡でもなければ。だから、光太郎の目には東洋的日本的相貌である自分自身は見えないまま、西洋の社会・西洋の文化の中、西洋の女性と楽しいときを過ごすことが出来たのでしょう。
しかし、鏡の前で気づいてしまう。「やつぱり」とあるところから、薄々気づいていたことが読み取れます。何が読み取れるのか。それは、いくら自分の視界に東洋的日本的相貌の自分が見えなくとも、自分が非−西洋であることを常に意識してしまっていることです。殊に、女の青い眼に深く感激する点は、自身が青い目を有していないからこその感激であることに、無意識のうちに気づいているのでしょう。
独りだ。独りだ。
僕は何の為めに巴里に居るのだらう。巴里の物凄いCRIMSONの笑顔は僕に無限の寂寥を与える。巴里の市街の歓楽の声は僕を憂鬱の底なし井戸へ投げ込まうとしてゐる。君は動物園に行つた事があるだらう。そして虎や、獅子や、鹿や、鶴の顔を見て寂寥を感じなかつたか。君の心と彼等の心と何等の相通ずる処も無い冷ややかなINDIFFERENCEに脅されなかつたか。虎の眼を見て僕はいつも永久に相語り得ぬ彼と僕との運命を痛み悲しんだ。此の不自然な悲惨の滑稽を忍ぶに堪へなかつた。かかる珍事が白昼に存在してゐるのに、古来何の怪しむ事もなかつた人間の冷淡さに驚愕した。それだよ。僕が今毎日巴里の歓楽の声の中で骨を刺す悲しみに苦しんでゐるのは。白人は常に東洋人を目して核を有する人種といつてゐる。僕には又白色人種が解き尽されない謎である。僕には彼等の手の指の微動をすら了解することは出来ない。相抱き相擁しながらも僕は石を抱き死骸を擁してゐると思はずにはゐられない。その真白な蝋の様な胸にぐさと小刀をつつ込んだらばと、思ふ事が屢々あるのだ。僕の身の周囲には金網が張つてある。どんな談笑の中団欒の中へ行つても此の金網が邪魔をする。海の魚は河に入る可からず、河の魚は海に入る可からず。駄目だ。早く帰つて心と心とをしやりしやりと擦り合せたい。
寂しいよ。
(高村光太郎「出さずにしまつた手紙の一束」)
「父との関係」にもあった西洋人が動物に見えることについて書かれてあります。動物園の動物と心を通い合わせることが不可能であるのと同じ理由で、光太郎は西洋人が理解できないといいます。東洋人たる自分は白色人種=西洋人を理解できず、自分の周りにだけ金網があるかのような錯覚に陥ります。この錯覚は錯覚である限りにおいて光太郎自身にとってとてつもなくリアリティのある孤独を感じさせます。冒頭と結尾に「独りだ。独りだ。/寂しいよ。」と青過ぎる心情吐露をしてしまいます。実際にどのような心理状態だったか残された文献より推して知るほかありませんが、心情吐露とも思える言葉を書き込んでしまう、その行為が見せる光太郎の心情が察することが出来るでしょう。
「虎の眼(青い眼!)を見て僕はいつも永久に相語り得ぬ彼と僕との運命を痛み悲しんだ。」というのは、パリでモデルを写生していても心底から理解できないもどかしさを感じたことと同一の悲しみでしょう。しかし、なぜ光太郎自身が動物園の客の立場なのでしょうか。もちろん自身がたとえ日本人であっても人間であることを否定するまでには至らなかったということでしょうが。しかし、「僕の身の周囲には金網が張つてある」と言うとき、光太郎の周りの人間もまた光太郎を心の底から理解することは出来なかったのだろうと思われます。光太郎が、自信の理解の外にある白色人種を動物園の動物に喩えたように、光太郎の周囲の人物も光太郎のことをそのような眼(動物園の客の立場の目)で見ていたのかもしれません。それが、「珈琲店より」の「やつぱり」につながってくるのだとしたら、留学を経て光太郎が手に入れた日本人であることの自覚=相対的な視線は、父殺しという形で自分自身をも殺していたのだといえます。
詩「父の顔」では「粘土」という媒体を通じて父−子が一つの造形の下に一致します。このことは、職人的仏師屋的江戸的気質を父光雲から受け継いだことの自覚と、ロダンに魅了され理論的芸術的西洋的価値観を勉強した光太郎自身が能動的に吸収したものとの自覚が渾然一体になった人物=高村光太郎の象徴であることを示します。それゆえに「あやしき血すぢのささやく声……」はユニゾンの響きを思わせるのです。
光太郎の「静寂」は、むしろ世俗の価値と対峙することをやめて、自らの世界を絶対化することによって生まれてきたとみられる。「あらゆる方面の旧体制に楯」つくことをやめて、自我の絶対を確立する方向に向かうことによって作り出された「平衡」であったように思われる。
すなわち、光太郎をとりまく現実は、ほとんど変化したのではなかった。しかしかれは、そのあまりにも日本的な現実に対して関心を切り捨てていく。同時に自分ひとりの世界の充実が求めわれる(ママ)。[…]
[…]
父の顔に「わが顔のおもかげ」を見、「わが魂の老いさき」を見つめる光太郎は、そのような絆を断ちきりたい願望が底流するとしても、同類としての父の発見があることがより重要である。
[…]
[…]光太郎はこの詩(「父の顔」:引用者注)において、父に同類を発見し、自らの痛ましい日々を、父のそれに重ね合わせる。
父との和解というようなことではない。父が、戦闘の対象としての意味を持たなくなりうる契機が、同類としての父を発見することによって、もたらされたのである。
(堀江信男「高村光太郎論」)
「自らの世界の絶対化」とは、父光雲の影響や、西洋美術を勉強しても心底理解することは出来なかったという留学経験を相対的に見つめる視点を確保するということです。それは、帰国後の光太郎を取り巻く状況(光雲の「銅像会社」の勧め等)が、変化しなかったにもかかわらず、その変化しない状況を光太郎が認識することができたといえるでしょう。
堀江は詩「父の顔」で父との関係を断ちきりたい願望を読み取っていますが、父の顔の像を作るということ、あるいは父の顔の像を作るということを題材に詩を書くということが、すでに光太郎が父子関係を相対化して眺めることができた証拠になります。しかし、「Rodinは僕の最も崇拝する芸術家であり人物である。が、若し僕がRodinの子であつたら何うだらう。此を思ふと林檎の実を喰った罪の怖ろしさに震えるのだ!」(「出さずにしまつた手紙の一束」)と光太郎が記すとき、光雲−光太郎の関係と前近代−近代や東洋・職人的−西洋・芸術的といった対比とアナロジーで考えていたものから逸脱してしまいます。光太郎にとって「父」(という概念)に抱く感情はなみなみならぬものです。ロダンの子を仮定した上で父ロダンを食い殺すであろう自分を妄想する光太郎からは、「戦闘の対象としての意味を持たない」父の像は見え辛いように思います。
[…]×××女史と、おもしろい珈琲店へ遊びに出かけようとする高村が、日本、東京、駒込、のちっぽけなあばらやから、フランス、パリにあてた「身体を大切に、規律を守りて勉強せられよ」という手紙をうけとったときの衝撃は、父親が夜の目もみずに稼ぎためた金をだましとって、ブルジョワ息子と遊び呆ける貧乏人の息子の心理と同じものであった。もちろん、芸術というものが豊富な物質的基盤と、閑暇のうえでしか開花しないものであるとするならば、芸術を志す貧乏息子は、りちぎものの父親の金をだましとっても、ブルジョワ息子を範とするよりほかない。それでは、自分はおよばぬまでも、息子だけは――という発想をするこの父親は、否定されねばならないか。むろん、そのいじらしい心理が否定されねばならないのだ。わたしのみるところでは、あからさまにこの問題にぶつかった留学は、近代文学史のうえでは、高村光太郎だけであった。おおくの学問的留学と芸術的留学と遊び人的留学のあいだで、社会的留学をやったのは一介の歌人・美術学生であった。この貧乏息子は、いじらしすぎる父親を否定するとともに、ブルジョワ息子にも昂然と対峙しなければならなかった。高村に父親−息子のコンプレックスをつきつめさせたのは、西欧と日本との眼もくらむばかりの文化と社会と人間意識との落差であった。ここから、ロダンを芸術家とすれば、父光雲は職人であり、ロダンを芸術上の血族だとすれば父光雲は憎悪すべき敵であり、しかも、光雲と自分とは肉親の父と子であるという宿念がうまれざるをえなかった。このような宿念からは、種の問題が誕生する。高村は、ロダンは西欧近代の嫡子であるが、自分は、どうしようもない辺鄙の異人種であるという劣等感からも、腹背をつかれることになった。この種の問題は、ただたんに文化的落差の自覚からもうまれるだろうが、父と子の背反をくぐることは、多くの留学がたどらなかったと思われる経路である。[…]
人類(ホモ・サピエンス)である生理的な、または心的な構造の同一性によって、東洋人と西洋人のあいだに了解不可能がありうるはずがない。また、その文化に不可解な差異がおこるはずがなく、共通の論理、共通の思考法が存在しないはずがない。ところが、もしも、一定の規制力にそってこころが働いているときは、東洋人と西洋人のあいだばかりでなく、ブルジョワと貧民のあいだにも、また、隣人や男女や肉親のあいだにさえも、了解不可能は存在しうることは自明であろう。わたしたちが、こころの働きとして、世界的共通性、了解不可能性を真であるとみるか、また、一定の規制力、一定の意識内の目的をもった場合の、隣人さえも了解できないという心の働きを真とみるかは、容易に決定しうるものではないかもしれないが、すくなくとも、このいずれかが一方のこころの働きにたよって、一方を脱落することは不可能である。たとえば、西欧の生活様式になれ、西欧の気候や習慣になじみ、西欧の発想や論理を理解すれば、もうじぶんは西欧人とおなじ通行手形を手にいれたと錯覚できる精神構造はありうるだろう。しかし、かれは、もうひとつ、隣人さえも肉親さえもそのこころの働きを理解できないという第二の眼で、西欧をみなければならぬ。一定の意識の目的をもってこころを作動させねばならぬ。おそらく、ほとんどすべての留学は、第一の眼でおこなわれた。少数の留学は、第一の第二の眼でおこなわれた。このいずれが、大きな比重をしめるかは、かれの(後進社会の優等生の)心因の質によってきまるのである。高村が、かれら(白色人種)の手の指の微動すら理解できないとかいているとき、その絶望感には、いくぶんか誇張があるとかんがえられないことはあるまいが、高村に、この西欧人にたいするまったくの「了解不可能」を強いているのは、特定の方向に規制された心因であり、それは、父光雲の方向に形成される心像が、光雲にたいする排反意識によって阻止されてしまうところからくるものであった。この場合に、高村にとって、父光雲は、日本の社会や文化や、父と子の環境や、その社会で流通する考えかたの集中された、ひとつの象徴の作用をなしている。高村は、ロダンの作品が、まるで血肉のようによく了解でき、親近感をもちうるというのを手がかりにして、芸術だけは、人種とか、こころの障壁とかをこえた何かではないかとかんがえている。
(吉本隆明「高村光太郎」)
子を思う父の「いじらしい心理」が否定されねばならなかったのはなぜでしょう。光太郎にとって、父=東洋的日本的=前近代的=職人的象徴である光雲による心理的干渉(=「いじらしい心理」)は、光太郎の信奉するロダン=西洋的=近代的=芸術的象徴と相反するものからの干渉とイコールです。そして、職人=光雲の立場から抜け出し、芸術=ロダンの立場を選択し勉強する光太郎にしてみれば、遊び呆けるブルジョワ息子も当然否定の対象と考えられます。
したがって、吉本の言を引き合いに考え、光太郎には二人の父がいると理解できます。ひとりは肉体的・血縁的父である光雲です。彼は幼少時の光太郎にとって絶対的な存在であり、留学と前後して乗り越えるべき障壁となりました。もうひとりが精神的・芸術的父であるロダンです。彼の作品は美術学生時代の光太郎に今までにない衝撃を与え、光太郎の目指すべき芸術の進路を決定付けます。つまり、光太郎にとって「父」(という概念)とは、光太郎自身に拭えないほど強く影響を与えたもの、と言い換えることが出来るように思います。
後半、吉本の言う「第一の眼」と「第二の眼」とは、それぞれ、「西欧文化の理解(第一の眼)」と「西欧文化を理解している(つもりである)自分は理解されないものであるという自覚(第二の眼)」と換言出来ます。吉本は、これら二つの「眼」が心因の質によって割合が異なると言っています。思うに、光太郎は「第一の眼」から「第二の眼」へ極端に移動したのではないでしょうか。あるいは、二つを同時に使い分けていたというよりも、常に大きく二つの「眼」のあいだを振れていたとも言えるでしょう。そのことは女性と一晩楽しく過ごす経験から、翌朝自分が日本人であることを鏡の中で発見してしまうかのような極端さに見出せます。
光太郎は自身を肉体的・精神的に形成する二人の「父」を相対化した視線で発見し、相対化した視線で物事を見てしまう自分が何者にも理解されない――独りだ!――人物であることを強く自覚したのでしょう。
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光太郎が「父」という対象を自らから切り離し、対象化することで改めて「父」の影響下にあることを意識させられてしまいます。それは、血縁的なものであり、幼少時から自分を形成してきた日本的前近代的職人的象徴=光雲の影響です。また、自身の中の「父」を意識するきっかけとなった留学経験では、同時に西欧文化の理解≠感得を見せ付けられ、西洋的近代的芸術的象徴=ロダンが光太郎の「近代の精神」(伊藤信吉)を形作ったにもかかわらず相対的に対象化されてしまいます。鈴虫のたとえより、怪物的なまでに「父」を食い殺そうとする自らの情念を自覚した光太郎の芸術に傾ける信念は、かぎりなく私的な題材から構成された「父の顔」という詩を、普遍的な父子関係にまで押し広げることとなりました。
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