[流体枷仔]

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Posted on 18:15:43 «Edit»
/について―――葛西佑也『みをつくし』「きみが生まれるずっと前から、ぼくはその国境線を知っていた」から

あゝもう行かなくちゃ 秋が来るから (hyde「夏の憂鬱」)




さて葛西さんです。葛西佑也さんです。

葛西さんと言ったらスラッシュ(「/」)、スラッシュと言ったら葛西さん、というのは言い過ぎだとも思いますが。

たとえば、こういう使い方です。

美しいものたちでみちている(気がする/した、
[・・・]
いたい?いたい?/あのひとは無痛病だった/かもしれない。
葛西佑也「きみが生まれるずっと前から、ぼくはその国境線を知っていた」、特に断りのない注釈は以下すべて本作からとする



「美しいものたちでみちている(気がする/した、」という表現からはたとえば、「美しいものたちでみちている」、「美しいものたちでみちている気がする」、「美しいものたちでみちている気がした」という3つのイメージが並列されるのではなく、1つにまとめられています。異なるイメージがひとつのフレーズへと圧縮されているようです。

「いたい?いたい?/あのひとは無痛病だった/かもしれない。」では、前半の「いたい?いたい?」という過剰な反復を「/」で切断し、対照的である「無痛病」という言葉を導いています。後半の「無痛病だった」と「無痛病だったかもしれない」は「/」で、さきほどの<ワンフレーズへの圧縮>とおなじです。

もちろん、とじられないパーレル「(」とスラッシュ「/」には、それぞれ別のイメージが読み取れると思うので、「みちている」と「みちている気がする」の圧縮と、「気がする」と「気がした」や「無痛病だった」と「無痛病だったかもしれない」の圧縮は、異なるものだと思うので、上述はちょっと雑でしたね。

余談ですが、わたしの個人的なパーレルとスラッシュの使い分けですが、パーレルがその直前のワードやフレーズに「埋没」されている何かを剝きださせるものであるのに対して、スラッシュはその直前のワードやフレーズではないものも「書かれ得たかもしれない選択肢」としてあったことを示しているようにおもひます。

「美しいものたちでみちている(気がする/した」を、わたしのパーレルやスラッシュの読み方で読んだとき、「美しいものたちでみちている」という言い切りには、こうした言い切りは主観に過ぎない(「みちている気がする」)という語り手の気持ちが埋没されていることをまずは読み取ります。そして、主観に過ぎないことが明かされるも、回想的に振り返ってみるとそれは現在と違う捉え方(「みちていた気がした」)だと自覚している語り手が更に読み取れます。

仮に、わたしのこうした読み方のとほりに読まれることを意図して「美しいものたちでみちている(気がする/した」というフレーズが書かれたのだとして、ではなぜ、このような書き方でなければならなかったのか、あるいはこのような書き方だからこそ発揮しうる効果とはなにか、といったことが気になります。

閑話休題。


では次に、文学極道で葛西さんが投稿された作品についたレスやそれへの葛西さんのレスレスのうち、スラッシュや記号の使用について触れたものをピックアップして、ほかの人がどんな風にスラッシュを読んでいるのか確認してみましょう。

言葉を恣意的に分解してみせることで、コミュニケーションがうまく機能していない様を表現している件。
K,y「きみは国境線という概念をもたずに、それをこえていった」へのミドリのコメント(http://bungoku.jp/ebbs/20080818_005_2970p)



これは先に述べた切断についてと似てますね。ただ、このレスのついた作品では表記をローマ字にすることで、切断よりばらばらに「分解」されています。

「/」の使用。散文詩だからかもしれませんが、今回は僕はあまり効果的に機能しているとは思えなかったですね。流れが躓いているような気がするし、読み手の視点というか、拠り所がブレる感じになると思いますが、少なくとも今回はその揺れはあまり心地良いものとは僕は感じられなかったです。
葛西佑也「コンプレックス」へのToatのコメント(http://bungoku.jp/ebbs/log.cgi?file=57;uniqid=20060923_724_1566p#20060923_724_1566p)



流れの躓き、読み手の視点やよりどころのブレ、揺れ。こうして指摘されている点は、わたしが圧縮と読んだポイントと似ていました。つまり、フレーズから受け取るイメージがひとつにならないまま提示されている。

スラッシュごとに途切れる語り、そのつまずきのリズムが、うまく
読み手を作品の世界に引き込んでいると思います。
葛西佑也「ホスピタル」への軽谷佑子のコメント(http://bungoku.jp/ebbs/log.cgi?file=82;uniqid=20070512_301_2061p#20070512_301_2061p)



途切れる語り、つまずきのリズム。こうした読みづらさ・読みにくさというものが、語り手の語ろうとしている物事の語りにくさとあいまったとき、読み手は語り手の思考を追体験し得るかもしれないですね。どうですか。

書けることと書けないことが混沌と混ざってて
虚虚実実というか。スラッシュというのは
言葉の境目ではなく 表と裏という感じですけど。
[…]
が スラッシュをいれると 違ってみえるんですね。
完成した絵に線を斜めに入れて 宇宙というか外界を
感じさせるものをみたことがありますけど。
おだやかな水面下の底なしの泥沼かな。
葛西佑也「ホスピタル」への砂木のコメント(http://bungoku.jp/ebbs/log.cgi?file=82;uniqid=20070512_301_2061p#20070512_301_2061p)



このコメントは先ほどの余談と近いなあ、と勝手におもっています。つまり、スラッシュという記号を用いて文末を並列させることで、語り手の語れなさが浮かび上がる、と言いましょうか。同じ文の文末だけ変えたものを並べるのではなくて、スラッシュをつかってそれらをムリヤリならべることでいやがおうにも目につく「/」自体が、語り手の語りたいものだったのではないだろうか、などと思ってみたりします。

スラッシュの使い方での、二重的優柔不断な部分
葛西佑也「ホスピタル」への平川綾真智のコメント(http://bungoku.jp/ebbs/log.cgi?file=82;uniqid=20070512_301_2061p#20070512_301_2061p)



優柔不断。まさに、選択肢から何かを選びえない状況なわけです。選べなさそれ自体を見せつけてきますよね。

気になるところは、葛西さんのオリジナルかもしれませんが、
>みちている(気がする/した
こういう表現、色々な角度から見えて、多様なように映りますが、
言葉の責任回避のようで、
像が、ぐらぐら揺れている様で、芯がないように見えます。
葛西佑也「きみが生まれるずっと前から、ぼくはその国境線を知っていた」への前田ふむふむのコメント(http://bungoku.jp/ebbs/log.cgi?file=90;uniqid=20070629_558_2162p#20070629_558_2162p)



言葉の責任回避、像が揺れて芯がない。これらも本作を読めばわかるように、確定できない・語れないことというテーマ――生まれてくるまでは自分ではないなにものか「かもしれない」!――で、そうしたものを表現する手段としてスラッシュを用いています。語り手の語りの「ぐらぐら」がテーマとばっちしあってますね。

言うなれば、スラッシュもアスタリスクも文法です。
文法って流動的なもので、
広義にはきっと個人個人、自分の文法を持っている。
意識的であれ、無意識的であれ。
ですから、スラッシュもぼくには文法的に用いているわけです。
具体的には、テンスのずれであったり
テンスを確定しきれない場合。
これはアスペクトに関してもいえるかも。
ただいつもそうだとは限らないし、変わるかもしれないですし。
そこはやっぱり分からないのです。自分でも。
葛西佑也「てんの桜/地の子宮」への久米一晃のコメント「葛西さんにとってスラッシュの使用ってなんですかね?」に対する葛西佑也のレスレス(http://bungoku.jp/ebbs/log.cgi?file=217;uniqid=20100406_925_4298p#20100406_925_4298p)



最後は葛西自身のスラッシュに関するコメント。テンスやアスペクトの定まらなさのほかにも、ムードのブレをあらわす使い方もあるような気がします。ほかに、フレーズを句点で停止させつつ接続詞で駆動させることもありますね。


では、いまさらながら、スラッシュ「/」ってそもそもどんな風に使うものなんでしょうかね。見てみましょう。


詳しくは、みんな大好きWikipediaでスラッシュのページを見てほしいのですが。

1)日付:09/01(9月1日)
2)数学:1/3(3分の1)、〇km/h(時速〇km)
3)接続:A/B(A or B または A and B)、東京/羽田(東京都の羽田空港)
4)改行:雨ニモマケズ/風ニモマケズ(本来は2行で書かれている)

とりあえず、わたしが気になったのはこのあたりです。

これらのうち、1と3が葛西さんの作品(と言おうか、多くの「文章表現」)に用いられている「/」の理解の仕方として、多くの読み手が援用されているのではないかなぁ、と。

ことばや文章が「ばらばら」になっている、切断されているような印象と捉えて読み進めるときは1、確定できない「ぐらぐら」な感じ、異なるテンスやアスペクトがひとつのフレーズに圧縮されていると捉えられたときは3。

つまり、「いたい?いたい?/あのひとは無痛病だった」のスラッシュは1、「無痛病だった/かもしれない。」は3のスラッシュの用法を、それぞれ援用しているのではないでしょうか。わたしはしてる気がする。

でもこういうのもある。

じめじめ じめじめ じめじめ/ん



これは直前の水分のことを指す「じめじめ」が、「じめ」の音から導き出される「地面」を召喚するために「じめ/ん」という表記をしています。

こうした言葉遊び・音遊び的なものも、「地面」のなかに水分(「じめじめ」)が存在することを示し、続くイメージが地面から生まれる生き物だったり、捨て犬が渇きを癒す水たまりだったりしていて、音・表記・描かれているもののイメージがゆるやかに連関していて読んでいて心地よいです。スラッシュ使用例1~4のどれにもあてはまらないけれど。

ほかに、

もういちど、うまれてくる日。/は、小犬かもしれない、異性かもしれない、外国人かもしれない、かもしれない、かもしれない、かもしれない、かもしれない、かもしれない、かもしれない、かもしれない、かもしれない、かもしれない、かもしれない、
/? 、小犬の死骸に、母乳をあたえる、昔母親だった女

/に
「セイヘロートゥー
いつかの親友
  /セイ、



冒頭に「スラッシュ」って……。しかも、疑問符だけとか助詞だけとか……。

散文の聯にある「うまれてくる日。/は、小犬かもしれない」は、体言止めで「もういちど、うまれてくる日。」を強調することと、「うまれてくる日は、小犬かもしれない、」に続く確定できない「かもしれない」の連打につながる。停止と駆動を圧縮し、立ち止まりながら加速していくような読みを促しています。

末尾の「かもしれない、」から、次に改行して1行のみ、そして聯をまたいで最後の改行詩に続きます。

この「かもしれない、」から改行して1行だけの冒頭と、聯をまたいだ最後の改行詩の1行目の冒頭とが、どちらも「/」から始まっています。

はたして、このスラッシュは必要なのでしょうか。

スラッシュだけでなく、ひとつのフレーズを改行や聯でまたがせることの効果なんかも考えなきゃいけないので、ちょいと手にあまるというか、だいぶ手に余るんだけど。

とりあえず、改行や段落・聯を改めた場合、それまでの流れや塊をひとまとめにして対象化し、接続語や指示語で扱えることがありましたよね。それを援用してみたいと思います。

そうすると、「/? 、」というのは、その直前まで10回も唱えられた「かもしれない、」の連打に疑問符を乗っけている、というように言えるかなと思います。この疑問が、語り手の語りかけている他者なのか自問自答なのかで読みは変わると思います。

ちなみにわたしは、疑問符の後に読点があることから、小犬の嘔吐から始まったうまれ直しという妄想が暴走していくも唐突にぷつっと途切れて(この暴走が途切れることを改行で表しているものとして)、目前の現実を認識する流れにつなげるためのブリッジとして自問自答しているのかな、と読みました。

もうひとつの「/に」は、聯をまたいでいるとはいえ直前の「昔母親だった女」という体言止めで終わった行を、もういちど駆動させてエンディングにつなげているように見えました。さっきの「うまれてくる日。/は、」と同じようなつなげ方ですが、聯をまたいでいるぶんだけ、こっちのほうがより強い停止ですね。

バスケのドリブルでディフェンスを抜くときの技にストップ&ゴーってありますよね、ああいう動きを読み手の読むスピードのなかに捻じ込んできているようにおもいます。


ところで、音楽みたいに文章を書くことは出来ないだろうか。

イメージが重層的であるとか、バフチンの「ポリフォニー」であるとか、そういうことではなく。鑑賞の感覚器官に同時に複数の情報を与えるにはどうすればよいだろうか、という疑問をもっていました。今も割とある。

たとえば、今この文章を読んでいる方はこれらの文字列を左から右に目を動かしているとおもうのですが、目からひとつずつしか情報は得られないとおもうのです。音楽はその点、複数の楽器が混じったものとして作品ができあがりますよね。料理とかもそうですね。

ni_kaの用いている絵文字を多用する方法だったり、タイポグラフィや文字にカラーリングしたりフォントを変えたり。吉増剛造みたいな割注やルビを使う方法もありますね。

わたしがスラッシュで書かれているものを圧縮という言葉で呼んでいるのは、こんな疑問を解決する方法として自分がスラッシュを使ってきたっていうのもあるような気がします。

そいや、スラッシュについて書くのってこれが初めてじゃありませんでしたね。→望月遊馬『海の大公園』[しろい鸚鵡]小考


おわりにかえて、境界線=スペクトラム、アリーヴェデルチ

アンケートとかで「a/b」に丸を付けろって言われたら「/」に丸をつけるようになったのはいつ頃か忘れましたが、まあ、なんというか、勝手に区分すんなようるせえなこのやろおみたいな気持ちから、こういうことをし始めたような気がします。

何かと何かが並べて置かれているだけでは気づきもしない境界線、あるいは本来ないと思っていたところに引かれる境界線。

国境線が引かれることでその線のこっち側とあっち側が意識される。妊娠線が出産をしたことのある者とない者とをわける。はたして、ほんとうに?

並べられた選択肢、あっちでもない。こっちでもない。選べない。そのどちらでもある、どちらでもない。

『ジョジョの奇妙な冒険』のジッパーをモノや敵にくっつけることで相手をばらばらにする能力をもつスティッキ・フィンガーズは、文字通り境界線を相手に押し付けて、対象をムリヤリ分けてしまうスタンドです。境界線というのは、こんな風に、線の向こう側とこちら側という風に、ある意味暴力的に仕分けてしまう。

一方でこんな考察があります。スティッキィ・フィンガーズをスタンド能力とするブローノ・ブチャラティにとってジッパーは、ばらばらになった家族をつなぎとめたいとか、話をしてくれない父の心を開きたいとか、そういう心の奥にある思いが能力として発現したんじゃないか、というもの。

そこに境界線が、スラッシュがあることで、線のあっちとこっちがつながったら、線のあっちとこっちに分けただけでは見えなかったものが見えるようになったら。暴力的に仕分ける装置としてでなく、あっち・こっちのどちらにも確定できないということそれ自体も飲み込んでしまうようなスペクトラムのような「/」。

この視点から最後に読み直してみてください。

/に
「セイヘロートゥー
いつかの親友
  /セイ、



いつかの/に、セイヘロートゥー!!


case

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