[流体枷仔]

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Posted on 17:17:26 «Edit»
2007
08/10
Fri
Category:【漏洩】

望月遊馬『海の大公園』[しろい鸚鵡]小考 

望月遊馬『海の大公園』[しろい鸚鵡]小考
望月遊馬[しろい鸚鵡]@poenique「ぽえ。」




表記に注目して。



漢字
「鸚鵡」・「花」・「病床」・「羽」・「宇宙」

ローマ字
「kasigeru」・「hane」

記号
「/」(半角スラッシュ)・「 」(全角スペース)

上記以外すべてひらがな



望月遊馬[しろい鸚鵡]は不思議な詩である。詩中の登場人物は、命の炎が今にも燃え尽きてしまいそうな「はは」と、その「はは」の命の象徴もしくは死の象徴のような「鸚鵡」。そして詩中に表れはしないが「はは」「鸚鵡」を眺めている〈話者〉の存在がうかがえる。
内容は「はは」と「鸚鵡」の不思議な関係を縦糸横糸とするならば、〈話者〉の視線はところどころタペストリーに穴を穿つ、裁断、のような味付けになっている。病室に眠る母と、病室で飼われている鸚鵡を、〈話者〉の目が捉えることで、これらは「はは」と「鸚鵡」となり、我々の背後で静かに横たえている命の(もしくは死の)「hane」を降り積もらせる。



 ここでは内容もさることながら形式に偏重して読んでみたい。この不思議世界は意味を味わうだけで十分楽しめる詩であるように思う。極端なひらがなの多様、スラッシュや空白といった一般の言語コードでは意味を持ちえていない記号の頻出、ローマ字の特異さ、これらを詩の表現に採用しなくとも不思議世界は構築されうる。事実、『海の大公園』に収録されている多くの詩は散文形式であり、このことは視覚的な詩表現を用いずとも詩が書けるという作者の思いの表れではないか(というのは深読みが過ぎるかしらん)。

 見開きで2ページ分の[しろい鸚鵡]を目で見た第一印象は、“白”いであった。この詩は“白”でできている。そのことは上述した漢字表記の少なさに起因し、夥しいひらがなに加え記号の頻出は、視覚的作品世界全体に“白”を呼び起こしている。この“白”との対比として置かれているのが「鸚鵡」である。重要なキーであるとともに、画数の多さが異彩を放っている。“白”は「鸚鵡」を召喚する為だけに表出し、翻って「鸚鵡」の画数的な“黒”が他のすべての文字を視覚的“白”へと還元している。

 このことは一見この詩の内容となんら関係の無いように思えるが、病床の「はは」を取り巻く世界は〈生/死〉であり〈夢/現〉ということは、「はは」はその境界線で「こんこんとねむりつづけて」いるのかもわからない。〈“白”/“黒”〉の境界線、それは灰色のような中庸としてのイメージではなく、〈自/他〉の区別方法と同じだろう。当事者にのみ判る識別。第三者から見ればどちらも〈他〉と一蹴されうるような、不安定なもの。〈「はは」/「鸚鵡」〉をイメージしたとき、〈話者〉はそれらを区別しない。区別できないのではなく、しない。その必要が無いからだろう。



 何故区別する必要が無いのか。

-quote-
やつれた /ははに
やさしくしてくれる しろい鸚鵡/
はは は にんげんなのに
鸚鵡は /ははの てを ついばむ
-unquote-

第一聯冒頭。「はは」と「鸚鵡」を対比的に描き出しているのが判る。人間と鳥という関係を超えて、ついばまれるものとついばむものとわかる。「ついばむ」がここでは、「鸚鵡」の行なえる不器用なやさしさととらえられもする。が、人間が手で触れて何かを触覚で認識するように、動物は口でそれを行なう。口はもともと食事の為の器官であれば、この「鸚鵡」の行為はやさしさの裏に「はは」を自身へと取り込もうとする邪悪さが見て取れる。

-quote-
もう ははのたいりょくでは/ 鸚鵡を
かたに /のせているだけで くるしく
よる/あえぎがひびく/kasigeru鸚鵡がそこにいた
鸚鵡は ははの いのちの /おもさでもある
-unquote-

 一聯の終わりでは、「鸚鵡」は「はは」の肩に乗っており、視界の共有めいた印象をもつ。「はは」は「鸚鵡」を肩に乗せていることに苦しさを感じているが、それは「やつれた」自身の命の重さに対する不信感であろう。「kasigeru鸚鵡」は自身の命に対する疑問を表し(それゆえ、「kasigeru」と命に対する疑問それ自体が、意味を持つ前の音のまま表出しているようにローマ字で表され)ている。

「そこ」とは何処であろうか。底か其処か。「はは」の「底」に命の重さがあるというのはどこか判りやすく、その重さに耐えかねているのは、これ以上沈むことのできない限界を自分の中に感じているからだろうか。「其処」であれば、指示されている箇所は肩であるだろう。しかし、〈話者〉はもっと他の地平に視線を遣っているように、目の前の肩に対して「そこ」と云っている。手が届く範囲ではなさそうである。

「はは」と「鸚鵡」の二つを柱としてストーリーが進むかと思いきや、さっそく交錯する。



-quote-
しろい/haneが はらりとまうと
ははの とおいきおくの/かれはが
すこしずつ /ほのじろく /ほのじろく

てんてきのしずくが
はらりと/
たたみに
-unquote-

 第二聯終盤から第三聯。

 「しろい鸚鵡」の「hane」は、当然“白”いのだろう。「はは」の記憶が「はらりと」舞ってしまいほの白くなるのも、「hane」とイコールで結べるように読める。「hane」を落とし体重が軽くなる「鸚鵡」と、思い出を枯葉のように白く零していく「はは」とに、〈いのち〉としてのつながりがあることは違いが存在しないことのようだ。

 次の聯では「てんてきのしずく」が「hane」と同じように「はらりと」落ちてしまっている。「はは」の命の重さ、命を支えているかのような「鸚鵡」が「てんてき」であれば、「ついばむ」こととは逆に「はは」が自身の内部へと「鸚鵡」を取り込んでいくという構図となり、なかなか面白い。 交錯した「はは」と「鸚鵡」は一体化していくように、溶け合っていく。

 しかし「たたみに」落ちてしまっているのであれば、命が力尽きてしまったかのようでもある。



-quote-
ははのまどろみ /のかなたに
ちいさな 花が/
いちりんの 花がさいていた
わすれかけていた はらっぱのちちゅうに/
かくれるように /わらう
いちりんの 花が/
-unquote-

 第四聯。

 「たたみ」へと染みこんでしまった「てんてき/(hane)」は、その中で「花」となっている。一輪の花は「はは」のまどろみのなかで咲き、〈夢/現〉の境界線を漂う。いや、もはや「はは」自身が境界線であるかのようだ。未だに忘れ切れていない「はらっぱのちちゅう」、心の奥深くでひっそりと笑っている、(孤独?)、解き放たれているかのように、「いちりん」で(一人で)、「はは」はまどろんでいくのだろう。

 第一聯では「ほしの かなた」という言葉があり、そこには「ははの//ほし」があった。遠くに見えた自身の星を、まどろみにまで引き寄せて「花」であると確認した。「まどろみ」の先には何があるのか。



-quote-
そのひのあさ
しろい鸚鵡はしずかに
しんだ
-unquote-

唯一つ、スラッシュも空白も使われていない第五聯。

 境界線は消え去った。「鸚鵡」の死は「いのちのおもさ」の死でもある。「さみしいよる」が明け「あさ」に死んでしまった「鸚鵡」は、「さみしいよる」の死でもあるかのようだ。

 「まどろみ」のなか漂い続ける「はは」は、死ねないのではないか。夜が明ければ必ず朝になる。つまり、朝になれば必ず夜が死ぬ。では、朝が生まれ夜が死ぬその刹那にはいったい何があるのだろうか。境界線だろうか。いや、境界線は消え去った。



-quote-
鸚鵡のひえたからだを/
はは /は
病床でだき 鸚鵡の羽のなかの/
いちりんの 花をみつけ/た
haneにうもれて /はらっぱのよう
鸚鵡こそ いちりんの花を/
だく/
たっらひとつ/の 宇宙であったのだと
-unquote-

最終聯。

 死んだ「鸚鵡」を抱く「はは」。そして「鸚鵡」は「いちりんの花」を抱いている。では、「はは」は誰に抱かれているのか。「宇宙」以外に何があろう。「はは」は「花」を引き寄せ、自身をそこへ辿りつかせた。その「花」が、つまり「はは」が「鸚鵡」に抱かれており、その「鸚鵡」を「はは」が抱いている。私たちは地球上に住んでいることから、「宇宙」に包まれていることは(実感としては難しいことだか、知識として)理解できる。そして、それは同時に私たちが「宇宙」を抱いていることでもあったのだ。私たち自身が「宇宙」であったのだ。

 〈「鸚鵡の羽」〉と〈「鸚鵡」の「hane」〉の違いはなんだろうか。前者は物質的なものに過ぎず、後者は精神的なものなのだろうか。確かにそう考えることで、肉感として「鸚鵡」を抱くことと、心の中の記憶やこれまで経てきた〈環境〉との差異(ギャップ)が生まれ、この詩の読み手としては若干のポーズを要請される。一瞬意味がわからなくなる。(この意味のわからなさが、作者の狙いであり、「宇宙」であるのだとしたら、読み手は無意識にその片鱗を食み、わけのわからなさを咀嚼しながらこの詩を読み終わるのだろうが、ここではこれ以上深くは触れないでおこうと思う。表記の意図的なズラしは私も行なうものだが、読者にポーズを要請することと、楽譜で言うような休符やブレスとしての役割とでは大きく違うようにも思う。此処では私は前者のように感じたが、それの是非については大して興味がない。(:メモ)

-quote-
これから /れんめんとつづくまどろみ/のなかで
はは /は
こんこんと ねむりつづけている
こんこんと ねむりつづけている
-unquote-

「宇宙」を抱き、「宇宙」に抱かれる。抱いている「宇宙」に抱かれ、私を抱く「宇宙」を私が抱く。「宇宙」が「宇宙」を抱き、抱かれているのならば、そこに境界線は存在し得ない。「まどろみ」が〈夢/現〉のスラッシュであったように、線を越えれば即別世界という関係は無くなった。どうなったか。スラッシュを際限なく引き伸ばし、各辺無限大の平行四辺形のようなふろしきで〈夢〉も〈現〉も包含してしまうような世界へと辿りついた。したがって「はは」は「まどろみ」のなかで「ねむりつづけてい」られるのだ。

 〈“白”/“黒”〉の対比も同様に考えられる。夥しいひらがなは白紙の上の黒いインキに過ぎず、画数的に黒い「鸚鵡」は「しろい鸚鵡」である。このように、“白”は“黒”に抱かれ、抱かれている“黒”が“白”を抱いている。お互いが恍惚とした同じ表情であるのは云うに及ばず、スラッシュは引き伸ばされるだろう。

 この詩のタイトルは[しろい鸚鵡]である。そしてこの詩に目を通している読者は、この詩の対称に位置しているでしょう。「ちちゅう」に隠された「わらい」は、あなたも[しろい鸚鵡]に読まれているような、そんな気にさせてくれるはずです。

 「宇宙」は各辺無限大の平行四辺形だったんだ。



参考文献

望月遊馬『海の大公園』poenique



香瀬  拝


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小考ばかりの更新。
書けない雰囲気なので旧作をいじっている毎日。
まあ、それはそれで。

手元にある詩集、
一冊を除いてすべて触れてみたのかな、という印象。
KSK企画の(裏)中心テーマである
詩集を出していない詩人の詩の小考にシフトしようかと企んで。

とりあえず書いてみたいと考えている詩書きは3,4人ほど。

引き続きKSK募集も行っていますので、
お気軽にメールください。

  by case
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小考ばかりの更新。
書けない雰囲気なので旧作をいじっている毎日。
まあ、それはそれで。

手元にある詩集、
一冊を除いてすべて触れてみたのかな、という印象。
KSK企画の(裏)中心テーマである
詩集を出していない詩人の詩の小考にシフトしようかと企んで。

とりあえず書いてみたいと考えている詩書きは3,4人ほど。

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