[流体枷仔]

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Posted on 19:23:34 «Edit»
2014
07/20
Sun
Category:【漏洩】

群昌美・横山黒鍵「レイン 。」小考 

群昌美・横山黒鍵「レイン 。」小考


詩における語り手とは。



硝子のような湖面に映る私を
優しい雨が醜く歪める
              (hyde「追憶の情景」部分)





ポエケットでいただいた群昌美ことsampleさんと横山黒鍵ことにねこさんの連詩集『レイン 。』より、全体を対象に、本作の語り手がどのようなポジションにいるのかということを読み解きながら、詩における語り手ないし連詩における語り手とはどんなもんなのかな、ということを、適当に与太っていけたらいいなとおもっています。

「レイン 。」というタイトルとおり、雨が主旋律として採用されており、ここから

1)水のイメージや、
2)曇天から連想される光/闇のイメージ、
3)雨音から展開される音・音楽・楽器のイメージ、
4)鳥や虫などの動植物のイメージ

などが重層的にかつ連をまたぐごとに変容しながら描かれていきます。ひとつずつ見ていきましょう。特に断りがなければ『レイン 。』からの引用であり、それぞれのページには2聯ずつ置かれておりますので、各フレーズの終わりにページ番号と左右どちらの聯かだけ示します。



1)水のイメージ

窓を打つ雨粒(1右)
孤独の波紋(1右)
音曲の金魚たちが尾びれを震わせて(2右)
金魚はやがて水槽のなかパール色の気泡を吐いて夏の水面を見上げるでしょう(2左)
沈黙のガーゼで縫いあわせた帆布に唇の型取りがいっそう華やかで(3右)
両手いっぱいに窒息のブーケを抱えて沈黙の水路を行く(3左)
あなたの血が水に、街に混ざってゆくとき(3左)
降りしきる語彙(4右)
湧き上がるちいさな泡(4右)
濡れる。(4左)
「紅茶を淹れる。」(5左)
湿った薪が弾ける音(6左)
湯気を吹き上げたケトルから溢れた涙と焦げる匂い(6左)
やわらかい素足を傷つけながら進む直角の海の中(6左)
幽閉された口伝えの汗は鈍く光った(7左)
私は澱を漉く(7左)
朝露に濡れた草原(8右)
温かい涙(8右)
……血液、精液その他諸々(8左)
水分を吸着させるには粉末が有効であるといいます(8左)
涙の一滴に屹立する花の雌しべ(8左)
半睡の目はまだ濡れたままで(9右)
汗で付着した顆粒(9右)
何度も口を漱ぐ(9左)
泥濘む葬列(9左)
水の告別(10右)
澄んだ水を湛えられないから蝶を放つ(10左)
そして常に新しくこぼれるあなたに出逢う(10左)
夜が水を湛えている(12)



ここで扱われている水のイメージは、意味を持つ以前の言葉(のようなもの)をあらわしています。1右では雨粒が孤独を誘い、「蝋付けの翼では手紙が書けません」と語り手である「私」は述べ、「上手くもない歌を歌います」。手紙を書く、という行為が、他者(=「あなた」)とのつながりを求めるために言葉を使用する、ということを表しているのに対して、雨音や様々な楽器の音へと転変していく、歌を歌う、という行為は、「私」のなかで完結している言葉の使用であり、対照的です。

尾びれを震わせる音曲の金魚の口から漏れるものは、色のないマネキンの肌の色にも通じる、色のない気泡に過ぎず、やがて息も出来なくなります。窒息は毒性の強い花となり繁茂し、沈黙のガーゼで縫いあわせた帆布で風を受け、沈黙の水路を行きます。

言葉のようなものだった雨は意味を与えられた語彙として「私」の輪郭を浮き彫りにし、「私」の声帯を震わせる湧き上がるちいさな泡は目に映る事物の輪郭をはっきりさせることができたけれど、それは同じ口形に調律されたもの、嘘のように整えられたほどけやすいものに過ぎませんでした。そこで、「私」は紅茶を淹れます。雨水を飲めるものに調整し、飲む者の好みの濃度に調整=調律できるもので、口内を作り変えようとします。

誰かの言葉だった雨が湿らせた薪で火をたき、気泡のように湯気は上昇し、雨滴のようにケトルの側面を涙となって水は溢れ流れます。水の上/下それぞれの運動。無際限の言語の海を、それでも自分でまかなえる範囲で直角に切り取り、おっかなびっくり自分の言葉を捜します。それは澱=残滓となった肉体の欠片であり、言語が、自分勝手のものでもなく、紋切り型でもなく、己に立脚したもの、として獲得されていきます。

しかし体液となった言葉はそのままでは相手に届きませんから、粉末と混ぜ合わせ、インクをつけた羽ペンで手紙を書くように、絨毯に指で擦り付けていきます。偶然生じた汚れのようでありながら、蜜を見つけた蜜蜂のダンスと同じ8の字/∞のサインは、割り切れない・伝えきれないものであり、相手へ口頭で言葉を伝えるため、なんども口を漱ぎます。

漱いだ水を吐き捨てるように、言葉=水と告別します。孤独の波紋を広げるだけだった雨粒もいまでは演奏のために傘を広げ迎えます。歌からはじまり、呼気を用いた楽器を経由して、偶然に左右されるしかない雨音を演奏する、という矛盾、でもって、言葉を扱うこととする。

直角の海のように湛えてられない、棺に納められた生まれたばかりのあなたとわたしは、四角く切り取られた窓から見える風景、片手で数えられるだけの風景しか引き受けられないかもしれないが、窓は修繕され、n(=あらゆる数字を代入することが出来る)に似たあなたをわたしが窓の内側で待ちながら、終わります。



2)光/闇のイメージ

窓を打つ雨粒が滲ませていく光は微笑みの行方さえくらました<鳥の目の闇(attack)>です。(1右)
雷鳴はあなたの街に届きますか。明滅する電球。その光と闇のあわい。群鳥の影が絨毯を泥土のように染め上げて、(1左)
丁寧にたたまれたひだまりの匂い(2右)
燭台の下で指を編むのです。影を捕まえる為の網を。(2右)
あなたは陽の光を閉ざし燭台の上で美しい足首を灯す。そしてゆれる敬虔な影に落とす眼差しの網は細い指がやがて引き裂く。(2左)
<選別の暗い空(sustain)>にあなたは生まれた。灰色の曲がり角(4右)
黒くなる。(4左)
朝が忘れることを再演する。(4左)
幕間を辿るように夕顔の蔓が掴んだ光(5右)
背骨の残した影から遊離して転調の焚き火を始める。(6左)
わたしの膚の土の冷たさも知らずに火の青さに脅えている。(7右)
瞬時に萎びていく幼心がつきを濁らせて。炎色反応にちらつく、幽閉された口伝えの汗は鈍く光った。(7左)
香気さえ揺るがせない陽光の記憶が梔子の白に映えて眩く、(7左)
純種の光、(8右)
冷徹な鉄を打ちつける音に光を伴って咲く。(9左)
「蝋燭を、<吹き消した。(release)>」
修繕された窓に新しくしつらえた鍵は白銀の蛹。(12)

※ < >で括った語句は( )で括った英単語をルビとして有する。なお、<>と()は引用者が付けた。



雨粒の滲ませる光は雷かもしれないし窓に反射する屋内の電球の明滅かもしれませんが、雨雲の上の太陽が落下する雨粒を照らすことは、狐が嫁入りする時分を除けば、ありません。中空を飛行する鳥であっても雨天は飛ぶことを太陽に近づきませんが、手紙を書くために用いた翼(作品の終わりで<折れた鵞筆(promise)>として出てきます)はイカロスを思わせる蝋付けであり、落下していく雨滴のイメージとも重なります。言葉を用いて飛び立とうとしても、できない。

そこで、同じ蝋を用いた、しかし今度は燭台に置くものとして灯りを得、手紙=絨毯を染める群鳥の影を捕まえる為の網を指で編みます。「私」のこうした行いと対照的に、「あなた」は燭台の上で足首を灯し、つまり夏の水面を見上げるように浮かび上がる気泡を思わせる、熱により上昇する存在となり、影を俯瞰しています。ただ、俯瞰するその姿もまた影を生じさせ、「私」の指が引き裂きます。

上昇した「あなた」は選別した暗い空に生まれるという形で達し、語彙を降らせ、「私」は破けた傘を持ち、語彙にまみれ輪郭を際立たされ、憂鬱で、語彙は「私」に染み入り、歌を歌い、歌うために傘を捨て、事物の輪郭を吐息で包みます。朝が、雨降りを、失語だったことを、忘れさせるかのように、光を夕顔に掴ませるように、「私」の言葉の獲得はあっけなく失敗に終わります。

新たな光を、影を得るために焚き火をはじめ、アルミナを投げ入れ、青い炎色反応を手に入れますが、そこでようやく投げ入れたものが宝石だったことに気付くのでしょう。「私」は「わたし」へと転調し、群鳥の影が絨毯を泥土に模したのに、文字を書き付けるものの温度を知らないまま火に脅えています。一方、「私」は夕顔が掴んだ光を漉いて、新たな自分を生み出そうとしていますが、窒息のブーケだったものを梔子(くちなし)の花、その真っ白な花弁に言葉を書き付けることが出来るのでしょうか。

夜は水を湛えている。文字の黒さで埋め尽くされたかのような時間帯、誰だってそんなに言葉を持ち合わせていない。だから、「蝋」で飛ぼうとしたイカロスが落下した点から「虫」を回収し言「葉」を添えて「蝶」に、「蝋」から「虫」を引き、残った「鬣」は馬となり、ともに窓外の風景を駆け巡ることとなります。したがって、もう蝋燭の光/影は必要ない、だから、吹き消した!

「あなた」は靴紐を蝶々結びにして窓外を駆け巡り、白銀の蛹の鍵は、新たな言葉が生まれるのを待っています。もう、金属を燃して過剰に光を求める必要もありません、修飾のない割物、飾り気のない言葉を、積み重ねることが出来るのです。



3)音・音楽・楽器のイメージ

だから私は上手くもない歌を歌います(1右)
ティンパニが鳴り響く夜(1右)
雨、は誰の足音なの。(1左)
雷鳴はあなたの街に届きますか。(1左)
あなたが好きだった歌は私の指、その木立の奥で誰も濡らすことの出来なかった雨音となります。(1左)
音曲の金魚たちが尾びれを震わせて、(2右)
あなたの歌が私の身体に新たな背骨を成形する。(3左)
どこかで振り払われるオーボエの細い祈り。(4右)
その細い身体でなにを歌えるのかと(4左)
もしかすると同じ口形に調律されていたのかもしれません。(5右)
背骨の影から遊離して転調の焚き火を始める。湿った薪が弾ける音が密談に変わる時、(6左)
口笛で呼び寄せる名前を探す。(6左)
整列したn、の小文字から不確かな拍動を受けて、(9左)
冷徹な鉄を打ちつける音に光を伴って咲く。泥濘む葬列のラッパは錆びている。(9左)
演奏のための傘をさし歩いてゆく。(10右)
雨音がくすぐったくて、(10右)



手紙にせよ歌にせよ、送り手と受け手がいるという点では同じものであり、そうした観点から雨音もまた上から下へ送られ受け取られているものといえると思います。ティンパニという打楽器がメロディを奏でることの出来る太鼓である点から、雨音が何か主題を持っているもののように思え、雷鳴もまたどこかに届くべきものとして書かれています。しかしながら、誰も濡らすことの出来なかった雨音とあるように、誰にも届かなかったことが示されています。

音曲、つまり現代から見たら時代の古い音楽である「私」の言葉、脱皮していくもの。「あなた」が歌う「あなた」の好きな歌で「私」の身体に新たな背骨(バックボーン)が成形されていきます。世界で一番難しい木管楽器、初めてオーケストラに導入された管楽器であるオーボエの細い祈りは、歌とは異なり意味を持たない呼気を使って音を生じさせたものであるのに、結局、また、歌を歌うように調律されてしまっていた、沈黙していたはずの唇。

そして転調(あ、でも「紅茶」で既に転調(「私」と「わたし」の分裂)は生じているよね)。

呼気が音を奏でるなら楽器を使う必要はなく、ラッパは錆びているし、そういう意味で口笛は歌と楽器の中間に位置するものかもしれません。そんな淡いから呼ばれる名前も、遥かと呼ばれた時の中に遍在する様々な行為に凌駕されていくのでしょう。あらゆる名も、単なる呼気やインクの染みに過ぎず、名指し得ない何か(=純粋経験(?))がただ、突っ立っています。そいつは、演奏するためのさされた傘が発した雨音のくすぐりがもたらした破顔であり、そんな風に破れる=割れることのあり得る物(=割物)なのかもしれません。(そう考えると本作冒頭の「窓を打つ雨粒が滲ませていく光は微笑みの行方さえくらました<鳥の目の闇(attack)>」が、求めたものに奪われ、奪われたものが求めていたものだった、という転倒を示していることになります。しかもattackは器楽や声楽の最初の発音でもあります。)



4)鳥や虫などの動植物のイメージ

<鳥の目の闇(attack)>(1右)
蝋付けの翼(1右)
群鳥の影(1左)
音曲の金魚(2右)
その花の名は空のウロコといいます。(3右)
窒息のブーケ(3左)
胎児のように眠りながら(3左)
異形の裸花(4左)
木葉の擦れる音、(4左)
幕間を辿るように夕顔の蔓が掴んだ光は、(5右)
わたしの視点は鳥になる。(6右)
梔子の白(7左)
鳥の肌さえ懐かしい。(7左)
躍動する牝馬の彫像。朝露に濡れた草原。蹴り上げる後肢を緑に染めて。艶やかな後背の毛並み。湿潤な風土を想起させる熱を蓄えた母体。(8右)
薄れてゆく菜の花の香り。(8右)
蜜蜂の八の字が出口を指し示すならゆっくりとその誘いに乗りましょう。(8左)
瓶詰めにした梔子の種子を見つめる。(9右)
ベッドの周りには花が増えて、(9左)
水仙のように、初めて破顔する。(10右)
蝶を放つ、(10左)
物語をしたためることなく<折れた鵞筆(promise)>(10左)
白銀の蛹(12)



鳥の目の闇(夜)→蝋付けの翼(イカロス、墜落)→群鳥の影(上空の光)→わたしの視点は鳥になる(鳥瞰)→鳥の肌さえ懐かしい(地に足をつける)→<折れた鵞筆(promise)>(夜明け)

鳥の動きを追いかけていくことで、メインとなる語り手「私」の変遷を把握できるように思います。言葉の探求、喪失、発見、獲得、失敗、懐古ときて離脱。言葉を使って表現できないことをそれでもなお言葉を使って表現しようとすること、またそうやって表現されたものを、仮に詩と呼ぶのであれば、本作では、そうした詩を巡るプロセスそのものを、詩的に(つまり、言葉で表現し得ないプロセスと見なしたうえでなお言葉を用いて)表現しているように思います。

また先述の蝋燭→蝋=虫+鬣→馬は、手紙→絨毯→土と通じる白紙であり、白紙という草原を走る活字であるように思いました。

音曲の金魚は空のウロコという花へ転じ、植物は夕顔、梔子、菜の花、水仙、と形を変えていきました。それぞれの花言葉は、夕顔が「はかない恋、夜の思い出、夜、魅惑の人、逆境を克服する力」、梔子が「私は幸せ者、とても幸せです、優雅、洗練、清潔、喜びを運ぶ」、菜の花が「快活な愛、競争、小さな幸せ」、水仙が「うぬぼれ、自己愛、エゴイズム」(白色だと「神秘、尊重」、黄色だと「私の元へ帰ってきて、愛に応えて」、ラッパズイセンだと「尊敬、心づかい」)とありました。わたしは、花のイメージは(7左)にあったように、梔子の白い花弁のイメージで読んできたので、水仙も白で読んでいたのですが、直前で菜の花の黄色のイメージと錆びたラッパが出てきたりしたので、(「あなた」に対して)「私の元へ帰ってきて」とか、「尊敬、心づかい」が錆び付いてしまったような初めての笑顔とか、そんな風にも読めてしまいそうでした。

※ 下線部は2014/07/20(21:37)に加筆。



以上、「レイン 。」を4つのレイヤーから成っていると仮定して読み解いた場合のあたしの読みでした。「紅茶」で前半後半わかれるものと思いますが、それまでは「私」という語り手に寄り添い合うように書かれていたものが、「紅茶」以降、「わたし」という語り手を召喚し、連詩という制作が作品の主題もあいまって闘争的な様相を見せているようでした。

あと、語り手については、あんまり、というか、ぜんぜん書けてないですな。うーん。



君の好きだった雨に優しく包まれて
素敵な歌は今でも流れてくるよ

              (hyde「Singin’ in the Rain」)





おしまい

香瀬 拝
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 caseさん、おはようございます! このたび黒鍵さんの厚意で連詩『レイン 。』の冊子を(送料までも無料で)入手し、めでたくcaseさんと同じ土俵に立ちましたので、ご挨拶に伺いました。
 黒鍵さんは詩のみならず字も達筆なんですよ! そのうえ朗読の声も男前で、caseさん情報によれば顔までイケメン、(以下略)

 まずツイッターで伺った、「現物と引用の違いを聞きたい」とのお話から。
 わたしは最初、caseさんの引用編集を前提としてcaseさんのヒヒョーを拝読したとき、
「こんな洒脱な相聞歌に、なんでこんな抽象的な読解なんだろう?」
 と不思議に思ったのですね。
 特に4の変転が、わたしとしては両吟っつうより相聞としか思えなかったので、このような連詩については連歌的連詩のだめさ加減(※後述・偏見)との比較でもって意義を熱弁したほうがよいのではないか、などと(後述の偏見でもって)考えたのでした。
 しかし現物を拝読し、この連詩が事実あきらかに「詩と詩人の対話」のような構造を持っていることがわかり、caseさんの評文に納得したうえで、caseさんの引用編集の絶大な価値を思い知った次第です。
(わたしがcaseさんの引用編集との併読によって解いたこの連詩の内容については、ここでは話がずれますので、自分の記事として書くつもりです)

 わたしは、
「現代連詩は、伝統的連歌と同じく社交の域を出ていない、そのうえ連歌のような式目を設けない乱脈である。身内の寄り合いが即興の発想を競い合って表現を殺し合い、ただ単に悪目立ちしたやつが褒め称えられるといった無作法な評価も目立ち、なんら内容がないため、部外者には基本的につまらない」
 というような、確固たる偏見を持っています。(その偏見の是正ももちろん必要でしょう)
 しかしこの連詩『レイン 。』の鑑賞に際しては、そのような偏見に出る幕がありませんでした。
 連なる詩文が著者おふたりの、まさに鑑賞の応酬であり、即興の遊興とは程遠いものであるように見えたからです。

 よってこの詩はぜひ一編の詩として、caseさんの読解のように構造を解かれるべきだとと考えますが、構造に注目するということは、こまかい修辞に目が行かなくなるということでもあります。
 そうなると連詩本来の本領なのであろう「書き手の交代による変転」の鑑賞が、難しくなるような側面もあるでしょう。
 この著者おふたりは、どちらも修辞の魔術師のような詩人なのだから、構造を読んで付合の妙を堪能しないのは愚行とも言えましょう。
 このジレンマを解消してくれる資料が、caseさんの引用編集というわけですよ。

 わたし個人が最も助かったのは4ですが、1~3も同じように価値ある資料だと思います。
 連歌の十倍の文量、それもこれだけ複雑に絡み合う比喩から飛躍の脈絡を抜き出すのは、やはり困難な作業ですから、ヒヒョーが代行する意義も高いだろうと考えさせられました。

 以上、ひとまずご挨拶でしたが、最後に。
 この連詩へのヒヒョーがhydeに始まりhydeに終わるところに、caseさんの詩人としての矜持を見たように思いました。(了)
  by 澤あづさ
 コメント 
 caseさん、おはようございます! このたび黒鍵さんの厚意で連詩『レイン 。』の冊子を(送料までも無料で)入手し、めでたくcaseさんと同じ土俵に立ちましたので、ご挨拶に伺いました。
 黒鍵さんは詩のみならず字も達筆なんですよ! そのうえ朗読の声も男前で、caseさん情報によれば顔までイケメン、(以下略)

 まずツイッターで伺った、「現物と引用の違いを聞きたい」とのお話から。
 わたしは最初、caseさんの引用編集を前提としてcaseさんのヒヒョーを拝読したとき、
「こんな洒脱な相聞歌に、なんでこんな抽象的な読解なんだろう?」
 と不思議に思ったのですね。
 特に4の変転が、わたしとしては両吟っつうより相聞としか思えなかったので、このような連詩については連歌的連詩のだめさ加減(※後述・偏見)との比較でもって意義を熱弁したほうがよいのではないか、などと(後述の偏見でもって)考えたのでした。
 しかし現物を拝読し、この連詩が事実あきらかに「詩と詩人の対話」のような構造を持っていることがわかり、caseさんの評文に納得したうえで、caseさんの引用編集の絶大な価値を思い知った次第です。
(わたしがcaseさんの引用編集との併読によって解いたこの連詩の内容については、ここでは話がずれますので、自分の記事として書くつもりです)

 わたしは、
「現代連詩は、伝統的連歌と同じく社交の域を出ていない、そのうえ連歌のような式目を設けない乱脈である。身内の寄り合いが即興の発想を競い合って表現を殺し合い、ただ単に悪目立ちしたやつが褒め称えられるといった無作法な評価も目立ち、なんら内容がないため、部外者には基本的につまらない」
 というような、確固たる偏見を持っています。(その偏見の是正ももちろん必要でしょう)
 しかしこの連詩『レイン 。』の鑑賞に際しては、そのような偏見に出る幕がありませんでした。
 連なる詩文が著者おふたりの、まさに鑑賞の応酬であり、即興の遊興とは程遠いものであるように見えたからです。

 よってこの詩はぜひ一編の詩として、caseさんの読解のように構造を解かれるべきだとと考えますが、構造に注目するということは、こまかい修辞に目が行かなくなるということでもあります。
 そうなると連詩本来の本領なのであろう「書き手の交代による変転」の鑑賞が、難しくなるような側面もあるでしょう。
 この著者おふたりは、どちらも修辞の魔術師のような詩人なのだから、構造を読んで付合の妙を堪能しないのは愚行とも言えましょう。
 このジレンマを解消してくれる資料が、caseさんの引用編集というわけですよ。

 わたし個人が最も助かったのは4ですが、1~3も同じように価値ある資料だと思います。
 連歌の十倍の文量、それもこれだけ複雑に絡み合う比喩から飛躍の脈絡を抜き出すのは、やはり困難な作業ですから、ヒヒョーが代行する意義も高いだろうと考えさせられました。

 以上、ひとまずご挨拶でしたが、最後に。
 この連詩へのヒヒョーがhydeに始まりhydeに終わるところに、caseさんの詩人としての矜持を見たように思いました。(了)
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