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10月の記事一覧
Posted on 13:13:06 «Edit»
2017
10/21
Sat
Category:【漏洩】

3-1=2 -- 澤あづさ「ひふみよ。」小考 

遠くで黒く高く煙を上げていた
炎は燃えつき 太陽が貴方を連れてくる

(HYDE「Wind of Gold」)


***

はい、
とゆーわけで、澤あづさ「ひふみよ。」を読むよ読むんだけどもうなんつぅか、読み方とか主題とかがっつり作者が開陳しとるけんねぇ、もうねどうしたもんか。

いや、こういう風に読んだよ(たのしい)ってスタンスではあるんですけどねいつも、

さて、

****

本作の元ネタとか最終稿までの動きとかは澤さんのサイトから見られるんで少しだけ浚ってみました。読んでいく作品は「正書版」ですが、それ以外の作品についての言及もみていくよ。

んで、以下にちょっとまとめる。



主題は「読書」[…](ただその「読書」は「読解」の間違いでした。マッサージも読解ですから。)

「涙」と「恋」は本作の「メインモチーフ」

(澤あづさ「ひふみよ。」につけられたるるりらのレスに対する澤のレスレス、文学極道(http://bungoku.jp/ebbs/log.cgi?file=485;uniqid=20160707_577_8946p#20160707_577_8946p))





「ひふみよ。と指折り数えると、約束の小指が立つ。」[…](という、)いすちゃんの読解を読み「なるほどこれがこの作品の核心だ。」としか考えようがなくなりました。

ひふみよ。もくじ。
ひ。自由詩。『聊斎志異』所収『書癡』の感慨、のふりして七夕の短冊を詠(うた)う。詠(よ)む。
ふ。独自研究。現代の『おさな物語(マビノギオン)』読者は、ウェブのウェールズ語(カムライグ)から誕生する。
み。散文詩。整体屋の『身』から。拇指で彼方(あなた)を読解する。
よ。和歌。指折り数えて、ひいふうみい余(よ)。指切った小指を持て余す。
ひ、顔如玉(たまのようなかお)について、
ふ、顔如華(はなのようなかお)について、
み、三種の偽和について、
よ、三様の和歌について、願わくはその余韻について

(澤あづさ、上述「正書版」、澤あづさの散種的読書架(https://adzwsa.blog.fc2.com/blog-entry-38.html))





目次が特にいいですよね、詩とはいえ、長編になるなら見取り図となるものを示されると読みやすさが変わりますもんね。

で、整理する。



【主題】:読解(マッサージも含む)

【メインモチーフ】:涙、恋

【核心】:「ひふみよ。と指折り数えると、約束の小指が立つ。」

【元ネタ】
 「ひ。」:『聊斎志異』「書癡」
 「ふ。」:『マビノギオン』「マソヌウイの息子マース」
 「み。」:整体師と客、アロマオイルの偽和
 「よ。」:「おろすわさびと恋路の意見きけばきくほど涙出る」




そんで、わたしはこんな風に読んだ。


ひ:読書行為・星座→読解
ふ:表記と表音・差異→詩
み:複数を単数に→詩
よ:項目の配列→読解(そしてそこからはみ出るもの)




よっと、

では、「ひ。」「ひ、」からいってみよー。

冒頭、



眇め。瞑らず、眇眇と。見かぎる横目で見えない片目の、まぶたを縦に見たてる。偏見。泣き濡れたまつ毛がよこぎり、ほつれた傷をよこしまに縫い。綴じた口から、いきが漏れると夢を。やみ。ひらきだす瞳孔から、ひらいていた盲点たちへ、めぐる琴線を星座と呼ぶ。よる。傍訓が降り、読点にまみれて。文脈を打ち曲に解かれて

(「ひふみよ。」「ひ。」冒頭)





「眇[すが]め。瞑[つむ]らず。眇眇[びょうびょう]と。」とあるように、ここでは引用される様々な作品について、「意識的に片寄せた瞳(=眇め)」で「盲目的にはならず(=瞑らず)」「非常に小さいもの(=眇眇と)」まで目を配らせながら読んでいくことが宣言されています。

また書物へ向ける自身の目線を示唆すると同時に、見られる書物もまた目として喩えられているようで(=まぶたを縦に見立てる)、内と外の境目、テキスト(書かれたもの)と読者(読むもの)との境目に生起する作品そのものを表しているようです。

「琴線」と「曲に解かれて」においては明確に、楽器・音楽のイメージに重ね合わせて、自らの感情を震わせたイメージを独自につなげていく読み方(=「曲」「解」)を展開する宣言をしていると言えるでしょう。



空まわる、よみ

渦を、穿つ一行

ミルキイウエイ、牽牛

のの字に、巻き込まれた

星は、織女だった
絶弦した韋編の
きれ目が、眇めた紗の
栞はこと座にあった

書癡の
まぶたの
下樋
ねを、はり
あげる、さか
まつ毛の経


(「ひ。」中盤)





「空[から]まわる、よみ[読み]」あるいは、「空[そら]まわる、よみ[黄泉]」から始まり、読解という主題と七夕伝説(透けて見えるオルペウス伝説)というモチーフが重ねられる。

天の川という天体は棒渦巻銀河と呼ばれる種類のものらしく、「渦を、穿つ一行」から天の川を渡河するイメージを覚え、と同時に【渦巻く知識/Brain Storm】的に、テキストを読みながら読解していく様子が想像できることでしょう。

たとえばこんな、

絶弦[鐘子期[しょうしき]が死に琴の名手伯牙[はくが]が琴の弦を断ち切ったことから=親しい人の死]した韋編[葦編三絶[いへんを三度絶つ]=何度も繰り返し読むこと]

きれ目が、眇[目偏に少=見える範囲が狭い]めた紗[糸偏に少=薄衣、向こう側が透けて見える]

[読みの中断]はこと座[ベガ=織女、ことの持ち主はオルペウス]にあった

そして、

書癡[やまいだれ[人が病気になり床に臥せる]+疑[人が分かれ道にたちどまってのろま牛のようになる、すなわち、「じっと立ち止まってためらう」]、=牽牛]

まぶたの

下樋[したび=琴の胴の空洞の部分、「琴取れば嘆き先立つけだしくも琴の下樋に妻やこもれる[琴を弾いて悲しみを紛らわそうと思うが、手に取ればたちまち嘆きが先立つ。もしや琴のうつろ(=下樋)に亡き妻が籠っているのではないだろうか]」]

[根(の国)/値]を、はり[張る]/(音[ね]を)

あげる、さか[黄泉平坂]

(逆さ)まつ毛[(目を)覆うもの=紗]の経[たていと]

[よこいと、(経緯[けいい、いきさつ])]


すなわち、読解



(中華の栞は顔如玉と詠まれ、カムリは顔如華(ブロダイウェズ)なる梟を詠んだ。書癡の誤読で編まれた妻と、三つの花から偽和された妻、いいか伏線を張るから見おろせ。その梟を詠んだ国は、英語に Wales と呼ばれている。その語源を古英語 Wealh ラテン語 Volcae ギリシャ語 Κελτο? までさかのぼって『よそ者』と読まれている、いいから見くだせ! そのよそ者がその国語に Cymru(カムリ) と、その語源をブリトン祖語 Combrogi (同郷) までさかのぼって『同胞』と。いまだ詠まれている、わかったか。どうでもいいと。どうせだれでもよかったんだおまえも

(「ひ。」結部)





「ふ。」へのブリッジとなる聯。そして、これからどのような詩を展開するか宣言する聯となっています。つまり、「表記と表音の違い」「花の偽和」。同一のものを指し示すのに異なる言葉が採用されたり、同一のものを指し示していないのに同じ言葉が採用されたり。結局のところ受け取る側の--誤読の--読解のことをいっています。

どうせだれでも[--どんな読み方でも--]よかったんだおまえも



、ひ。顔如玉について
、出典『書癡』あらすじ

、彭城の郎玉柱は、琴も酒も碁もおぼえず父祖の蔵書にしがみつく、朴念仁の書癡であった。真宗皇帝の勧学文の写しを、傷まぬよう紗(うすぎぬ)で覆って座右とし、その朗誦を日課としていた。かれは勧学文の説く「書にはすべてがある」との比喩を、文字通りに信じていた。そのため、科挙に落ちようが縁談が破談しようが、思い悩まずにすんでいた

、そのような玉柱の周辺で、天上の織女が逃げ出したとの噂が流れ出したある夜のこと。『漢書』八巻を読みふけっていた玉柱は、書に挟まれていた美女の切り絵を見つけた。紗でつくられた切り絵の裏には、細い字で淡く「織女」と書かれていた。それで玉柱は、これぞ勧学文の謳う「書中有女顔如玉」(書中には玉のような顔の女がいる)に違いないと惚け、以来、寝食も忘れて切り絵の美女を眺める日々を送った。するとある日、突如、美女の切り絵が起き上がり、(以下割愛)

、真宗皇帝の勧学文は、漢詩であり詩歌であって、すでに訓読が書き下されている。「これとまったく反対に、現代の書き手は、テクストと同時に誕生する。」「テクストとは、無数にある文化の中心からやって来た引用の織物である。」「あるテクストの統一性は、テクストの起源ではなく、テクストの宛て先にある。」(ロラン・バルト/花輪光訳『物語の構造分析』みすず書房 pp84-89)

(「ひ、」全文)





ここで確認したいのは、七夕伝説--「織女」の存在が、彦星を抜きにして書かれているのが「書癡」というテキストであり、読者が玉柱=彦星として読解するか、彦星をスポイルして読解するか、とどちらの立場で読解するのか選択しなければならないということです。

「癡」の字より牛を導き出し、「=牽牛」という星座を描くこともできるでしょうし、そういう星座=読解を作者はしているのだろうか、などと想像することが仕向けられる作りになっているように思います。

そして、補遺「ひ、」の末尾に記されている「訓読」についてとロラン・バルト。これらは、読解というものが読書行為(読者)から生まれ、書き手(作者)はそこから逆照射さるるものであり、テキストというものが読者に届くまでに様々なもの(文脈)がこびりついている、にも関わらず統一されてしまうのはそれを読む(読解=星座づくり)するものがいるから、と言えるでしょう。


***


続いて、「ふ。」「ふ、」だよー。

といっても、「ひ。」の結部に散らばっていたものを整理してからにしよう。



(中華の栞は顔如玉と詠まれ、カムリは顔如華(ブロダイウェズ)なる梟を詠んだ。書癡の誤読で編まれた妻と、三つの花から偽和された妻、いいか伏線を張るから見おろせ。その梟を詠んだ国は、英語に Wales と呼ばれている。その語源を古英語 Wealh ラテン語 Volcae ギリシャ語 Κελτο? までさかのぼって『よそ者』と読まれている、いいから見くだせ! そのよそ者がその国語に Cymru(カムリ) と、その語源をブリトン祖語 Combrogi (同郷) までさかのぼって『同胞』と。いまだ詠まれている、わかったか。どうでもいいと。どうせだれでもよかったんだおまえも

(「ひ。」結部)





「マソヌウイのマース」にてブロダイウェズは「三つの花から偽和された」、スェウ・スァウ・ゲフェスの妻となるために作られた存在である、にも関わらず(/否だからこそ)作り手の意図を裏切り・超えていく存在とされる。イカス。

ブロダイウェズは結局作り手に「めっ!」ってされちゃって梟になるんだけど、この梟って字、木の上に鳥の字を略したものが乗っているところから、木の上にフクロウの死体をさらし(小鳥を脅し)ていたことに由来するそうです。そして、フクロウは親鳥を食らう鳥と考えられていたことから「母食らう」「父食らう」からフクロウという音が読解されていたこともあるそうです。そう、つまり、作り手を食らう空虚な存在。

作品に戻ろう、



違う。Lleu は「スェウ」と違う「スァイ」です。blodeu が「ブロダイ」ならば Lleu も「スァイ」それが表音、つまり「花」も「花々(ブロダイ)」ですが。そこは顔如華(ブロダイウェズ)なら当然として。オークを「樫」と言い張りたい和訳のお約束も見過ごすとしてね。ウェブで拾った中野の底本によれば、かれは母のまえで鷦鷯(みそさざい)の足を射抜き、「ys llaw gyffes y medrwys y Lleu ef.」(この光は的を射た腕利きだ。)と称えられたゆえに「Llew Llaw Gyffes」(腕利きの獅子)の名を得たのでした。実名敬避俗の慣例で言えば、「獅子」が字(あざな)で「光」が諱(いみな)、いいえ漢語圏じゃありません。古代ケルトの物語は、なべて口承でしたので、(書きとめられたのが中世なので、中野の訳書の副題が、)位牌に彫られた戒名などは、どういう意味でもどうでもよかった。一説によれば言葉は、特に魔力を持つ詩は────それは上記の表音通り、韻文であり本来の「詩歌」であるので────字に書かれると力を失うのだそうで。墓場なんです「ふみ」というのは、「文」と「書」と「史」のいずれにおいても、ええまあここは日本語ですから

(「ふ。」中盤)





「オークを樫~」のくだりは、地域的なものを勘案すると樫じゃなくて楢だろ的なやつなんでしょうが、それはさておき(まぁ、さておけないけどね(訳出=読解が生じさせる差異なわけですし、

ですしね、

「かれ[=スェウ・スァウ・ゲフェス]は母[=アランロド]のまえで鷦鷯(みそさざい)[wren、鳥の王(とても小さいが他の鳥よりも優れた鳥であることが洋の東西を問わず昔話として残っている)、troglodytidae(穴の中で生活する)]の足を射抜き」とあるように、小さい的を射抜ける・穴(暗闇)を穿てる・王を殺せる実力を持つものとしてスェウ・スァイ・ゲフェスは描かれている(のですか?(「花々(ブロダイ)」としてるのに「顔如花」ではなく「顔如華」としてるのは「華」の象形に「弓のそりを正す道具」が含まれており弓の名手との組み合わせがより印象付けられるからですか?

どうでしょうか?
どうなんでしょうか?

「「Llew Llaw Gyffes」(腕利きの獅子)」ってほかにどんな訳があるのかなってググったら「器用な手を持つ光り輝く(金髪の)人 (http://www.moonover.jp/time/novels/fres/pasttime.htm)」ってのを見つけたよ。パツキンの髪の毛がライオン[Llew(スェウ)]みたいだよねー、というのを本作の独自研究では、「詩歌」においてのみ書き言葉では書き記せない領域の表出でも言わんばかりにスェウ・スァウ・ゲフェスの本質がひかり[Lleu(スァイ)]であることを顕現させています。この本質と向き合えなかった者としてブロダイウェズ=梟を読解しているのはすごいです。



華が光を裏切ったので、太陽に顔向けできないように、梟へ姿を変えられて「永遠にブロダイウェズと呼ばれるように」呪われた。

(「ふ、」終盤)





LlewとLleuが、ただ表記の不統一・誤記に過ぎずそこにブロダイウェズの変身との整合性などといったものが意図されていなかったとしても、現に、このような表記の揺れのまま読者のもとに届いたテキストは、読解という行為を経て読者の中で統一されます。

しかし、意図されたものがそこにあったかどうかというのは永遠にわかりません。「永遠にわからない」ということの「重み」だけをかろうじて知ることができるだけなのでしょう。



現代UKの児童文学『ふくろう模様の皿』は、ブロダイウェズの境遇について、「姿を鳥にされたのに、名が花のままだから、花に戻りたがっている」とみなしている。その同情の背景は、ここで説けるほど単純ではない。「わしがなにを知ってる?……わしは、自分が知っている以上のことを知ってる……なにを知ってるかがわからない……重みだ、それの重みだ!」(アラン・ガーナー/神宮輝夫訳『ふくろう模様の皿』評論社 p126)

(「ふ、」結部)





「ふみ」というのが「墓場」であるなら、こうした「重み」は積み重ねられた文脈をまとったテキストの(読めなさの)ことでありましょう。詩とは、そうした墓石の隙間--琴の表板と裏板の間のような隙間--から漏れ出る光、亡くしたと思っていたものの幽霊なのです。

なーんちゃって。

ところで、



ゴイウィンは顔如華(ブロダイウェズ)ではありません。引用やみがたく語りえない

(「ふ。」結部)





ゴイウェンはマースの足持ち人でのちにマースの妻となる人物なのだけど、(そしてゴイウェンがマースの妻となったので新たな足持ち人に、ということで推挙されたのがアランロドなわけで。つまりアランロドはゴイウェンの後任なわけで。)、どうしてゴイウェン≠ブロダイウェズであることを宣言したのかとおもったのですが、この結部が次の「み。」とのブリッジになっている箇所で、つまり他人の足を手に持ちマッサージする立場が「ふ。」と「み。」の共通項になっているのだけれど、まぁ注目すべきはそこんとこじゃねーから読者諸氏わかっちょるよね?的なサイン、

なの?


***


では、どこに注目しちゃろーかね、「み。」「み、」




「むくみすごくて。肩もすごい凝るんです。あと背中の、」背中の。「背中の。羽が生えるとこ、」隣り合い、向き合わない、肩甲骨たちの内縁から。いつか羽がひらくんじゃないかと、わたしも乙女のころ考えたけれども「妊娠。してるんですけど、」あなたの肩井は傘ではなかった。あなたの血が打つ点字で読んだ。おなかを守るように、腰かけた猫背がなで肩を落とし、ふさぎこんでいた経気の井戸。冷えたバターをとろかすように、拇指を。四秒、まっすぐぬくもりを集めて。ぬかるむ『命の泉』母心がライヴをカウント、ワン。ツー。フォースリーツーワン

(「み。」初聯中盤から結部)





肩甲骨を天使の羽根と呼ぶの、初出はどこなんだろうか。わからないのだけど、女性が鳥に変わるイメージが直前にあったことから、ここでは天使のそれよりも鳥の、梟の、

っていうかね、人が鳥に変身するイメージは、先のスェウ・スァウ・ゲフェスもそうで、本来の目的ではスェウ・スァウ・ゲフェスの妻となるはずだったブロダイウェズは別の男と恋に落ちた結果、スェウ・スァウ・ゲフェスは殺されそうになり鷲の姿になるんだよ。

そう、鷲といえば、わし座=アルタイル=彦星=牽牛。玉柱と織女の「ひ。」が読むものと読まれるもの、能動と受動の関係(とその反転)の2人だとしたら、スェウ・スァウ・ゲフェスとブロダイウェズの「み。」は成立するはずだったのに成立しなかった、未達の関係(不成立の関係)、人の身(で取り結ぶ関係)を保ち続けられなかった2人と言えまいか。

ま、いっか。

肩甲骨を「羽が生えるとこ」と呼ぶことから、人の身を保ち続けることをやめようとする「あなたがた」と、そうしたひとりひとりの「あなた」に「拇指」で施術していくことを通して「あなたがた」を読解していく「わたし」。人の身をやめようとする「あなたがた」を氷解させていく「わたし」。



「ネロリ、」ダイダイの花から蒸留されたネロリは、足の裏に塗るような値段ではない。ぺたんこバレエシューズのなかで、あなたの母趾はひどく外反していた。「って。オレンジブロッサムですよね。イギリスの結婚式の、」あなたがそう言いたいのなら、わたしに返す言葉はない。それが経済ってもんだろう。地に足つかないハイヒールに、はまれなかった土踏まず、あの日。オレンジとマンダリンをプチグレンに混ぜ、捏造した高嶺の花。そうあの小さな粒(プチグレン)はダイダイの枝葉から蒸留され、場末で偽和されネロリとも呼ばれている。同じ木だから葉まで香る華、如玉(たまのように)。

(「み。」2聯中盤)





、世界初の香水として名高いネロリは、本来ダイダイ(ビターオレンジ)の花を蒸留した精油を指すが、現今では別の柑橘類の花を蒸留した精油もネロリを標榜している。この事情は、本来ダイダイの枝葉を蒸留した精油を指すプチグレンも同様。「ネロリ・ビガラード」「プチグレン・ビガラード」と標榜されたものは、本来のダイダイ精油である

、petit grain(プチグレン) はフランス語で「小さな粒」の意。ネロリが高価であるため、プチグレンを用いた偽和品がネロリとして出回ることもある。プチグレンとマンダリンとオレンジの調合でネロリを模造できることは、一般にもよく知られている。マンダリンとオレンジは、柑橘の果皮を圧搾した精油であるため、ベルガモットのような光毒性をもつと誤解されがちであるが、誤解である。この三種の偽和は、本物であればネロリと同じく、光に対して安全である

(「み、」冒頭から中盤)





ブロダイウェズのイメージをアロマオイルのそれに滑らせているのだけれど、固有名詞がたくさん出てくるので補遺も並べつつ整理するよ。

【ネロリ】ダイダイの「花」を蒸留した精油、別の柑橘類でも標榜
【ネロリ・ビガラード】本来の、ダイダイの「花」を蒸留した精油
【プチグレン】ダイダイの「枝葉」を蒸留した精油、別の柑橘類でも標榜
【プチグレン・ビガラード】本来の、ダイダイの「枝葉」を蒸留した精油


んで、「み。」で使われているのは、【プチグレン+オレンジ+マンダリン】で、これを【ネロリ】と称している。偽和であり模造であるわけだ。

本来の【ネロリ】は「高嶺の花」であり、高値(「足の裏に塗るような値段ではない」)でもあるのだろう。客の求めるものを客が払える対価の範囲に収め提供する。ただ、あくまでも偽和されたものを供していることから、「華、如玉」と、高価なもののような華と述べている。

しかし、である。

「ベルガモットのような光毒性をもつと誤解されがち」とあるが、この場面で「わたし」が偽和したものは光毒性のないものであったことから、「あなたがた」はブロダイウェズにならないのである、梟になって太陽を避けて暮らさなければならない立場を免れたのである。

人の身を保てたのである。

偶然の一致--三種の植物を1つにまとめる--と、不一致--光毒性の有無--しかも、ダイダイの「果皮」を圧搾した精油は光毒性が高かった。



蒸留されこぼれる香。如華(はなのように)。ぬかるむあなたの肩井から、われ鐘のように嗚咽に打たれて、湧泉まで寄ったなみ。だ。水を油ですべりながらあの日。あなたのむくみと摩擦して、わたしの手にだけ焚かれた熱で。漣のうねへ散り蒔いた、代代(ダイダイ)の小さな粒(プチグレン)(一粒種。(異物だね。))悪阻のように。昇華しますように。彩雲を織女(おるひめ)、他愛ない経済ふるい落とされる雨の経(たていと)がしきる場末に、よりをかけて緯(よこいと)を織り込み。波紋を広げる、羽衣は縮緬よりによって。凝縮しますように『指圧の心は母心(わが子ならだれでもいいはずだ母なら(女(子)き)がついているだろうか)きみ。空まわる地球のコアに、振りまわされて黄身返し。羽の生える内縁へ、外反した代代いろの娘、あのひ。いふうみい。よん秒の字たらず、八拍の字あまりで。彼方(あなた)の経気を引喩した、この指の名は拇指。はは
。は

(「み。」最終聯)





蒸留されこぼれる香。如華(はなのように)[ダイダイの「花」のような香りの「枝葉」]

ぬかるむあなたの肩井[けんせい]から、われ鐘のように嗚咽に打たれて、湧泉[ゆうせん]まで寄ったなみ。だ。[涙、泪、波・浪・漣だ]

水を油ですべりながらあの日。

あなたのむくみと摩擦して、わたしの手にだけ焚かれた熱で。

漣のうねへ散り蒔いた、代代(ダイダイ)の小さな粒(プチグレン)(一粒種。(異物だね。)
[一粒「種」を「散」り蒔いた、散種])

悪阻[つわり]のように。

昇華
[華(織女・ブロダイウェズ)を(天に)昇らす]しますように。

彩雲を織女(おるひめ)、他愛ない経済ふるい落とされる雨の経(たていと)がしきる場末[「あなたがた」が涙を流した(垂直方向下の水の運動イメージ:雨の経)整体の場]に、よりをかけて緯(よこいと)を織り込み[読解・散種・星座をつくる]

波紋を広げる、羽衣は縮緬[ちりめん]よりによって。

凝縮しますように『指圧の心は母心
[≠アランロド(母性を否定する神、スェウ・スァウ・ゲフェスの母)](わが子ならだれでもいいはずだ母なら(女(子)き)がついている[女・好き・気がついている]だろうか)きみ。

空まわる地球のコアに、振りまわされて黄身返し[江戸時代のレシピ(中と外の入れ替わり/さして内外の違いに意味はない)]

羽の生える内縁[肩井・肩甲骨]へ、外反した[湧泉・土踏まず]代代いろの娘、[水を油ですべりながら]あのひ。

いふうみい。よん秒の字たらず、八拍の字あまりで。彼方(あなた)[言葉では届かないくらい遠い距離、他者]の経気を引喩した、この指の名は拇指。はは

。は


※澤さんが拙作を読んでくれた時のアレコレが混ざっていて、うまくまとめられないですが、これまでと同様に最終聯は「み。」から「よ。」へのブリッジ、「あなたがた」の詩である「み。」から、あなたがたを施術=読解したことについて語り、読解について書かれた「よ。」につなげています。


**


ここまできた! 「よ。」「よ、」よ!



ことなりて紅涙(ばらルビ)ふるふ筆おろし
狂(ふ)るる琴はや結び短冊(ふみ)
揺るる線にや星(ほし)座する
指折りしをり爪あとを
痛手に解き織れうたへ
ひイ
ふウ
みイ

、かみなりて焦がれまた焚き「漣漣と酔(ゑ)ひ独りまつ毛をむしるほど
「恋恋と『彼方(あなた)。手酌できけばきくほど
『われがね。和寂(わさび)ちぎる

。いろはにほへとちりぬる緒(を)
。和か
。世たれそつねならむ

(「よ。」全文)





、よ。三様の和歌について
、願わくはその余韻について

、この項の和歌は、発句+今様+七音+短歌(ここまでで長歌)/旋頭歌/甚句(都々逸)で構成した

(ひ)長歌を「発句+今様+七音+短歌」に分け
(ふ)短歌の五七七を旋頭歌の上三句に見立てて、下三句をつけ
(み)旋頭歌の下三句を冠甚句の五七七に見立てて、七五を足し
(余)以上の三様に、いろは唄のもじりを加筆した

、指折り数えて、指切った小指を持て余す。屈指、彼方(あなた)の語りえぬふみから。読み手として詠(よ)み手は、引用を織りなし誕生する。この琴線を、こと座の織女(おりひめ)に宛てられた


(「よ、」全文)





「よ。」は日本語で書かれた韻文を複数種類(3種類)混ぜ合わせたものになっており、「よ、」でその種明かしがされている。明かされた種通りに整理してみる。

(ひ)
 【発句】
 ことなりて 紅涙(ばらルビ)ふるふ 筆おろし

 【今様】
 狂(ふ)るる琴はや 結び短冊(ふみ)
 揺るる線にや 星(ほし)座する
 指折りしをり 爪あとを
 痛手に解き 織れうたへ

 【七音】
 ひイ
 ふウ
 みイ
 余

 【短歌】
 、かみなりて 焦がれまた焚き 「漣漣と 酔(ゑ)ひ独りまつ 毛をむしるほど

(ふ)
 【旋頭歌】
 「漣漣と 酔(ゑ)ひ独りまつ 毛をむしるほど
 「恋恋と 『彼方(あなた)。手酌で きけばきくほど

(み)
 【甚句】
 「恋恋と 『彼方(あなた)。手酌で きけばきくほど
 『われがね。和寂(わさび) ちぎる
 詠

(余)
 【いろは唄のもじり】
 。いろはにほへとちりぬる緒(を)
 。和か
 。世たれそつねならむ



(ひ)(ふ)(み)(余)は、それぞれ「ひ。」「ふ。」「み。」「よ。」に対応しているものと考えられます。

この「よ。」では、これまでの「ひ。」「ふ。」「み。」を振り返っているパートです。作中で自作を自己言及しているパートになるので、「よ。」は(余)、本作の余剰となります。

では、見ていきます。

【発句】
ことなりて…異なりて/子となりて

紅涙…バラルビ[熟語の読み方を明示]
   こうるい[血の涙、悲恋に涙を流す、女の涙]

筆おろし…新しい筆、新しい物事、童貞を破る

※ 引用元を親元と捉えれば、引喩は子をつくることであり、同じ文章ながら親とは異なるものとなることであり、異なる読み方(=ルビ)を、悲恋というモチーフを用いた読み方を新しく始めていく。


【今様】
狂るる琴…琴線、こと座

結び短冊…七夕のイメージ

揺るる線…琴線のイメージを敷衍

星座する…別々のイメージを結び付け異なる絵を描く

※ 琴線を震わせること座の織女、七夕伝説のイメージは別のイメージへとつながり、その線が新たな星座を描くように異なるイメージを表出する。それは、これまで読んできたもの、読んできて自分の掌に収めてきたものたちを、掌を開き解き放つことで織られる新たなテキストであるとともに、自分の掌に残った爪痕もまた読解の痕跡である。


【七音】

※ ひとつ前の「織れうたへ」で織られた・うたはれた、「ひ。」「ふ。」「み。」「よ。」(=(余))


【短歌】
かみなり…神鳴り(ゼウス?、わし座、牽牛、鷲、スェウ)
     鳴雷[ナルイカズチ]イザナギを追いかけるも黄泉平坂で桃を投げらる

焦がれ…恋い焦がれ

また焚き…瞬き

漣漣と…涙がとめどなく流れる

酔ひ独りまつ…織女を失くした玉柱

まつ 毛をむしる…内外の境目を覆う薄衣=紗をはがす

※ 読んだものが自分の中で様々なイメージとつながるものの、境界線を越えることは難しい。手の届かないものに対する気持ちは高まるばかりで、境目を分かつものをどかす。


【旋頭歌】
恋恋と…恋しい気持ち

彼方…後に二人称「あなた」となる、遠方、あちら。

手酌で…一人酒

きけばきくほど…「おろすわさびと恋路の意見-涙出る」

※ 手の届かないものに対する気持ちは高まるばかりで、境目を分かつものをどかすも、「彼方」は目の前にいるのか、手の届かないところにいるのか、どうすればよいか質問をするも帰ってくる答えは耳に痛い。


【甚句】
われがね…破れ鐘、我がね

和寂…和(日文[ひふみ])、(侘び)寂

ちぎる…契る、千切る

詠…エイ、詩歌をつくる、詩歌、日本語で朗詠する

※ 「彼方」は目の前にいるのか、手の届かないところにいるのか、どうすればよいか質問をするも帰ってくる答えは耳に痛くて、私がね日本語でこれまで読んできたものをばらばらにしてつなぎ直し詩歌とする(破れ鐘のような涙声で朗詠しても侘び寂は約束される)


【いろは唄のもじり】

※ 「いろは歌」ではなく「唄」なのは、声にして詩としたい--スァイ!--狙いと、日本語の音を並べる行為をこの作品も行ったという振り返り。




「指折り数えて、指切った小指を持て余す。」


屈指、彼方(あなた)の語りえぬふみ[ヴィトゲンシュタイン「語りえぬものについては、沈黙しなければならない。」、アラン・ガーナ―『ふくろう模様の皿』「なにをしってるかがわからない……重みだ、それの重みだ!」]

から。読み手として詠(よ)み手は、引用を織りなし誕生する。この琴線を、こと座の織女(おりひめ)に宛てられた[テクストの統一性は、テクストの期限ではなく、テクストの宛先にある。]

これまで読んできたものから得た感慨、日々生活して感じた思い、これらの「言葉に出来なさ(=「彼方」、持て余す「小指」)」をそれでも分かろうと--言葉にしようとする行為(指折り)=読解を主題とし、涙と恋を縦糸に、多くの引喩を横糸に、織女が玉結びとなって「ひふみよ。」となっているように思いました。


***


まとめに代えて

「ひ。」『書癡』では七夕伝説と重ねられ、玉柱=牽牛=彦星(アルタイル)と織女(ベガ)が、
「ふ。」「マソヌウイの息子マース」では、アランロドの息子スェウと3つの花から作られたブロダイウェズが、
「み。」では、施術する「わたし」と「あなた(がた)」が、
それぞれのパートを牽引する二項となっています。

しかし、

アルタイルとベガとくれば、デネブが、
アランロドの初めての息子には、ディラン・エイル・トンが、
結婚を控えていた「あなた」には、その伴侶となる人が、
それぞれ薄衣の向こう側に透けて見えます。

つまり、

男女の立場をつなぐもの(デネブ=カササギ(七夕伝説では天の川を渡す役割))、
息子の立場すら与えられなかったもの(ディラン=海の--波の!--息子、いかなる波も砕けない体)、
伴侶の立場にい続けられなかったもの。

読み解くことが出来るのは、読み解ける目の前にあるものだけで、読み解けないものに関しては、遠くその存在を示唆するに留めるしかなく、その示唆もまたドーナツが揚げあがることで初めて認識できるドーナツの穴のようなものなわけで、--。

表舞台に立ったものしか見ることが出来ないし、舞台裏についてやいのやいの言うのは野暮であるが、それでもなお舞台裏の存在を想像し続けることが表舞台を読み解くことなのかもしれないな、と思いました。


***


遠く離れていく長い貴方の影
泣きながらいつまでも見つめていた

(HYDE「Wind of Gold」)




































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