[流体枷仔]

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【漏洩】の記事一覧
Posted on 15:35:00 «Edit»
2017
06/17
Sat
Category:【漏洩】

燐光(を発すること)、青光り 


澤あづささんの主催する第6回紅月降誕祭で「お返詩(おかえし/もととなる詩(本詩)に対する応答となる詩)」を募集していたので拙作を投稿したところ、好意的にお受け取りいただけたので嬉しい。

拙作:生卵を喰う鳥「燐光(を発すること)、青光り」(http://adzwsa.blog.fc2.com/blog-entry-34.html#PHOSPHORESCENCE-CASE)

→本詩:紅月「phosphorescence」(http://adzwsa.blog.fc2.com/blog-entry-34.html#PHOSPHORESCENCE)

→参照:紅月「ピエタ」(http://adzwsa.blog.fc2.com/blog-entry-34.html#PIETA)

よしなに。





















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Posted on 15:09:47 «Edit»
2017
06/17
Sat
「かわいい」って?


***


はい。というわけで、ずっと書きたい書きたいと思いながら書けずにいた斉藤倫さんの児童文学について書きます。書こう。って気持ちに久しぶりになれたので。書きますよ。書くよ。(うるさい)


1.児童文学について、あるいは「かわいらしさ」とは


斉藤倫さんの児童文学作品は絵本を除いて次の2冊があります。

斉藤倫、牡丹靖佳・絵『どろぼうのどろぼん』(福音館、2014)
斉藤倫、junaida・絵『せなか町から、ずっと』(福音館、2016)

絵本を含めると、『いぬはなく』(名久井直子・絵、ヒヨコ舎、2005)や『とうだい』(小池アミイゴ・絵、福音館、2016)もありますが、ここでは活字を主とした作品に注目したいと思います(と言いつつ、挿絵も作品を構成する1つである点は見逃せませんが)

2015年には『どろぼうのどろぼん』が第48回日本児童文学者協会新人賞、第64回小学館児童出版文化賞を受賞しており、今や詩の読者以外にも斉藤倫さんの文章がたくさん読まれていて、1ファンとしてとても嬉しい。いや本当に。詩を読まない本読みの知人との会話から斉藤倫さんの名前が出てきたときのわたしの驚きと言ったら!(ちなみにWikipediaの「小学館児童出版文化賞」のページ、斉藤倫さんの名前のリンクが漫画家の斉藤倫さんになっている・・・)

さて。『どろぼん』『せなか町』はともに福音館からの出版なのですが、どちらも「福音館創作童話シリーズ」と題されております。そして、『どろぼん』が受賞した賞は「児童出版文化」。そしてわたしは児童文学とこれらを認識しています。はて? なんか違うの?

まぁ、細かい違いはさておき。詳しいことはこちら(日本の子どもの文学http://www.kodomo.go.jp/jcl/introduction/index.html)を各自ご覧いただくとして、とりあえず以下の3点を満たしているもの、という風に児童文学を考えてみます。

1)想定しているメインの読者が児童(子供・少年少女)である
2)作中で現実とは異なる道理が用いられてもそれが読者のワクワクにつながる
3)子供から見た(大人の)世界・社会が描かれている


で、だよ。わたしはこれらに加えて「かわいらしさ」というものが重要だとおもふのですよ。「かわいらしさ」。Ciniiなんぞを紐解けば、あらゆるアカデミックなところで「かわいらしさ」「かわいい(kawaii)」について研究されている昨今。いまさらわたしがそれらについてまとめたところで詮無くもあるのですが、目についたものをいくつか引用してみます。

「[…]「かわいい」とは、大きさの問題でもなければ、形の問題でもないということだ。[…]「着る」-「着せる」-「飾る」という系列への関連や広がりがあれば、「かわいい」のである。」

(篠原資明「「かわいい」の構造」、2012、京都大学学術情報リポジトリ紅)



「[…]“かわいい”を「害がなく緊張を感じさせず、“見守りたい”“一緒にいたい”というポジティブな感情」と定義」、「本研究によって、共感性が人間や動物の赤ちゃんおよびモノに対する“かわいい”感情を予測することがわかった。モノに対する“かわいい”感情も共感性で予測できることを示したところが、本研究の新奇性である。生物だけでなく、無生物に対する“かわいい”感情にも社会的な機能が関わっていることが示唆された。」

(金井嘉宏、入戸野宏「共感性と親和動機による“かわいい”感情の予測モデル構築」、2015、日本パーソナリティ心理学会)



「「かわいらしい」生物の特徴は肉眼で身近に確認できるものが多く、さらに大きさや形、色だけではなく、動物では「しぐさ」も重要なポイントとなっているようである。」

(堀内洋平他「「かわいらしさ」における生物多様性とその特性」、2013、近畿大学農学部紀要)



などなど。ほかに言語文、感性価値と工業素材、英語教育、感性工学、都市・建築・構築環境、グラフィックデザインなど。上記引用(衣服、心理、生物多様性)も含めて「かわいい」「かわいらしさ」というのが多くの(学問の)領域から注目されるものなんですね、などといまさらながらおもひました。それと、いまさらながら辞書的な意味も引いてみる。

「かほはゆし(顔映ゆし)」が短縮された形で「かはゆし」の語が成立し、口語では「かわゆい」となり、「かわゆい」がさらに「かわいい」に変化した。
「かほはゆし」「かはゆし」は元来、「相手がまばゆいほどに(地位などで)優れていて、顔向けしにくい」という感覚で「気恥ずかしい」の意であり、それが転じて、「かはゆし」の「正視しにくいが放置しておけない」の感覚から、先述の「いたわしい」「気の毒だ」の意に転じ、不憫な相手を気遣っていたわる感覚から、さらに「かはゆし」(「かわゆい」「かわいい」)は、現代日本語で一般的な「愛らしい」の意に転じた。

(Wikipedia「可愛い」語源とその変遷)



「愛すべき」対象の適用範囲が、単なる外見にとどまらず性格やイメージに関してまで広がったことにより、対象に対して敵意を抱く要素や威圧的な要素がなく、自身の心を和ませる美点を持つと判断された場合に使われるようになったことによる。また、客観的な優位者に対する場合に留まらず、若年層の女性が憧憬の念を含めて、自身の価値観に基づいて自身より優れていると認識した人物に対して使用する例もしばしば見られる。特にその人の社会的地位や役割からして自分と距離があっても仕方ないと感じている相手の距離感が近かったり、一時的に縮まった場合に「かわいい」と感じられやすい

(同上、意味)



かわい・い〔かはいい〕【可▽愛い】
[形]《「かわゆい」の音変化。「可愛い」は当て字》
1 小さいもの、弱いものなどに心引かれる気持ちをいだくさま。[…]
2 ほかと比べて小さいさま。[…]
3 無邪気で、憎めない。すれてなく、子供っぽい。[…]
4 かわいそうだ。ふびんである。[…]
[派生]かわいがる[動ラ五]かわいげ[形動]かわいさ[名]
[補説]人に対して用いる場合、従来は子供や年少者、若い女性などについて言ったが、近年では「かわいいお爺ちゃん」のように対象の広がりがみられる。

(デジタル大辞泉「可愛い」)



なんでここまで「かわいい」についていろいろ引用してきたのかというと、以前斉藤倫さんからうかがった「かわいらしさ」とのギャップを強調したかったからです。上述のほとんどは、その語源や由来や現状の用法も含めて「未成熟」や「未完成」、つまり「全き状態ではない」ってニュアンスを読み取れます。しかし、以前caseに送ってくださったメールで斉藤倫さんはこうおっしゃってます、――「(ちなみにぼくの「かわいらしさ」の定義は「あらかじめ亡びていること」です)」

(たとえば児童向けに作られたものの多くに)「かわいい」「かわいらしさ」を人が感じるとき、見る者の感情が「害のなく緊張感のない、見守りたい」というものに変容しており、見ている対象は「受け身の形で」「全き状態ではなく」「目に見えてわかる」ということがざっくりと、大枠で、雑に、言ってしまえるかな、とおもひます。

ただし、斉藤倫さんのいう「かわいらしさ」と上記で引用した「かわいらしさ」「かわいい」の「全き状態ではない」という指摘は、前者が「あらかじめ亡びていること」に対して後者が「未成熟・未完成」という点においてその違いは大きいものと考えます。

つまり、「全き状態」――これを仮にゴールというものと仮定して――に向けての歩みが、そのスタートの段階ですでにゴールテープの向こう側を歩いているか、いまだゴールに到達していないかの違いと言いましょうか。ゴールラインの線上にどちらもいないということはもとより、一般的にスタートしゴールを経て亡びていく廃墟や化石などに感じる「美」などとも一線を画すようにおもひました。存在が始まる前にすでに終わりを終えている。なにかに似ているなぁ、と。

「ああ、けっして存在したことがないものに対する郷愁〈サウダーデ〉ほど心疼くものはない。[…]
私は、神(この不可能性の創造者)に対して悔し涙を流して激しい怒りを感じることがある。それは、郷愁を覚えるこういった人物たちを再生させることも立ち上がらせることもできないと感じるときのことだ。虚構の中で一緒にいろいろな出来事を体験し、想像上のカフェでなんとも活発な会話を交わしたあの友人たちは、私の意識から独立した現実のいかなる空間にも属したことはなかったのだ。そう思うと怒りを覚えるのだった。[…]」

(フェルナンド・ペソア、澤田直・訳『不穏の書、断章』p256、2013、平凡社)



「郷愁〈サウダーデ〉」とは訳が難しいポルトガル語らしいです。ちょうど、「可愛い」がkawaiiとなってしまうことと似ているのかもしれません。ちなみに、一時期話題になった絵本、『翻訳できない世界のことば』ではこう書かれています。

SAUDADE
心の中になんとなくずっと持ち続けている、存在しないものへの渇望や、または、愛し失った人やものへの郷愁。

(エラ・フランシス・サダース、前田まゆみ・訳『翻訳できない世界のことば』p100、2016、創元社)



現実に存在しなかったものに対して抱く郷愁。実際に生じたわけでもないものに対して感じる寂しさ。これらは、斉藤倫さんの「かわいらしさ」=「あらかじめ亡びていること」とどこか通じるものがあるような気がします。現れ得ること自体がとても危うく不安定であり、常に既に事後的なものとして振り返らざるを得ないもの。

と。本題までが長くなってしまいました。『どろぼん』と『せなか町』、2つの児童文学に通底する「かわいらしさ」というものを、「未成熟・未完成」とは違った意味での「全き状態ではない」もの、「あらかじめ亡びているもの」として読んでいきたいとおもひます。



2.忘れられたものの声、受け取るもの、役割のない場所


『どろぼうのどろぼん』の単行本の帯にはこうあります。「これは、ぜったいに つかまらないはずだった どろぼうのはなし。」そう、これはどろぼうのおはなし。どろぼんという名前のやさしいどろぼうのおはなし。

いつもなにかと、なにかの、中間にいること。どっちつかずで、だれにもおぼえられないこと。

p4



どろぼんはどろぼうの天才です。誰にも覚えられず、盗んだ形跡も残さず、盗まれたことに盗まれたひとも気づかないからです。なぜか、それは盗まれたひとも覚えていないものしか盗まないから。

[…]持ちぬしさえ、それがあったことを忘れてしまったものばかり。そんなものたちの声に、どろぼんはいつもよばれた。持ち ぬしはとうぜん、ぬすまれたのも気づかないから、ケイサツにとどけられたことだって、一回もなかった。

P41



物語は、そんなどろぼんがケイサツにつかまって取り調べを受けるかたちではじまっていきます。痕跡を残さないどろぼんに対して、まずはその生い立ちからケイサツは訊いていきます。

ばくちうちとその奥さんとのあいだに拾われたどろぼん、幼い時にお掃除のお仕事をしていた奥さんと一緒にお金持ちの人の家にいったときに初めて「ものの声」が聞こえます。それは花瓶の声でした。買われてから一度も使われたことのない花瓶は、その身をはかなんで自殺してしまいます(しかも、花瓶の存在を忘れていたくせにお金持ちのひとたちはこのことで奥さんを激しく責め、奥さんは声を失ってしまうのでした)。

どろぼんは「持ち主に忘れられてしまったものが呼ぶ声」をきいて様々なものを盗みます。このお話は、ふだん生活していて見落としてしまうものだったり、どうでもいいとおもっているものに対するやさしさ、そうした声を聞き漏らすまいとする姿勢、そうした声があるんだ・あろうとしているんだということを積極的に受け入れる態度に満ち溢れています。

「見てみろ、なんだか味があるじゃないか。ものっていうのはね、なんの役にも立たないように見えても、そこにあるっていうそれだけで、なにかの役に立っているということもあるんだよ」

p51、どろぼんが「ものの声」を聞いて盗んだものをフリーマーケットで購入した男の人のセリフ



「オーハス、取り調べというのは、こっちのききたいことだけをきいてしまったら、じぶんの思ったような結論しか出ないものだ。思いこみなしに、ふだんは聞こえないような、どんな小さな声にも耳をかたむけること。そうしないと、じぶんの外側にある、あたらしい発見はできないぞ」

p81、どろぼんの取り調べに対して手ぬるいといわれた担当刑事の反論



コマや扇風機が、回りはじめるとき音がして、そのあと音が消えてしまうことがある。でも、耳に聞こえないだけで、音はしているんだって感じる。
 そんなふうに、どろぼんの耳は、もそもそした音を感じている。
 もつれたひもがほどけるとき、ほんとうは、音なんてしていないのに、するっ、という音を感じるときがある。
 そんなふうに、どろぼんに耳は、声のやって来る先をとらえていた。

P158、どろぼんが初めて「『もの』ではない、持ち主から忘れられたものの声」を聴いているシーン



拾ってくれた奥さん、つまりどろぼんのお母さんの声が失われてしまった花瓶の自殺をきっかけにどろぼんは聞くということに――たとえそれが「もの」の自殺の断末魔であっても――積極的に取り組んでいくのですが、このおはなしはどろぼん以外にも、たとえばどろぼんの盗んだものをフリマで買っていくひとや、どろぼんに尋問するケイサツなんかも、「もの」の在り方や声というものに真摯であるようにわたしにはおもえました。

わたしが「かわいい」と感じるのは、こういうところです。つまり、「持ち主に忘れられてしまったもの」=かわいそうなものに対する「かわいらしさ」と、それらに向けられる誠実――であればあるほど滑稽に見えるところもあるにも関わらず――な眼差しに対する「かわいらしさ」。どちらも、どこか切なさを伴います。

こうした切なさは、「ものの声を聴く」という受け身の姿勢を、どろぼうという在り方で貫いたどろぼんの様子にも表れます。

その、すきまなく積み重ねられた、おびただしいものたちに向かって、ひとりぽつんと立つどろぼんは、ひとでもいきものでもなく、広い海原〈うなばら〉に突き出した〈つきだした〉岬〈みさき〉に立っている、さびしい灯台みたいに見えた。

P108



人でありながらものの声をきく。ものの声をききながら人の身を持っている。そのどちらでもなく、そのどちらにも自分からアプローチをかけられない姿勢が、どうしようもなく切なくなってしまいます。しかし、――。

わたしたちはもう、もう一つの『とうだい』を知っています。
小池アミイゴさんのブログ:http://www.yakuin-records.com/amigos/?page_id=12904

自分の立ち位置をしっかりと固めること、そのうえで周りとの関係を築いていくこと、周りとの関係に気づいていくこと。『とうだい』のとうだいくんも、どろぼんも、とても受け身なんだけど、それゆえさみしくなっちゃうんだけど、だからこそ周りの人も気にするんだけど、そうしてとうだいくんもどろぼんも自分からうごきだしていけて、そういう不安定ながらも足を踏ん張っているかんじがとても好きです。

(余談ですが、『とうだい』は、hideの『ピンクスパイダー』を一緒に聞くとわたしは二重に泣きます。)

[…]ぬすむひとと、ぬすまれるひとのあいだに、「ぬすまれるもの」の気もちがおおきく関わっている。

P184、どろぼんの聴取を続けるも逮捕することが出来なくなったケイサツの人の感想



受け身となることは、そのまますぐにあらゆるものを受け止めるということではないでしょうが、岬のとうだいは固定されており、耳にまぶたはありません。来るもの拒まず、です。

そんなどろぼんは、まさにそんな機能をもった場所で拾われました。公園です。おはなしのなかで登場する公園の作者はこう語ります。

「ひとの集まるところに、公園をつくるのではない。まったく逆である。たとえば、だれも住まない荒れ地〈あれち〉のまんなかに、すばらしい公園をつくってみたまえ。そのまわりに、ひとは集まり、すてきな街ができるだろう」

p13、公園の作者あれぐさんだー



公園というのは、なにかのためにある場所じゃない。
なんの役にも立たないことが、だいじなんだ。

P235、どろぼんがムチャしないように助けるべく探していたケイサツ



詩集『手をふる 手をふる』に「ある」という詩があります。この詩に「くすりゆびと/こゆびの間にある/あれ」、「らりるれろの/れとろの間に/あるあれが/なんなのかがわからない」という言葉があります。

はたしてそこになにか「ある」のでしょうか。わかりません。多くの人は「ない」というのではないでしょうか。「はじめから『ない』『なかった』ことにされている『ある』もの」の存在。「あらかじめ亡びている」存在。

いつも何かと何かの中間であるどろぼん。「何かのための場所」ばかりの街の中でなんの役にも立たない場所として設計された公園。あいだやすきまには、なにもないかもしれません。でもだからこそ、さまざまものがその何かと何かのあいだに入り込めるのでしょう。

そして、「くすりゆびとこゆびのあいだ」や「れとろのあいだ」を見てしまう・見ようとしてしまうのは、「ものの声」や、よぞらを探し回るどろぼんや、どろぼんがムチャしないようにと探し続けたあのケイサツのひとたちのそれらとわたしのなかで重なります。

こうしたあいだ・すきまがあるから、だれかと関係が築けていくのかな、と探し回る登場人物の「かわいらしさ」を感じました。



3.なみだ、失われて得られるもの、呼びかけ


個人的な話になるのですが泣くのが下手です。というか、感情を表に出すのが下手です。幼少のとき、泣いている顔を誰かに覗かれたことがあり凄く嫌だった記憶があります。そのことが、とても尾を引いているような気がします。自分のなかの奥の奥にあるものがふっと出てきたのにそれを盗まれてしまったかのように思ったのかもしれません。

斉藤倫さん2作目の児童文学作品『せなか町から、ずっと』は、とてつもなくおおきなマンタの背中に出来た「せなか町」で起こった様々な事件を、背中の持ち主であるマンタが語る形で6つの短編(プラス、マンタの語りが冒頭と最後の表題作にある形)の連作になっています。

冒頭にマンタの背中に「せなか町」が出来上がったエピソードがあって、「ひねくれカーテン」、「名まえをおとした女の子」、「カウボーイのヨーグルト」、「ルルカのなみだ」、「麦の光」、「はこねこちゃん」と続きます。そして、表題作「せなか町から、ずっと」でマンタの言葉に戻ります。

「せなか町」のお話は、海で敵うもののないマンタがあこがれてしまった美しい鳥を手に入れようとして失敗してしまう話から始まります。風がないのにひらひらしてるのに風が吹いたら動かないひねくれもののカーテンの話、おてんばな女の子が名まえを落としてしまう話、火事に遭った有能なカウボーイが新たな仕事を見つける話、けっして涙を流さなかった少女ルルカの飼い犬が奪われそして返ってくる話、人間の耳には聞こえないけれど人間以外のあらゆるものをうっとりさせる楽器「麦の光」の話、空き箱の中に猫がいたらいいなという少年の思いが「はこねこちゃん」となって暴走する話。

これらの話の共通点に「なみだ」「泣く」が挙げられるとおもいます。

ベッドから出たマメルダばあさんは、こわれた窓からななめにさしこんだ朝日をあびている、床のうえのぼろ布を見つけて、あっといいました。[…]
おばあさんは、あのうつくしいカーテンがひと晩じゅうじぶんをまもってくれたことにきづき、涙をこぼしました。

P33「ひねくれカーテン」



「わたし、じつは、名まえを落としちゃったみたいなの」
女の子は、おもいきってうち明けました。そうすると、急になんだかさびしいような気もちになって、涙がじわりとにじみました。

P45「名まえをおとした女の子」



「もどってくれたっていいだろう。夢のなかぐらいは」
レイリーは、そういうと、うずくまるようにして、泣きはじめました。
見る夢のなかにさえ、もう牛はいない。そう気づいたとき、レイリーは、ほんとうに、あのころにはもどれないのだとわかったのでした。

P65「カウボーイのヨーグルト」



クマは、片手を、かたわらの木のみきにつくと、語りだします。「むかしむかし、世にもうつくしい音色を奏でる楽器があったとね。その楽器が音楽を奏でるとき、いきとしいけるものや、いきていないものまでが、こころをふるわすそうだ。むかし、いちど演奏されたときは、空までがなみだをこぼしたらしいぜ」

P125-127「麦の光」



「やあ、プラッケ。おまえのいもうとはとんでもないことをいってるぜ。はこねこなんて、ほんとうはいないんだって」
こどもたちの輪のなか、つきとばされて、しゃがみこんだマイナが泣いていました。
「うそじゃないもの。だっておにいちゃんが、そういったもん」

p177「はこねこちゃん」



そして、そのものズバリの「ルルカのなみだ」。

「ひねくれカーテン」のマメルダばあさんはカーテンを、「名まえをおとした女の子」の女の子は名まえを、「カウボーイのヨーグルト」のレイリーは牛を、それぞれ失い、涙します。しかし、涙は失ったことに対するものだけでは終わりません。マメルダばあさんはカーテンをスカートに仕立て直します。名まえを落とした女の子は「名まえなんかなくっても平気」だということに気づきます。レイリーは火事がきっかけで多くの牛を失いましたがヨーグルトを作ることが出来るようになります。

涙というかたちで感情の大きな動きの後に、新たなものを手に入れているようにおもうのです。もちろんそれは、「ルルカのなみだ」のルルカも。大切な飼い犬を盗まれたルルカの流した涙は極上のハチミツとなり、巡り巡って盗まれた犬が返ってきました。

対して、「カーテン」「女の子」「カウボーイ」「ルルカ」と比べると、「麦の光」と「はこねこちゃん」の涙は少し様相が違って見えます。

「麦の光」の涙は、人間以外のものにしか聞こえない音色を奏でる楽器・麦の光の演奏に涙した空が大雨を降らしたものでした。そして「はこねこちゃん」で描かれている涙は、存在するはずのない箱の中の猫・はこねこちゃんに町中が振り回されているとき、ことの発端の男の子が妹に「はこねこちゃんなどいない」と告げたところ、妹は学校でそのことを言いふらしてしまいました。

まず、失ったことが原因となったなみだではない、ということ。そして、涙を流した者がその後に何かを新たに得たわけではないということです。といっても、「麦の光」では、麦の光という楽器の演奏法自体が失われているというところからお話が始まり、最後に演奏法が修得されるというものなので、(お話の以前から)失われたものが(お話の中で)手に入れられるという点では「カーテン」~「ルルカ」との共通点を指摘できそうです。

ですが、「はこねこちゃん」は、初めから存在していないのです。

もうがまんできなかった。はやくエンジンをばらばらにしていきたかったから、さっとこういう絵をかいた。

 ぼくはいってやった。
「ハコ、ね。きみのほしいヒツジはこのなか。」
 ところがなんと、この絵を見て、ぼくのちいさなしんさいんくんは目をきらきらさせたんだ。
「そう、ぼくはこういうのがほしかったんだ! このヒツジ、草いっぱいいるかなあ?」
「なんで?」
「だって、ぼくんち、すごくちいさいんだもん……」
「きっとへいきだよ。あげたのは、すごくちいさなヒツジだから。」
 その子は、かおを絵にちかづけた。
「そんなにちいさくないよ……あ! ねむっちゃった……」
 ぼくがあのときの王子くんとであったのは、こういうわけなんだ。


アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ、大久保ゆう・訳「あのときの王子くん」(http://www.aozora.gr.jp/cards/001265/files/46817_24670.html)



『星の王子さま』(引用もとは青空文庫からのもの、タイトルは異なっているが同作)の、「箱の中の羊」を彷彿とさせる「はこねこちゃん」ですが、「はこねこちゃん」を町のみんなが出そうとするのに対して王子さまは絵の中の箱の中の「羊」の様子を見ているだけです。

「はこねこちゃん」のお話は、図らずもはこねこちゃん騒動の発端となってしまった男の子だけが箱に向かって「出てくるな」というところから一瞬、超常的な場面となります。絶対に存在しないはずだったはこねこが出てきて、男の子と箱の中の立場を入れ替わろうとするのです。間一髪、男の子が箱の中に足を踏み入れようとしたとき、彼の妹が声をかけて場面は日常の風景に戻りました。

正直、とても怖いお話だなと思いました。出てこい、と言われても出てこない。出てくるな、という声の主と立場を入れ替えようとする。しかも、そもそもが妄想に過ぎない「はこねこちゃん」という存在しないはずのもの。

箱の中に招き入れられようとする瞬間の男の子の気もちにこんなものがあります。「きっとじぶんのようなこころをもった子どもは、いろんな場所にいて、その子たちが、つぎのはこねこになるんだ。」と。

自分っていう存在が、はじめからここにあるのかどうかわからなくなる、そうした不安をあらわしているのかな、っておもいました。そして、逆に、不安定なものであっても、だれかに呼びかけられれば――それは「名まえ」である必要はなくって!――存在してるかどうかわかんないなんておもわないのかな、って。

だから、「おにいちゃん」って、妹が呼びかけてくれて、本当によかった。

せなかってものは、いがいに見えないもんさ。こんなに近くにあるのに、いちばんよくわからんとこじゃないかね。からだのはんぶんは、せなかだっていうのにだ。いらいらすることもある。

P13



身近なもの(カーテン、名まえ、牛、飼い犬、人間以外のもの、自分自身)に気づいていくこと、それは「こんなに近くにあるのに、いちばんよくわからんとこ」でもあります。そうしたところに気づくのは、それらを失ったときや失いそうになったとき? たしかにそうかもしれません。でも、――。

「ねえ。なにかお話を聞かせて。せなかの町に、いままでどんなことがあったか。」
鳥は、星をめぐる風のような声で言った。
「まあ話してやらんでもないが」
わしは、なぜだかゆるんでしまいそうな声を、こらえながら、いった。
「かくごしておくことじゃ。なにしろ、何年ぶんも、何百年ぶんも、あるんじゃからな。わしの、このだだっぴろい、せなかいっぱいの話が」

P195「せなか町から、ずっと」



失ったことや失いそうになったことに気づけなかったまま過ごしてしまうこともあるでしょう。そんなときに、「お話を聞かせて」と呼びかけてくれたら。どんなに、――。



4.オルペウス、柩、記号(おわりに代えて)


『どろぼうのどろぼん』のカバーのイラストは、どろぼんの聞いてきた声の主たちです。モノとモノの声が二重に表現されているイラストはとてもかわいらしく、作品の世界観をイラストで表現するのってすごいなーっておもいます。

『せかな町から、ずっと』のカバーは対照的にはっきりした線・色をつかってたくさんのモノや生き物が書かれています。きっとせなか町にある/いるモノたちなのだろうな、と読み終えてからカバーを見るとおもいます。本にならなかったお話がもっとたくさんマンタの口から聞けるのだろうな、と最後の場面で「お話を聞かせて」と話しかけていた鳥のことをおもいます。

「なぜならオレは ここにいないからだ」というのは斉藤倫さん2冊目の詩集『オルペウス オルペウス』の帯に引用されていたフレーズです。木詰緑平のお話とオルペウスの神話が入れ代わり立ち代わり相互に侵食しあっていく一冊の詩です。

けだものの
さむしさで
生きむくれですか
たちおとしですか
(かがりぬいですか)

『さよなら、柩』「けだもののさむしさ」P48



斉藤倫さん3冊目の詩集『さよなら、柩』より。「生きむくれ」に代表される不思議な言葉が、たどたどしい口調--どろぼんが耳にするモノたちの声のよう!--で延々と続いていく詩です。

「はじめまして
 たとえば8階からエレベーターに乗ったのに
 まちがって8のボタン押しちゃうことってありますよね
 そしたらふつうボタンは点かないんですけど
 たまに光ることがあるんですって
 でもそのときもういちど開いた扉は
 もとの8階じゃないんですけどね
 それがわたしです」

『本当は記号になってしまいたい』「合コン」p45



斉藤倫さん4冊目の詩集『本当は記号になってしまいたい』より。合コンって一度しか行ったことないんであんまわかんないんですが、開始直後の自己紹介の場面を詩にした作品です。

斉藤倫さんの言う「かわいらしさ」=「あらかじめ亡びている」をキーワードに、『どろぼうのどろぼん』と『せなか町から、ずっと』を読んできました。『どろぼん』では「持ち主に忘れられたものの声」「なにかのすきま・あいだ」を、『せなか町』では「身近なものの喪失と気づき」「他者への呼びかけ」に注目してみました。

読んでいるうちに、これらは緑平(オルペウス)の何度も繰り返し続ける愛であったり、「さむしさ」を訴える今にも途絶えてしまいそうな口調だったり、都市伝説みたいな存在の移ろいを伝える自己紹介だったりを思い出しました。

詩、児童文学、絵本と別の表現であっても、「これぞ斉藤倫さん!」みたいなものをわたしは個人的に感じていたのですが、なんとなくわたしの感じていたものを少しは形に出来たらうれしいです。

おしまい













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Posted on 18:26:12 «Edit»
2016
09/22
Thu
Category:【漏洩】

小林レント「秋空の散文詩」小考 

小林レント「秋空の散文詩」 小考







夏の憂鬱に抱かれ眠りを忘れた僕は
揺れる波打ちぎわに瞳うばわれほおづえをつく
君が微笑みかけるそよぐ風に吹かれて
そんな過ぎ去った日の幻を追いかけていた

          (hyde「夏の憂鬱」)









「わかること、わからないこと、そのあいだにこそ詩が、芸術があるのだと仮定してみる

「どうした?

「散文を小説や新聞の文章やエッセイのような筋のある文章だとしたとき、その対に位置する韻文の詩歌は筋ではなく音律でもって読者のリーダビリティを担保している

「筋、物語と呼んでもいいし論理的な展開と呼んでもいいのかな。音律というのは頭韻や脚韻、七五調などの音節によるリズムなどかな。

「そう。では、散文詩とはなんだ

「散文詩とはなんだ

「筋でも音律でもあり、またそのどちらでもないもので読者を牽引する

「なにかとなにか、そのどちらでもあり、そのどちらでもない

「そのあいだにこそ

「詩が







「「「秋晴れの空をわたしは好きです。首が少々つかれるのを我慢すれ
ば、それは一昼夜、最上の観賞物です。帰省してからは、不眠症だとい
うこともあり、本を読むよりは空をみています。とくに夜は、子どもた
ちのいない林に出掛けて、木々の額縁の中に星をみます。林道のわきの
腐れた青いベンチから見ると、りっぱな椚のてっぺんに北極星がくるの
です

          (小林レント「秋空の散文詩」1聯(以下、聯の番号のみで引用する)http://members.jcom.home.ne.jp/rentboy/akizora.htm)





《「「「》という、不思議なカギ括弧の用い方ではじまる。

レント作品には《「「「》と同様の用法もあり、氏独自のコード、詩における何らかの機能を託された/込められたもののようにおもうが、ここでは、「秋空の散文詩」という本作においては、3つの世界を重層的に描くための読者に対する宣誓として読んでみる。

1聯は《わたし》の語りよって書かれている。

《わたし》は、秋晴れの空を好み、どこかから帰省したが不眠症のため本ではなく空をみることが多いという。

《わたし》の首は見上げる向きに、視点は上方を向いている。

そして北極星が聯末に示され、北天を見上げていることがわかる。

北極星は《りっぱな椚》のてっぺんにくるという。《椚》は、くぬぎ、と読む。

木の門

《わたし》は、木の門を見上げ、その上方はるかな先にあるもの、その向こう側にあるものを見ている。

向こう側には、なにがあるのか。







「「「名前をよぶのはケ楽ですか?「ええ、ケ楽です。「ケ楽はいま、
どこにいますか?「北の灰色病棟、521号室です。「そちらの様子はい
かがでしょう?「白髪の12人がここにいて、陽のあたらぬ壁側の6人
がもう、小さく小さくなっています。「無機分解?「ええ、それもたい
へん非効率な電気流動です。「それでは空気がわるいでしょう。「阿片
粒がぷかぷかします。「それでお躰の具合は?(あんなに遠くへいって
しまった。(緯線上を?(いえ、経線上をです。「名前をよぶのはケ楽
ですか?「ジ楽です。

          (同・2聯)





《ケ楽》と、それに名前を呼ばれているものとの会話の聯。お互いの距離は遠い様子。

《ケ楽》は、《北の灰色病棟、521号室》におり、そこにはケ楽以外に《白髪の12人》がいる。

521や12といった数字、無機分解や電気流動といった理科っぽい語が出てくるので、少しつかみづらい。

澤あづさは本作の2聯を次のように述べている。



特に2連は、どうやら「壁掛けアナログ時計の文字盤」を二重の意味で「自転する地球」に見立てるという、奇想天外もきわみの世界を描出しています。
(澤あづさ『散種的読書架』「小林レント『秋空の散文詩』鑑賞資料」http://blog.livedoor.jp/adzwsa/archives/42575460.html)





詳しい点は氏のサイトを見てね。

12という数字、《陽のあたらぬ壁側の6人》という12の半数、経線/緯線という地球(上)の動きを想像させる。

また、本作後半に出てくる二重星団の双子的側面と521の双子素数の面に、関係を見出してる。

おもしろい。

ここであたしは別の面からこの聯を見ていきたい。

あたしは12って数字から、時間ではなく月をイメージした、12か月の。

そんで、《陽のあたらぬ》ってことは季節の移り変わった様子、終わった季節の様子をあらわしていると読んだよ。

そして、ケ楽たちのいる《灰色病棟》っていうのは、1聯の《わたし》が見上げていた北天の空のことだとおもう。

経線や緯線を、日常のあたしたちが意識することは地図を見るときくらいだけれど、地球の外にいれば、地球上の位置をまるごと座標として把握できる、そんなGPS的な視点を持ったものと、2聯の話者(ケ楽に名前を呼ばれているもの)はお話している。

阿片粒の浮かぶ、そこは阿片窟のようなイメージ。


とこ
ところで。

《ケ楽》は聯の終わりに《ジ楽》へとすり替わってしまうのだけど、《ケ楽》ないし《ジ楽》、また後程出てくる《ル楽》って、どうやって読むのだろうか。

快楽をカイラクではなくケラクと読む読み方がある。

漢字をカタカナで表記するのは、それを代入可能なブラックボックス、X(エックス)にする狙いがあるとおもう。

ケ(物の怪の「怪」、化粧の「化」、気配の「気」……)楽……

みたいな。

これは既存の言葉の一部の漢字をあえてカタカナにすることで、読者に他の漢字の代入を促せるとおもうのね。

でもね、となると、《ジ楽》や《ル楽》を、ケラクにならってジラクやルラクと読んでしまうと、既存の言葉ではなく造語の面が強調されちゃう。

じゃあ、楽をガクと読むか?っつーと、楽(ガク)はミュージックとしての意味になってしまい、本作とは噛み合っていないようにおもう。

では、漢文みたいに読むのかっつーと、--ケが楽しむ--それもなんかちがうとおもうんだよね。



この字を使うこと、と、この字をパーツとして使うこと。

薬・礫(つぶて)・轢(ひ(く))・そして櫟(くぬぎ)。

どれも、潰す(粒にする)こと。

粒子状というイメージ。

何にかが、ケがジがルが、粒になっていく。







「「「私の屍体とこの手紙を発見されたかたへお詫び申し上げます。親
族のない老人の不始末な最期をおみせしてしまって申し訳ありません。
体の臭くなっていないことを祈るばかりでございます。加えて誠に勝手
なお願いではありますが、安山寺さんの電話番号を書き添えておきます
ので、食卓の上にあります電話で連絡をとってくだされば有り難うござ
います。後はそちらのほうにお願いしてありますゆえ。すぐに来てくだ
さるはずでございますから、よろしければお待ちの間、電話の隣におい
てありますお茶菓子をお召し上がりください。粗品で申し訳ございませ
んが、賞味期限は年末までとのことでございますので、当分は大丈夫か
と思われます。そのほか、粗末な生活用品や衣類ばかりですが、そのあ
たりのもの、仏具の他はなんでも差し上げますので、どうぞお持ち帰り
ください。衣服につきましては丈がかさばり過ぎるかと思われ、重ねて
申し訳ない。なお、往生した後に物に因縁をつけるつもりなどございま
せんので、御安心くださいますよう

          (3聯)





《私》の遺書。恐らく孤独死。この段階では性別不明。

本作では老女のイメージが頻出するのだけど、たとえば、次のような感想が残されている。



いちばんすきなのはおじいさんの遺書で、この詩のいちばん最後近く、

しかし、こうして綴っています11月10日も、すこしずつ寒さをまして、庭のモミジは眼に眩しいほど紅葉していますよ。この気候ならば、なんとか腐蝕は免れることが出来ると思います。本当に、秋にゆけてよかった。この季節をわたしは好きです。(case註・「秋空の散文詩」最終聯)

は、ちょっとなきそうになる。言葉の優しさ、とくに、「この季節をわたしは好きです。」という、この語順と助詞の選択に、ぼくはこのおじいさんの声が聞こえて仕方がないのです。

          (渡邉建志「into interstella burst/小林レント讃6」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=50887)





《安山寺》はぐぐったら中国の寺が、《安山》は韓国の市がそれぞれヒット。

由来のある固有名詞なのかは不明。

詳細求。







「「「ことしで夏休みも最後だし、免許をとったのよ。そしたら、あり
がちだけど運転楽しくなっちゃって。ちょうど紅葉の季節だから、けん
ちゃん無理矢理さそって耶馬渓までドライブにいってみたのね。うん。
めっちゃノロケだよ(笑。そう、南畑ダムあたりのカーブで「死ぬ~と
か叫びながらね(笑。けっきょく紅葉にはまだ早かったみたいで

          (4聯)





異なる話し手。誰かと会話をしている、《けんちゃん》と恋人関係にある人。

《夏休みも最後》、《紅葉の季節》、《免許を取った》、《ドライブ》から、普通自動車免許取得可能の年齢で、かつ夏休みが紅葉の季節まである立場の者。大学生や専門学校生?

《耶馬渓》といえば大分であるが、作品結末近くの公衆トイレの場面から《南畑ダムム》は、福岡県の那珂川町の南端ダムの心霊スポットのイメージを借りていることがわかるため、ここでいう《耶馬渓》は筑紫耶馬渓のことと推測。

舞台は福岡。







「「「彼岸参りの日、3車線道路の真ん中、両手を広げて秋空を持ち上
げたまま自転車で駆ける老女、を見た。操縦手を失ったハンドルは方向
を失い、"それ"は悪夢のように揺れている。わたしたちの白ワゴンと接
触すれすれでしばらく並走し(薔薇模様のツーピースの間に痩せこけた
白い腹がちらついていて(すぐに衰えた"それ"は後方へ流れていった。
5歳の息子は眼を丸くして後ろの窓に張りつく

          (5聯)





またも話し手が変わる。

《5歳の息子》を連れて彼岸参りの日に白ワゴンを運転している者が、薔薇模様のツーピースを着た痩せこけた白い腹を持つ老女が両手放しで万歳しながら自転車をこぐ様を目撃する。

超怖い。

話は変わるが、作中の括弧は「も(も閉じられることはない。

これは、発話も内言も、それが発せられたらどこかへと流れ何かにつながるものであることを表している、とおもう。

完結の出来なさ。

それに対して《"それ"》は、ダブルクオーテーションでしっかりと括られている、指示内容である老女が、この聯のなかで異質なものであることが、他との表記の差異からもうかがえる。







「「「最近、アントンに会いましたか?あなたが会っていないのなら、
わたし手紙を書きましょう。<ウチの犬きのう発狂しましたが、そんな
に怖がらなくてもいいですよ、って

          (6聯)





《ケ楽》《ジ楽》に続き、固有名詞を与えられた登場人物として《アントン》が出てくるが、この聯の話者--今気づいたが、話者とか話し手とか語り手とか区別しないで使っている気がする。ごめん--《わたし》は、1聯の人か、とすると、1聯の人の独白のようなものも、アントンを話題として話している相手のような人が想定できるのだろうか。

《あなた》とは 誰だろうか?

そして共通の知り合いだと思われる《アントン》は犬が怖い

つか、《<ウチの犬きのう発狂しましたが、そんな/に怖がらなくてもいいですよ》って言われても、ねぇ?

正直、あたしはここの手紙のイメージがまったくまとまらない、むりやりに、《阿片粒》とつなげてみている。

正常/異常というわけかたでは、阿片中毒や発狂という事態は向こう側のことになってしまうが、--手前がこちら側って無根拠に思えるおめでたさに目をつぶればだけど--生/死ってわけかたをしたとき、そのスラッシュの部分に阿片粒や発狂した犬を放り込むことは出来まいか?

わかんないけど。







「「「"あなた"に嫌われるということに悲しく成功したのは十一月。何
処へもゆけぬ道を消し去りましたがさるにても歩きゆくべき場所はなく。
歩かないわけを足が痛みがなくなるまではと人に説明するほかおし黙っ
て。こうして待ちぼうけのふりしてぼっとツッ立ち川面をまっすぐに見
据えてみる。すこしでも腹が減れば何か食べる。体内の空にはかならず
オモカゲビトが棲みはじめるから。オモカゲビトをそんな暗いところに
棲ませてしまってはいけないのだ

          (7聯)





既存の言葉の漢字を開くことが、読者による代入可能の変数のような働きを託されているとさっき言ったけど、あたし、代名詞や指示語もそうだとおもうの。

小田和正「ラブ・ストーリーは突然に」で《あの日あの時あの場所で君に会えなかったら/僕等はいつまでも見知らぬ二人のまま》ってあるよね。

このサビの部分は聞き手がそれぞれの思い出を容易に代入しやすい作りになっていて、それゆえに共感という形での支持を得られるとおもうんだよね。

では、そうした形での共感を拒みつつも、活字という形で人称代名詞などを使うには、つまり固有であることを示すには。

老女を《"それ"》と呼ぶように、あなたを《"あなた"》と呼ぶことの、記すことの、その意義は、意味は、たとえば哲学者・永井均の〈私〉のような、わかるけどわかんない、究極的にはわかってもらっては(発話者的には)困る、みたいな、読者へ開きつつ同時にどうしても知られてしまってはいけない--知られるような書き方では捕まえ切れていないことになるものを俎上にあげることの宣誓のような。

そうした手続きを経ることによって、《嫌われることに悲しく成功した》というフレーズにちからがみなぎるものとおもう。

《何処へもゆけぬ道を消し去りましたが》とは、死ぬ前にできる、生前の整理のようなものか。(だからこその《嫌われる》こと?

《さるにても歩きゆくべき場所はなく。》は、死後の所在のなさのようなものだろうか、とすれば、見据えている《川面》とは、三途の川だろうか(あるいは、天の川か

そして、《オモカゲビト》。

個人的には、「秋空の散文詩」の読みづらさは、ケ楽たち・アントン、そしてこのオモカゲビトにあるとおもっていて、そのとらまえづらさとどう付き合うかっていうのが、キモだとかんじてる。

オモカゲビトは、俤びとという表記で、折口信夫『死者の書』にでてきます。

あたしは再読もかねて、近藤ようこが漫画化した『死者の書(上・下)』を最近読みました!、藤原郎女ちゃんきゃわわ!! 表紙の紙質が素敵!!

ちなみに『死者の書』はあらすじを抜き出すことは不可能なんだけど(だって釈迢空の詩だし)、この漫画では、郎女が幻視した俤びとのもとへ時空を超えたつながりを携えて向かう物語、となるかとおもう。

ざっくりとした、あたし的俤びとイメージは、神がかった郎女ちゃんの人間世界(こちら側)での孤独が、歴史や時代の流れなどといったものから零れ落ちてしまったものたち(滋賀津彦や語部の嫗)を引き連れて、あちら側へアクセスするための入り口、みたいな?

だから、郎女も滋賀津彦も、それぞれ、自覚しているそれとは別の存在と重なって在らせられている、と言おうか。うーん、むずい。語部なんかも、そういう意味では、語部の存在が語部の語る語りそのものと重なって在らせられている(そして時代の流れはそうした在り方を許容しなくなってきている(許容できなさというのは、たとえば大伴と藤原が同時に在れないとか、仲麻呂と道鏡の政争とかが都で起こり、郎女ののぼった二上山という場所だけでなく象徴的にも対比させられているようにおもったよ。

と、いうことを踏まえての《オモカゲビト》になるとおもうわけさ!

で、だ。

もういっこ(にこ?)踏まえなければならないものがあるとおもって、それが、



雨の 底を 舐める コウモリの
指の 先に コイビトノカゲ 憑いて いるから
僕は コウモリの 指ごと 引きちぎって
コイビトノカゲを 食べて あげるん だ

(小林レント「コイビトノカゲ」部分http://www.rondz.com/poem/poet/11/pslg10300.html#10300)





>雨の 底を 舐める コウモリの
>指の 先に コイビトノカゲ 憑いて いるから
>僕は コウモリの 指ごと 引きちぎって
>コイビトノカゲを 食べて あげるん だ


食べて食べられる。
食べたものが胃壁を破って僕を食べる。
それでいいそれでいいい(iiiiiiiiiiiiiiiiii)いいいいい
#(nanimosinpaihailanai)         い
#(nanimosinpaihailanai)         い
#(#(nanimosinpaihailanai))      ⌒
コおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお指
イいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい輪
ビいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいを
トおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお盗
ノおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおめ
カあああああああああああああああああああああ。
ゲえええええええええええええええええええええ永 
遠に。指輪を盗め)。
(ねえ、「何も心配はいらない」よ。
     君は確か昨日、そういっていたもの。)
す(DO(ずー)だ)。よ(DO(ど)だ)。

例えば君は、脳を食べた。

(小林レント「コイビトノカゲ(戦闘)」部分http://www.rondz.com/poem/poet/11/pslg10301.html#10301)





オモカゲビトとコイビトノカゲの類似点については先にも引用した渡邉建志の指摘がある。



息が荒くなっている。「コイビトノカゲ 憑いて いるから」。内容もはげしくなる。「コウモリの 指ごと 引きちぎ」るという。その激しさ。そしてなんとコイビトノカゲを食べてしまうのだ。「食べて あげるん だ」と言う。太字部の「あげる」が、いまの半狂乱の状態を鋭く示している。例えば(とんでもない安い例だけど)、「殺してあげる」って言って笑う殺人犯も、「あげる」を使っているではないか。そして食べられた「コイビトノカゲ」はたぶん僕から抜け出て他のコウモリの指先に止まり、僕がまた食べに来るのを待ち続ける。体の中に巣食う記憶の恋人を、食べるという隠喩を用いて表しているのだろうか?自分の中の空っぽさを、影を食べて満たすのだろうか。後の「秋空の散文詩」のなかに、

  すこしでも腹が減れば何か食べる。体内の空にはかならず
  オモカゲビトが棲みはじめるから。オモカゲビトをそんな暗いところに
  棲ませてしまってはいけないのだ

という部分がある。このオモカゲビトもまた、とても大切で同時におそろしいなにか存在なのだろう。コイビトノカゲにせよ、オモカゲビトにせよ、このカタカナのとげとげしさはほんとうにとげとげしい。

(渡邉建志「沈黙と怒り/小林レント讃4」http://po-m.com/forum/grpframe.php?gid=128&from=listdoc.php%3Fhid%3D819)





恋人の影 ではなく コイビトノカゲ
俤びと  ではなく オモカゲビト

カタカナに変換することによって、ワンワードに置き換えられたこれらの言葉は、作中の語り手に取って「恋人」「の」「影」という形で分別することが出来ないものとして示されて入る(だからこその、「(戦闘)」における狂騒的な注釈という形、コイビトノカゲという形で圧縮したものを解凍してしまった有様が了解できる

で、だ。(2度目

《オモカゲビト》は、「俤びと(『死者の書』)」と「コイビトノカゲ」のハイブリッドなんじゃね? っていうね。







 気がついてみると、さっきから、ごとごとごとごと、ジョバンニの乗っている小さな列車が走りつづけていたのでした。ほんとうにジョバンニは、夜の軽便鉄道の、小さな黄いろの電燈のならんだ車室に、窓から外を見ながら座[すわ]っていたのです。車室の中は、青い天蚕絨[びろうど]を張った腰掛[こしかけ]が、まるでがら明きで、向うの鼠[ねずみ]いろのワニスを塗った壁[かべ]には、真鍮[しんちゅう]の大きなぼたんが二つ光っているのでした。

(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」六、銀河ステーション)









「あたしは本作を3つの重層的な世界で描いているものとおもっていて。

A)《ケ楽》たち・《アントン》・《オモカゲビト》のいる世界
B)《けんちゃん》の恋人がデートの報告をする世界
C)《薔薇模様のツーピース》の老女を目撃した親子の世界

「これらは文字通り 別の世界 をそれぞれ描いていると思うのですが

「まあよくはわからない

「ただ、独立しているという言い方で足りるといえば足りるか

「世界が重なっている

「それは、レイヤーが重なっているといおうか

「イラストといおうか、浮世絵と言おうか

「それぞれに情報が記載されていて、ある紙面上でたまたまひとつになっていて

「じゃあさ、世界そのものを

「自由にめくったり

「入れ替えたり

「異物を混入させたり

「そういうことが出来るって想像はどうかな?







「「「秋晴れの空をわたしは好きです。風景はルチル混じりの石英にま
みれて、田舎ではとくに、よく浮かんでいます。こんな日に会う子ども
たちは何故か、自分の祖先のように感ぜられて、わたしは土地のもので
はないからか彼らに不信がられていますが、どうにか仲良くしようと思
うのです

(8聯)





1聯と同じ文体。

《ルチル交じりの石英》とは、ルチルクオーツのこと、異物の混じった水晶のこと、そんなもので風景がまみれているとはどういうことか?

そして《よく浮かんでいます》とあるが、何が浮かんでいるのか?

ここであたしはふたつのことを思いついている。

まずひとつめは、公判で明らかになるが《わたし》は糖尿病を患っており、したがって視覚の疾患が予想されること、そして視覚の疾患というつながりから、先述の固有名詞を関係させると、アントン症候群という言葉にたどり着いた。

見えないのに見えている、というのがアントン症候群についてあたしがネットから理解したこと。

(作品の不明瞭な点を明らかにして読解するために実在する病状を参考にしました。上記の病状について他意はありません)

もうひとつは、《こんな日に会う子どもたちは何故か、自分の祖先のように感ぜられて、》から。

《浮かんでい》るのは《子どもたち》であり、したがって子孫と祖先があべこべになる。

《浮かんでい》るのは《子どもたち》の霊だ。

つまり、《わたし》は霊が見えている、そして《わたし》は見えないのに見えているのだ、世界に紛れ込んだ異物を。







「「「ジ楽はいま、どこにいますか?「ケ楽のとこから2次元下です。
「その後、廻転の具合はいかが?「少々傾斜がありますが、支点と軸は
たしかです。「シルクハット坊やはまだ駆けますかね?「足の裏からく
すぐります。「嗚呼、それは非常な痛みでしょう?「摩擦が無いのでさ
ほどでも。「しかして瘢痕が残ります。(ええ、たしかに。(もう紫に
膿みはじめて。(歯車菌が這入ってきました。(滑走状態でございます
か?「ル楽です。

(9聯)





クリストファー・ノーラン監督『インターステラ―』を先日友人からDVDを借りて見て、感想をLINEしてもう一回見直した。

作中終盤、主人公がブラックホールに飲み込まれると、四次元立方体っていうわけわからんところに吹き飛んで、地球上の過去・現在・未来の娘とアクセスしようとする、云々。

次元ってのは、その世界をとらえるのに使えるパラメータの数であり、いじれるパラメータはそこから一つ少ない、という考え方を採用します。

あたしたちは、縦・横・奥行きの3つのパラメータをいじれるので、四次元の世界にいる、と見てみます。

(四次元ってのは、縦横奥行に加えて時間軸がはいる理解が多いですが、パラメータが一個増えるなら何でもいいです)

映画『インターステラ―』では、愛をエネルギーとして見る考え方が出てきますんで、あたしたちが時間をとらえているように愛をとらえることができる人たちは五次元のひとたちなわけで、ということは一つ下の四次元の4つのパラメータをいじれる、ということですな。

以下、整理すると、

0次元:点(いじれるパラメータなし
1次元:線(数直線のようなイメージ
2次元:面(グラフのイメージ、(x,y)で座標を捉えられる
3次元:空間(あたしたちが観測出来る世界、(x,y,z)で座標を捉えられる
4次元:時間(時空間?)(別に時間でなくてもいいらしい
5次元:時空間にもうひとつパラメータを加える

あたしたちは時間の流れに乗った空間に在るけど、時間のパラメータをいじることは出来ない、だから過去にも未来にも自由にアクセスできない。

それには成長や老化を必要とする、つまり姿かたちの変化だ。

では、過去の姿を保ったままその場に留まり続けている霊のようなものは、時間軸のパラメータをいじれる存在と言えないだろうか。

《ケ楽のとこから2次元下です》という不思議なセリフを、以上のことから読み取りたい。

地球の回転(自転/公転)、そして輪廻のようなイメージが続くとまたしても不明な言葉に出くわす。

《シルクハット坊や》とはなんだろうか。

シルクハット(トップハット)は大人のイメージ、それを被っているのが坊やという子供であるため、ちぐはぐな印象をもたらす語である(前聯の《浮かんでい》る《子どもたち》を思ってみてもいい

ちなみに、童謡「ちょうちょう」は、ドイツの古い童謡「幼いハンス」という曲が原曲と言われており、タイトルからわかる通り歌詞もまったく違う。



幼いハンス坊っちゃん、
世界を巡る旅に出発。
杖を片手に、帽子を頭に
大喜びのハンス坊っちゃん。
だけどハンスの母さんは、
別れがつらくて泣き出した。
その瞳はただ「いい旅をして
帰って来なさい」と語る。

(Wikipedia「ちょうちょう(唱歌)」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A1%E3%82%87%E3%81%86%E3%81%A1%E3%82%87%E3%81%86_(%E5%94%B1%E6%AD%8C))





ここでハンスの被った帽子がトップハット(日本語で言うシルクハット)であるかはわからなかったが、ドイツ語でStock und Hutを画像検索したら、トップハットとステッキがペアになって出てきたので、「シルクハット坊や」の出で立ちで旅に出たものと考えたい。

ちなみに、「幼いハンス」の歌詞は〈1番で幼い「ハンスちゃん」(Hänschen)が旅に出て母親が見送り、2番で7年の放浪と遍歴の末に「ハンスちゃん」は日焼けした大人の「ハンス」(Hans)へと変わり、3番ですっかり大きくなったハンスが故郷に戻り、あまりの変わり様にだれにもハンスだと分かってもらえないが、再会した母親はすぐにハンスだと分かってくれた、という内容(Wikipedia「ちょうちょう(唱歌)」)〉とのこと。

こちら側(ハンスの家族)から離れ、旅に出た(あちら側へ行った)ハンスと、こちら側に留まり続けたものとのギャップを感じる歌詞だな、と。

閑話休題。

ケ楽・ジ楽・ル楽とはなんだろうか。

「楽」という文字の採用が、先に述べた椚が櫟でないことから来る、薬・礫・轢などの「粒にする」という意味の強調、ないし快楽(けらく)や極楽といった仏教用語のイメージを敷衍させたもの、か。

では、ケとは? ジとは? ルとは?

というわけで、調べてみた。

・ケジル:毛嫌いする(佐野弁)、割れる(韓国語)、コレラ(怪疾、괴질、韓国語)
・ケルジ:人名
・ジルケ:ジルケ人形(silke、ドイツ語)
・ジケル:物品を恵与せらるる事。〔岩手〕物を恵まれること。〔岩手〕
・ルジケ:×
・ルケジ:人名、地名

既存の語をばらばらにし、それぞれ独立させて作中に配置することで、星座的に何かが見えることを期待しているんじゃないか、という仮定の下、ケ・ジ・ルの組み合わせをグーグル先生に聞いてみましたが、どうなでしょうねー、わかりません。

《瘢痕》、《紫に膿みはじめて》などから、恐らく《私》の死が進行している様子をあらわしている(《歯車菌》は時間の経過を暗示しているようにおもう







「「「以下、安山寺さんへ。今がもし夜半でありましたら、こんな時間
に叩き起こしてしまって申し訳ない。なにかと不始末もございましょう
が、此の度やっと往生いたすことができました。生前から幾度もお世話
になり、親しくしていただいた住職に引導の読経をしていただきたいと
いう身勝手なお願いは、すでにお伝えしていたとおりでございます。些
か少なくはございますが、全財産をお仏壇の引き出しに仕舞ってありま
すので、火葬代、手数料、埋葬代はそこからお払いして、もし、残りの
ございましたらお寺様のほうへの寄付ということにさせてください。家
の方の片づけがつきませんで、お見苦しく申し訳ない。もう、このまま
にしておいていただければ幸いです。盆にくつろげる家がないというの
も淋しい気がしますので。なお、古い家につき、倒壊の危険なども何れ
ございましょうから、付近の方々には近づかないように、とお伝え下さ
い。とくに子どもたちが怪我をするのは忍びなく、どうぞお願い申し上
げます

(10聯)





3聯の遺書の続き、9聯の死の進行よりも少し前に書かれたものだろう。







「「「最後に会ったときはアントン、体重がまた15キロも増えてしま
っていて、「アントン、右足の小指痛い、歩けない、アントン、自分の
つまさきが見えないから、かわりに見てやってくれないか?と頼まれて、
わたし靴下を脱がせて見てみました。小指はとく変わりはなかったので
すが、あんなに太っているのに足首から下は痩せていて、老人の皮膚よ
うにしていましたね

(11聯)





自分の足の指が見えないほど太っているアントンは一人称もアントンなんだね、なんか幼い印象を覚えるね

ここに出てくる《わたし》は、《秋晴れの空をわたしは好きです。》の《わたし》と同一人物かな?

太っている/痩せている、が アントンの身の内で同居ししているのが、足首から下の様子でわかる

《老人の皮膚よう》(皮膚のよう?)とあることから、アントンは老人のような見た目ではないのか?

足首から痩せていっているのが、《シルクハット坊や》に足の裏をくすぐられたのが原因だったりするのだろうか







「「「あ、そうそう、その帰りがけにやっぱり南畑ダムの道路をとおっ
て、そこで、トイレいきたくなっちゃったの。そしたら丁度、「死ぬ~、
て叫んだカーブのあたりに(笑、ほんとに崖のしたなんだけど、ちいさ
な公衆トイレがあってね、夕方だし、きもちわるかったけど、他にする
とこもないから仕方なく車とめて、けんちゃんに「でるんじゃない?と
かしつこく脅されながら(笑、うん。はいってみたの。薄暗かったけど、
電気もついてて、なんとかなるかなって個室にはいって、ドア閉めたの
ね。そしたら、その閉めたドアの内側に剥げかけた赤い口紅で 上ヲ見
ロ っておおきくかいてあって

(12聯)





4聯の続き、デートの場面、《南畑ダム》(実在するのは南端ダム)のトイレは心霊スポットであり、便所の落書きが使用者の視線を誘導する。

先述した3つの世界(A、B、C)のうち、どれもに共通するのは、こちら側とあちら側の境目、という点だと思う

A:遺書、霊
B:心霊スポット
C:彼岸

次元の超えやすさみたいな?







「「「バックミラーから左右のいれかわった薔薇模様の疾走者を見ると、
その姿は徐々に遠退いてゆき、にもかかわらずその幸福そうに血走った
表情はこちらへ迫ってきて、迫ってきて、迫ってきて、ミラー一面に拡
がると同時に弾けるように消えた

(13聯)





5聯の続き、ドライブの場面、薔薇模様の老女を追い越したのに、バックミラー越しに見える老女の表情が迫ってきて、そして消える

怖い







「「「オモカゲビトは異様に痩せている。固形物を食べない習慣だった。
物を食べるとやがては躰というパイプに空洞ができる。そこにはかなら
ずオモカゲビトのオモカゲビトが棲みはじめる。その感触にオモカゲビ
トは耐えられずわたしたちが出逢ったころにはすでに胃という臓器を極
限まで細めていたのだ。オモカゲビトより昔に出逢ったはじめてのオモ
カゲビトへの思いから常に満腹を意地していたわたしと同じ考えでオモ
カゲビトはひどく痩せていた。わたしとオモカゲビトの躰が並んでいる
ときは奇妙な均衡がうまれ例えば自転車の二人乗りをすればそのスピー
ドの残像のなかでわたしたちはとてもうつくしいわたしたちになれるよ
うな気がした。棲んでいた都心から故郷の景勝地までドライブにいった
ときには彗星の尾になってゆく感触にのめり込むあまりスピードのだせ
る有料道路のダム沿いカーブで警察にとめられてしまったことさえある。

(14聯)





オモカゲビト/わたし の対比は、

痩せている/太っている の対比となっているが、

その体型は《同じ考え》からそれぞれが至ったものだという。

つまり、自分の体内にオモカゲビトを棲まわせたくない、という理由から。

《固形物を食べない習慣》ってのは、食事制限をしているということ?(液体は口にできるってことだろうから、外界を拒絶している、みたいな解釈は成り立たないとおもう

《胃という臓器を極限まで細めて》ってのは、蜉蝣がおもいつくけど、本作後半に出てくる蚕蛾も、ものを食べるための機関が退化してるよね

つかさ、《オモカゲビト》は固有名詞かと思いきや、普通名詞感あるのよね、なんというか、憧れ(思慕・恋慕)の対象、のような

それをなぜオモカゲビトという言葉で言い表すのか

具体的な、ある感情を向けられた対象(実在する対象)、ではなく、そうした対象を内面化してしまったものがオモカゲビト(実在しない対象)だったりするのだろうか(それは思い出とか、懐かしさ、みたいなものとも通じるのだろうか

だから、オモカゲビトが上書きされたり並置されたりしないように、常に内面を含ませているのだろうか、《わたし》は。

いま・ここ、から外れた地点、こちら側以外にもどこかがあるという志向を感じる気がする、たとえば《そのスピードの残像のなかでわたしたちはとてもうつくしいわたしたちになれるような気がした》という言葉は、自転車に乗っている、いま・ここ、よりもなお、それが《残》してきたものに対するおもいがある。

《わたし》と《オモカゲビト》のドライブは、《けんちゃん》とそのパートナーのドライブとのパラレルになっている(時間はどっちが前後なのか不明







「「「ル楽は現在、搬送中では?「二輪車の荷台に積まれています。
「オモカゲビトと一緒ですか?「背中から数えて4回裏に。「マイナス
加速をどちらのほうまで?「いえ、めずらしく一定速です。「おやおや、
何処へも行けませんね。「そうとも言えぬものですよ。「それはどうい
うことでしょう?「あ、ただいま丁度、到着しました。「どこへです?
(ここはあなたの尾骨です。(しかしわたしはケ楽ですよ?(いえ、ち
がいます、あなたは「アントンです。

(15聯)





《二輪車の荷台に積まれて》は前聯の《自転車の二人乗り》を彷彿とさせる。

《背中から数えて4回裏》はまったくわからないが、《マイナス加速》は《残像》のことだったりするのかな?

《あなたの尾骨》と言っているあたり、死斑(《瘢痕》)の動きを感じられる(ケ楽たちは血の動きなのか?(血の動きと魂の動きを重ねている?

《「アントンです。》は、アントンの一人称がアントンだったことから、唐突にアントン自身が発話している感じでとても不気味ですてき







「「「気づいたらわたしは息をしていなくて、息子は後部座席に白色の
吐瀉を残し、ぐたりと眠っているよう、だった

(16聯)





《薔薇模様のツーピース》を目撃したふたりの様子、《息をしていなくて》《眠っているよう》という言葉は、ふたりが死と近接したことを示しているようにおもう。







「「「秋晴れの空をわたしは好きです。帰省してからはよく散歩をする
ので、血糖値も下がってきて、肉眼で星座もわかるようになってきまし
た。子どもたちとはうちとけてきて、この間はオレンジの飴を貰いまし
た。インスリンをいれたあとでふらふらしていましたので、その場でな
めると、こめかみのあたりに懐かしい甘い痛みを感じました

(17聯)





3度目の《秋晴れの空をわたしは好きです。》からはじまる聯、《わたし》の病状の回復が読み取れる。







「「「納骨堂の駐車場に車をとめて揺り起こすと、息子は不機嫌そうに
目覚めた。外にでると日射は強く、わたしたちを押し黙らせるのに十分
だった。ふたりは何もいわないまま納骨堂へはいり、妻の棲んでいる仏
壇にしずかに手をあわせ、眼を閉じた

(18聯)





《薔薇模様のツーピース》と出会った二人、彼岸に妻の仏壇まで手を合わせるために車を走らせていたことが分かる、妻の死因は不明。

《棲む》という言葉で、《仏壇》に死者がいることを示すのは珍しいと思った(本作での《棲む》は他に、オモカゲビトが体内に《棲む》、オモカゲビトとの有料道路のダム沿いまで出かけた当時都心に《棲んでいた》、のちほど出てくるオモカゲビトが想いに《棲む》ようになる、がある。







「「「オモカゲビトは警察の前で俯いたわたしをじっと見ていた。いつ
も俯きがちなうえ人といるときさらに俯くのはわたしの癖だったがオモ
カゲビトはそれをとてもいやがっていた。とくにこの一件のあとはオモ
カゲビトの病的なヒステリーはわたしの首の角度へと向かってゆく。そ
の数日後都心街へ買い物にでかけたふたりが同じ理由によりハンバーガ
ーと烏龍茶を食べているときにはきれいな花模様のツーピースをきたオ
モカゲビトにこう言われた。「上を見てよ。上を見なきゃふたりで夕焼
けも星も見えないでしょう"あなた"とそれができないのは悲しいよ

(19聯)





有料道路で警察にスピード違反を取り締まられている《オモカゲビト》と《わたそ》、《俯く》という言葉がこれまで作中に頻出してた《秋晴れの空》との対となって出てくる(《「上を見てよ》のオモカゲビトのセリフは、本作唯一の《オモカゲビト》の肉声であり、《わたし》がオモカゲビトにとっての《"あなた"》であることが示されており個人的には作中でキモとなる部分のようにおもう

《同じ理由によりハンバーガーと烏龍茶を食べている》というのは、痩せており固形物を口にしない《オモカゲビト》とふくよかな《わたし》が同じ理由で対照的な体型であったことの反復であろうか。







「「「あれがペルセウス座、となりがカシオペア、間にちいさく二重星
団、もすこし西に北斗七星、あすこがペガサス四辺形、3の天頂のちか
くです。

(20聯)





北天の空の様子、1聯で《腐れた青いベンチ》に座って見ていたであろう空(1聯であることからもわかるとおり、この不思議な作品、不思議な出来事の始まりは《青いベンチ》であったのだ

そして《ペガサス四辺形》はギリシア神話によると「神が地上を覗く窓に、四辺形の中にある星は神の目に喩えた(Wikipedia「ペガススの大四辺形」)」ものであるとのこと、(見るものと見られるものの反転、というか見つめあっている?(GPS的/高次元からの視点、が、地上/現世への座標--《"あなた"》!!--に合わせている







「「「わたしには"あなた"といる間どうしてもそれが出来ずに痩せこけ
たいとしい"あなた"のこころを衰弱させてしまいました。それを悲しま
れるたびにわたしはさらに俯いてしまって結局はそれが終につながった
ようにおもいます。皮肉なもので"あなた"がオモカゲビトとなってわた
しの胃袋のなかにではなく想いのなかに棲むようになってからはそれが
できるようになりました。きれいな空がいまは見えます。ひとつ年をと
る今はもう秋です。

(21聯)





《わたし》にとっての《"あなた"》が《オモカゲビト》であることが示される聯、そして《オモカゲビト》(《"あなた"》)が《わたし》より先に亡くなったことを読み取れる聯

《"あなた"》とふたりならんで空を見上げることが出来ず、死んだ《"あなた"》を《オモカゲビト》として想いの中に棲まわせて空を見上げられるようになった、ことの、皮肉(しかし、北天の空で見つめあっている。。。?







「「「いや、べつに怖い話じゃないって(苦笑、でも、そのラクガキに
どうしようもなく驚いちゃって。つい、逆らえなくて、上、見ちゃった
の。バカだよね(苦笑、べつに凄いモノは何もなかったんだけど、電球
にてのひらサイズの蛾がとまっててね、虫はだいじょぶなほうだから、
怖くはなかった。でも、その蛾、白くて太ってて、カイコかな?それで
動かなくて。死んじゃってるみたいだった。逆さまにとまったまんま、
じっとしてて、ごめんね、なんか意味ないねこの話、ごめんね、

(22聯)





《わたし》と《オモカゲビト》のドライブとパラレルのように、《けんちゃん》のパートナーののろけ話は展開されてきており、そして、心霊スポットをモデルとした南端ダムの公衆トイレで、見上げる、という動作を行って《白くて太って》いる《カイコ》のような《てのひらサイズの蛾》が《死んじゃってるみたい》にとまっているのを見た。

この蛾がカイコではないと思うのだけど(カイコは野生化しない虫なので)、カイコ的特徴として「ものを食べない・食べることが出来ない」があげられると思う、つまり《オモカゲビト》との共通点を見ることが出来る(《わたし》が北天を見上げて《オモカゲビト》と見つめあっていた、かのように公衆トイレで《けんちゃん》のパートナーが落書きに従って上を見ると《死んじゃってるみたい》な《カイコ》のような《蛾》を見つけているのだ

《ごめんね》、そうたしかに惚気話には何の意味もないのだが、ここで《意味ない》というのは、そう言いつつも《けんちゃん》のパートナーが話し続けたのは、この公衆トイレでの体験の言語化(とその出来なさへの直面)であるようにおもうの(故の《ごめんね》

言語化して共有してもらおうにも、自分の体験(それはある種の神秘的な面を伴うものだろう)を共有さすのはほぼほぼ不可能なんじゃあないかしらん(井上ひさし「ナイン」の登場人物が詐欺にあっても、少年時代に慕った野球チームのキャプテンを大人になっても信頼し続ける根拠として、過酷な環境を自分たち9人だけで乗り越えたんだ、という体験に求めているところのように







「「「アントンはいま、どこにいますか?(名前を呼ぶのはケ楽でしょ
うね。(林道のわきの腐れた青いベンチに座ると、(りっぱな椚のてっ
ぺんに、(わたしが駆けてございます。(薔薇星雲から遠ざかり、(き
ょうは彼岸で田舎へゆきます。(わたしの祖先や子孫を連れて、(迷走
彗星の尾をひいて、(百日紅から滑り降り、(廻転軸を季節にあわせ、
(曼珠沙華の道管くぐり。(痛点もなく空、晴れ渡り。

(23聯)





本当に美しいなこの聯。

幽霊が地上へ立ち現われていく様子を示した聯、これまでの聯のイメージを掬いつつも、新たなイメージも乗っけている

《百日紅》は、中国に「恋人と百日後に会うことを約束した女性が約束の日前日に他界、その後に咲いた」という故事があるそう(ググったら出てきたものを読んだだけで出典は不明(花言葉は「雄弁」「愛嬌」「不用意」、だけど百日紅は夏の花なので作品の季節感とはずれているような気がする。

《曼珠沙華》はご存じ彼岸花、迷信の一つに「土中の死体から血を吸って花が赤い」というのがあることからの《道管くぐり》なのかな(ちなみに彼岸花の花言葉は「情熱」「独立」「再会」「あきらめ」「転生」「悲しい思い出」「想うはあなた一人」「また会う日を楽しみに」。







「「「住職もよろしければ膳にあります茶菓子をお召し上がり下さい。
お茶の葉も、いつもの入れ物に残してございますし、給湯器のお湯も御
自由にお使いください。秋ももう深まりましたが、さて、わたしの屍体
は綺麗な仏になってございますか?流石の住職も、腐った仏のそばでは
くつろげないでしょう。それが心配で、息のとまるまでに、なんとか胃
袋の中を清浄にしておこうと心掛けています。溜め込んでしまった贅肉
だけで、往生するまでは生きようと思います。それが娑婆でのせめても
の罪滅ぼしとなれば、と願う心もございます。しかし、こうして綴って
います11月10日も、すこしずつ寒さをまして、庭のモミジは眼に眩
しいほど紅葉していますよ。この気候ならば、なんとか腐蝕は免れるこ
とが出来ると思います。本当に、秋にゆけてよかった。この季節をわた
しは好きです。

(24聯)





遺書のラスト。《わたし》もまた食べるのをやめて痩せていこうとしていることがわかる(まるで即身仏みたいに(いや、オモカゲビトのように

《11月10日》は、なぜこの日付が作中で採用されているのかわからない







「「「最近、アントンに会いましたか?あなたが会っていないのなら、
わたし手紙を書きましょう。<誕生日おめでとう。きょうは空がよく晴
れているから、散歩には丁度よい気候ですよ。

(25聯)





最終聯。2度目の《<》を用いた手紙の聯。《最近、アントンに会いましたか?~》の部分も1度目と同様。

この聯の話し手は誰だろうか。アントンは、もう亡くなっている--恐らく遺書を書いていた《わたし》が《アントン》で、進行している死/現世に幽霊として現れるの最中に《ケ楽》たちが生じていた。。。?--から、会えないだろうし。

とはいえ、北天の空で《"あなた"》と一緒になれたのだろう、と考えると、とても爽やかなエンディングだね。







【参考】
小林レント「秋空の散文詩」http://members.jcom.home.ne.jp/rentboy/akizora.htm
澤あづさ『散種的読書架』「小林レント『秋空の散文詩』鑑賞資料」http://blog.livedoor.jp/adzwsa/archives/42575460.html
渡邉建志「沈黙と怒り/小林レント讃4」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=50863
渡邉建志「into interstella burst/小林レント讃6」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=50887
ダーザイン「ダーザイン語録集(その5)」http://strangewalker.web.fc2.com/dazein_21.htm











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Posted on 20:31:37 «Edit»
2015
11/25
Wed
Category:【漏洩】

俺の話 

久しぶりに俺が出てきた。
昨日だ。
正直な話、俺はもう必要なくなったものと思っていた。
否定されたわけだし。
俺を作り物だと断じて、すでに無かったことにしたこいつを引っ張り出してきて。
やけん、こいつとやっていくものと思ったわけで。
まあ、俺としては寂しくもあったし腹立たしくもあった。
ただまあ、こいつのことを引っ張り出してくれたのは初めてだったわけで。
嬉しくもあった。

アポロンに呪われた女みたいに。

俺が出てきたってことは、こいつじゃしんどい事態になったってことで。
こいつはそういうの上手にできねえし。
それがいいわけになるかっていうと全然違う話。

アポロンに呪われた女みたいにしちまったのは俺たちのせい。
そして、こいつをこいつのままにしたのは俺のせい。

なんとかしなきゃなんない。

もっと自動筆記的に色々言葉が出てくるかと思ったけどそうでもないな。
エーエスだろうが他の何かだろうがそういうことを明らかにするんじゃなくて。
呪いを解かないと。
俺たちがやらないと。
tb: (0)    com: (0)
Posted on 14:26:28 «Edit»
2014
09/07
Sun
Category:【漏洩】

にねこ「【and she said.】」小考 

にねこ「【and she said.】」小考



元ラルオタのあたしは本作からL’Arc~en~Cielのセカンドアルバム(インディーズから数えると3作目)『heavenly』の3曲目「and She Said」からどうにも離れられないので、そこんとこから読んでいこうとおもふんだけど、――。

ちなみに、and she saidという慣用表現は特にないし、にねこさんの詩とラルクのこれに強いつながりがあるかどうかっていうのも、たぶんにねこさんのこれを読んでいるあたしのなかにだけしかないものだろうし、そういう意味では普遍的な読みとかじゃないけどね! いつもだけどね!

あ、本編にはいるまえにもうひとつ。アルバム『heavenly』は、ぜんぶで10曲から成っているんだけど、全体を通じてループになっているような構成で、歌詞や曲調から、女性との出会いと別れから浮き沈みする男性の人生、みたいなものを読みとれるんだけど(もちろんアルバムの並びとして前作の『Tierra』と次作の『True』を踏まえるとまた違うんだけど――大地、地球(Tierra)と天国(heavenly)の対比(憧れを憧れ続けていたTierraと、獲得と喪失のheavenly)もだし、heavenlyの最後の曲(The Rain Leaves a Scar)からのTrue一発目(Fare Well)とかベタに成長を見ちゃって楽しい、)、そうした読みとりを前提としたとき「and She Said」ってのは、恋人との別離の瞬間をスローモーションに捉えたような作品だとおもうのね、あたしは。ん、で、まあ、『heavenly』の1曲目と2曲目を踏まえ、――ストップ。

違う。こういう語りじゃない。




『穏やかな斜光の中で
左目が潰れてしまった、きみと
冷えていく景色が
すれ違っていくカレンダーの
色を、ひらり
一枚落とした。
そうして、彼女は言った。
風が邪魔した。』
(にねこ「【and she said.】」第1聯)



二重鍵括弧(『』)って、鍵括弧(「」)内の台詞として使われたり、書籍の名前に使われたりするのが普通で、一般的には単なる人の台詞は鍵括弧(「」)で括られるとおもうんだけど、この第1聯は誰かの台詞のように書かれてあるものの、二重鍵括弧(『』)で括られているんだよね、だからあたしこれってだれかの台詞じゃないじゃないのかな、なんて、――。

きみ、は、穏やかな斜光のせいで左目を潰してしまっている。きみ、は、冷えていく景色とともに、すれ違っていくカレンダーの色を落としている。きみ、は、彼女なのかもしれないしそうでないかもしれない。色が落ちてしまった瞬間に、きみ、は、彼女、へと、二人称から三人称へと、とほざかった存在になってしまっている。のかもしれない。

そして、彼女は、言った。しかし、風が邪魔して聞こえなかった。あるいは、「風が邪魔した」、と、――。




枯れてしまったあなたの瞳は
揺れる木漏れ日さえ映せないから
想い焦がれてた季節が
外で微笑んでいても気づかない
(L’Arc~en~Ciel「Still I’m With You」)



あたしはここにいる。まだ、あなたとともにここにいる。だから、あなたもここにいる。

あなた、は、瞳を枯らしてしまい木漏れ日の揺らぎももう映すことができない。あなた、は、あたしが想い焦がれていた季節を、あなたとともに過ごしたいと想っていた季節を、季節が、どんなに輝いていたとしてももう気づかない。あなた、は、あたしを映さないし、あたしはあなたの外で気づかれないまま微笑んでいる。

あなたはここにいない。まだ、あたしはともにここにいる。だから、あたしもここにいない。



僕が彼女に向けた最後の言葉はなんだっただろうか。彼女が僕にくれた最後の言葉はなんだったのだろうか。忘れてしまった、のか、それとも自分の心を守るためにそっと心が鍵をかけてしまったのか。空白の言葉の中に黒い蟻が点々と繋がっていくように、滲んだ手紙に隠されたような、そんな言葉を思い出そうか。そう。彼女と僕の、あの時の言葉。最後の言葉、を思い出すのに、一番始めのことを思い出すのはナンセンスなのかもしれない。だってそれから何年も彼女と一緒だったし、彼女の不在からもう何年も経っているのだからそんな事を探ったって。でも。順番は大切だ、どんなことでも。
(にねこ「【and she said.】」第2聯)



最後の言葉、とはなんだろうか。僕、と、彼女、の関係になってしまってから、言葉は果たして交わされ得たのだろうか。あるいは、きみを指して彼女と呼び回想するとき、僕、と、きみ、の関係の終わりに言葉はあったのだろうか。

――空白の言葉の中に黒い蟻が点々と繋がっていくように

二重鍵括弧(『』)で括るのって、鍵括弧(「」)で括ることに比べて、空白(□)で括っているように見えます。最後の言葉なんてなかった、という空白を充填するために、蟻が行列を成すように記憶を捏造してしまう、――回想、なんて思い出を都合よく物語にしてしまうことかもしれない、そういう語り口であることに、どれだけ自覚的であれるだろうか! きみ、の、実在する最後の言葉を検証することなく。

彼女とのはじまりは、彼女の不在の始まり。思い出は彼女が二人称になった頃から辿りなおされる。とてもとほいところから。




どれだけ離れたなら忘れられるだろう
風の声を聴きながら
やがて降りたつ日差しの下
そっとそっと目を閉じていたいだけ
(L’Arc~en~Ciel「Vivid Colors」)



心理的距離と物理的距離が比例関係なんて誰が言ったか知らないけれど、あなた、が、あたしのもとから離れていって、あたし、が、あなたと過ごした土地から離れていって、それでも思い出はあなたとあたしを、一人称複数で呼んでいた頃から絶えず再生させていきます。駅の階段の手すりに貼ったシールとか、いつも立っていた電車のドアのすぐ横のスペースとか。そういったものが目につく。似たような髪形、嗅いだことのあるシャンプー、知っている声色、好みの色使いの服装、自然と目で追うのをやめるために目を閉じています。

あたしたち、だった頃が煌びやかな色彩に包まれていた、と。イミテーションゴールドみたいな回想に浸っています。目を閉じて。耳はふさげない。両手が塞がっているから。風が吹いている。あの頃と同じ風が。




『はじまりの歌が聞こえて来た
それは常にあなただった
忘れていた飛行機雲の
その先に
呼ぶ声が、歌だった
電話は3分で終わった
浮かび上がり縛られていく
幾多の彫刻たちの
その足の裏を覗くように
高層ビルの上から靴の先にこびりついた汚れへと
伝うように蜘蛛が
ゆっくりと下がっていく
もうどうでもいい、と
酒の中に沈む石の煌めきが
揺らした
琥珀色に灼けた
のどの奥から漏れ出してくる
堪えきれない言葉の中に
「涙」という一文字と
「あなた」という三文字を
僕は書かなかった
書かなかったんだ
(にねこ「【and she said.】」第3聯)



回想は意識的に見る夢のようなものだ。時間軸に沿ったものを志向しても、結局は関係するものが連想されていってします。僕、は、あなたを聞いていた。耳はふさいでいなかったから。あなた、の声が、--。

高揚する気持ち。浮き足が立っている。靴の汚れを見るために下を向く。宙に浮いている自分の足が見える。気持ちが高揚しているのだ。一方で、助けを求めているのだ。地に足をつけて歩きたい。靴の先の汚れはまだ少ないように想う。蜘蛛が、僕を助けてくれたら、僕は地獄で何を差し出して恩返しすれば良いのですか!

あなた、とは誰でしょう。あなた、とは彼方のこと。とほくにいってしまった人。

琥珀色を胃に流し込む。こんな色彩だったのか、求めていたのは。思い出が身体に粘りつき時間は、僕、を置いていってしまう。




原色の道化師は空の上
手を差し伸べ言う“さぁセロファンの花畑へ行きましょう”
…堕ちてゆく僕に
(L’Arc~en~Ciel「and She Said」)



セロファンまたはセロハンはパルプを使って作られ現在は浸透膜等に利用されている。ここでは、花畑とも言っているように、色セロファンのことだとおもわれる。色セロファンは、赤と緑を左右に使用した眼鏡であったり、インベーダーゲームなどのカラーであったりに使用されてきた。ここでいう花は、そうした色セロファンを花弁としているのだろう。

セロファンの花畑とは、本来の色ではない色彩を持ったもの、という意味で捉えることが出来る。そうした花畑へ誘うのは、原色の道化師である。道化師は原色=Vivid Colorsを有しており、堕ちてゆく僕とは対照的に空の上にいる。僕に向かって手を伸ばしていることから僕を救おうとしているように見えるが、見せ掛けの色彩へ誘うことが、果たして救いなのだろうか。

思い出だけが、いつも美しい。




『空に向かって喇叭を吹き鳴らした。透明の嬰児たちが浮かび上がり、風に震える。セロファンを目に貼り付けた光景の、その薄さに肌寒さを覚え。鍵括弧で括られた消えていくはずの子らが、流される。途端に声を失い。』
(にねこ「【and she said.】」第3聯)



喇叭の音が空に向かう。管内を唾液が下っていく。透明の嬰児たちは色彩を持たない。色彩を持って成長するはずだった、あり得たかもしれない現実の未熟な姿だ。この回想をしている、この現在という、ここ、と、平行して別の世界が存在している、あるいは、していないのかもしれないが、回想の中では、少なくとも回想の中だけでは、有り得たかも知れない未来を思い出したっていいだろう!

風に震える。二人称だった者の吐息かもしれない。もう、まともに色彩を見ることが出来ないから。回想の中で想像した未来が、こことは別の階層で創造される未来みたいに。喇叭の音は、まだ鳴らせる。




プレイ。

『』で括った行分けの部分と、散文の部分が、別々の種類の「声」であるように思われました。この作品は全体として声の重層性を生み出しているように思います。『』の部分は、詩として、形を整えられ、選び取られた演劇的な声であり、それに対して散文の部分は、主体が思ったことをそのまま再生するという意味での内面的な声であるように思います。その二種類の声が、互いが互いを誘うようにして次々と繰り出されていく。さらには、『』で括られていない行分けもありますね。ここは、いわば『』の部分と散文の部分の中間のようでありながら、詩として一番通常なので、もっともストレートな声であるように思われます。だから、この作品は、詩が平板で一様な声でありがちなのを回避しているように思われます。人間の声の多様性・多重性、物語の語られる水準の多様性・多重性をうまく確保し、起伏に富んだ作品が仕上がっている。
(zero、にねこ「【and she said.】」へのコメント(http://bungoku.jp/ebbs/log.cgi?file=351;uniqid=20121214_335_6551p#20121214_335_6551p))



「空白の言葉の中に黒い蟻が点々と繋がっていくように」と作中にあるように、二重鍵括弧(『』)で括られた本文のパートは「思い出」される形で、記述されていることが確認できる。これは、回想形式――過去を意識的/無意識的にでアレ捏造してしまう――であることから、語り手の記述の選別が入っていることは明らかであり、ありのままの過去が記されているわけではない、ということがあらかじめ宣言されている、ともいえる。

そして彼女は言った

しかし、なんと言ったのか思い出せない。この、思い出せないことを思い出すために記された言葉が詩として提示されているのが「【and she said.】」であること。思い出せない、の理由が、ショッキングな内容ゆえの忘却なのか。それとも、そもそも思い出す記憶そのものを持ち合わせていないのか。なにかを思い出せるかもしれない、という、不在(存在し得なかった)の思い出を捏造するための物語としての詩、――。

そういうわけで、zero氏が言っていることとは逆に、徹頭徹尾語り手の声だけが充満してこの作品は立ち上がっているようにあたしは思う。しかし、直面しなかった多数の声を捏造し続ける力でこの作品が駆動しているようにも見える。いみじくも作中で「嘘」という言葉をアゴタ・クリストフの名とともに提示している。語りが、もとい、記述が、常に既に偽りであること、それを逃れられないことをわかったうえで、それでもなお嘘を付くポーズをとることの是非とは。それを祈りと呼べばカッコウが付くのだろうか。幼稚な我侭と何が違うというのだろうか。




ベッドの上に針を落とした
回り出す残響が
ぷつぷつと
雨を降らしはじめ
断片がそぼって
凍りついた毛布を
とかしていく
残され
滴る事をやめた
血液が
黒く
黒く
染み付いたのだ
天井の蜘蛛の巣が
くるくると回る
(にねこ「【and she said.】」第4聯)



and she said
そして少し幼い顔の君が小さな声で言った
最後の言葉が部屋中を駆け回っています

I think so
まだ少し肌寒い日の朝はどこか物憂げで
…やがて君がくれた日々も色褪せていくのかな
(L’Arc~en~Ciel「and She Said」)



2つのアンドシーセッドの共通点として、回転のイメージがあげられるが、にねこのそれは第4聯のレコードを思わせるイメージから様々に変奏される一方で、ラルクの方は「彼女の最後の言葉」――<もう会えない>――が部屋中ないし頭の中を駆け回っている。(予断だが、アルバム『heavenly』では「and She Said」より「ガラス玉」をはさんで、語り手が正気と狂気に分裂するような歌詞の「Secret Sighs」へと展開する。別離が分離を誘発させるようでもある。)

――ストップ。


10

『不在通知は
雨に掠れて届かない
知らぬ間に忍び寄っていた
灰色の震えを
左側の切断面に
ひくひくと呟いた
行方しれずの心臓の紐が垂れ下がり
緞帳を瞑らせ
骨なくして
指なくして
不便よりは
零れた赤が地面に絵を描く。』
(にねこ「【and she said.】」第5聯)



あたしにとって回想は過去を思い出すことではなくてあり得たかもしれない現在を作り出すことであって、それは、つまり、現在を照射してしまうということでもある。

きみ、がもういないことはわかっている。きみ、がいなくなったことを引きうけたくないから不在通知は届かせない。でも、届かない、ということが、わかってしまう、ということが、きみの不在を、際立たせています。

地面に絵を描く零れた赤は別に血とかそういうのじゃなくて、真っ赤な嘘、赤の他人になってしまったきみ、――彼女。

プレイ。


11

なにが面白いのか
子供の頃はくるくる回って
目を回して
それこそぶっ倒れてしまうまで
回転を愛した
天井が回り
目を瞑れば
セカイが回った
なにも知らない
矮小な世界だったが
僕は
そのセカイを愛し
十年以上のちに
きみも
このセカイを愛したはずだった
囁かれた
天井と僕との間に
ひきずられていく
煮溶かした
呼吸の中に』
(にねこ「【and she said.】」第6聯)



バランス失くした魚のように
僕はらせんを描く
水面に揺らめくキレイな月が
泳ぎ疲れた肌をそっと照らして
(L’Arc~en~Ciel「ガラス玉」)



犯された身体
舌先で優しく
溶かせてほしい溺れるまで
(L’Arc~en~Ciel「Seacret Signs」)



6聯目において、1聯目に出てきた「きみ」がもう一度出てきます。この小考では、「きみ」とは、語り手と恋人関係にあったときの人物、対して「彼女」を恋人関係が終わったあとの人物、と捉えて読んでおります。

「セカイ」とカタカナ表記であることから、少し前のセカイ系(キミとボクとセカイ)を思い出すことが出来るでしょう。「僕」と「天井」(「僕」を上から見下ろすもの、超越的な何か)のあいだには、ラルク「and She Said」の「最後の言葉」を連想させるとともに、「Seacret Signs」の性的なイメージ(の回想)も想起させます。また、回転するイメージは、「ガラス玉」の歌い出し、そして「ガラス玉」が「and She Said」の次の曲であることから、恋人同士という関係の終了、誰かの恋人であることの死(魚が回転しながら水面に浮かんでいる!)を読むことも出来るように思う(ああ、この曲のhydeのファルセットの美しさは現世のものではなくなることの儚さを思うとまた格別なわけでして。。。


12

リンと電話がなる。というのはもちろん比喩表現で当時の着信音は「your song」でいまとは変わってしまってる。追憶。そうそう電話がなったのだった。声が聞こえる。始めての人の声、単純な用件を伝達するだけの電話はしかし夜通し続き、顔もしらない彼女に恋をした。なんの話をしたのだっけ?ピアノとエンデとアゴタ・クリストフの話。二つの嘘が始まった夜。
(にねこ「【and she said.】」第7聯)



固有名詞に関する考察は澤さんに任せるとして、ここで言う「二つの嘘」とは一体なんだろう。この作品を、恋人という関係の終了した語り手が終了時に発せられた言葉を思い出すための回想、という形式として捉えている、と、ひとつ、思いついたことがある。

「僕」は「彼女」の恋人ではなかった。
そして「僕」にとっての「彼女」も、――。

セカイ系において、ボクとキミの関係の外に置かれたキャラクターはモブキャラ(脇役)と呼ばれることになる、というとあまりにも雑すぎるね。別にセカイ系に限らないけれど、焦点の当たらない登場人物が脇役になること。それって、自分以外の人生の持ち主もまたそのもの自身の人生の主役であり脇役など存在しない(斉藤倫「ワトソンフォビア」参照)ことと表裏ではあるだろうけれど。

えっと、何の話だったっけ。

各人は各人の人生の主役であり全ての人物が主役であるなら脇役など存在しない、という考えに立つとき、恋人という関係を結び・終えることは相手の人生の脇役となることと言えないだろうか。それは痕跡といってみてもいいけど。

心なしか苦い煙草はため息まじり
微笑む人並みに揺れては消えてゆく
どうやら配役はうつろな通行人のきざし
それならひっそり彩り添えるよ
(L’Arc~en~Ciel「C’est La Vie」)




13

『信じられないといって
噛みちぎって行ってしまった。
だから僕の半身は
ここにはないのだ
僕の右手は
寂しい左側をなぞる
ごうごう風が行き過ぎる
耳鳴りの音も半分で
半分の呪いが
食べ残されたように
僕の体にわだかまる【and she said.】』
(にねこ「【and she said.】」第8聯)



ベタに「僕の半身」は「きみ」だとおもってる。金河南さんの想定はめっちゃおもろいとおもうけど、海老料理みたいな語り手を想定して読む読み方を駆動させる材料が足りないんやないかな、ともおもう。

まあ、いい。おもしろければオールオーケイ。

ちなみにわたしが「きみ」だと判断する理由は、左側に「風」があるからで、それは1聯で「そして彼女は言った」ことと関係のあるものとおもえるからだ。んでね、それはさておき。この聯においてもっと重要な点は作品タイトルが記述されていることなんだよね。

わたしは、空白(彼女の最後の言葉)を充填する行為として、『』に括られた記述を見てきたし、それ以外の部分は、それを彩る装飾的なものだとおもっていたんだけど、よくよく見ると本作のタイトルって墨括弧(【】)なんだね。白が黒くなってるんですね。まあ、ただのおもいつきなんですけど、――。


14

嘘つきな僕と正直未満の彼女が吐き出した嘘が日常を覆い隠すまでに時間はかからなかった。電話での顔のないやり取りは2ヶ月続き、初めて顔とそこに貼り付く表情を眺めた夜、二人は口づけすらせずに寄り添って寝た。それは果たして啓示だったのか。いやそんなはずはない。僕に神はいない。彼女に神がいなかったように。彼女はキリスト教が好きで、その偶像が好きで、フレスコ画が好きで、ロダンの地獄の門が好きだった。二人でよく西洋美術館に出かけては、何も言わずにロダンを見つめた。僕はそれを見つめている彼女の真剣な頬が好きだった。お互い宗教については曖昧で、なんだか、神様という言葉を玩具のように扱った。憧れ。かもしれない。ドゥオーモの鐘がなり、幸せな花嫁がライスシャワーを浴びる。きらびやかなステンドグラスと磔にされた男の姿。響くパイプオルガン。遊戯的で意味もわからずに。そうか。嘘ついたんだっけ。ピアノの話。共通のある好きな音楽のピアノで弾き語りができるよと部屋に誘った。わかりやすい嘘、僕の部屋のシンセサイザーは当時の「ラ」の音が出なかった。Aマイナーの曲なのに。笑ってしまう。もちろん弾き語られる事はなく、響いたのは彼女の方だった。
(にねこ「【and she said.】」第9聯)



嘘の正体。「ピアノをききにおいでよ(ピアノひけないけど)」と「ピアノききたいな(ピアノひけないのわかってるけど)」の二つ?だろうか?

いや、そうじゃないとおもふんだよね。2人の嘘が日常を覆い尽くしてしまうわけで、2人はたくさんの嘘をついたことだとおもうんだよね。だから、最初の嘘以降は、最初の嘘から一続きになっているもので、それはけっきょく個数としてカウントしなくていい気がする。うん、なんか文章ぐちゃぐちゃだ。

えっと、「僕」と「彼女」が嘘でない発言をしている箇所がどこか、というのは、少なくともこの聯においては、冒頭に「嘘つきな僕と正直未満の彼女」と掲げていることから特定できない。彼らがクレタ人かどうかは知らないけど、本当のことを話さないぜ、と宣言された記述は、信頼できない語りになってしまうよね。それは、本作の回想って形式とも通じるところではあるけども。

――ストップ。

15

『「一人の男が死んだのさ」マザーグースの歌のように。「とってもだらしのない男」』
(にねこ「【and she said.】」第10聯)



あたし、ある関係性が終了したからってそいつ自身が死んでしまうことっていうのは、比ゆ的にもありえない、という考えが信じられなくて。

嘘から始まった恋がホントウになっちゃったら、嘘をついていただらしのない男、は、死んだって呼んでもいいとおもふんだよね。


16

神の言葉を僕が感じられる訳がない、姦通し姦淫を好み、蛇の様に赤い舌で絡め取った粘膜は僕の悪徳だから。初めてお互い肌を触れ合わせてからは、とどまることを知らず、ただ求めあった。お風呂場でのセックスというのは不思議なもので、もしそこに水の精が存在しているのだとしたら、きっと笑って、ちゃぷちゃぷ笑って、そしたら思わず僕らも笑ってしまう。照れ臭くてなんだか幸せで。幸せというなんだかわからないものの形を模倣するように何度も何度も繰り返し抱き合った。
(にねこ「【and she said.】」第11聯)



なんか、ここまでラルクをそばに置いてきたけど、これとかこのちょっとまえから、ジャンヌっぽいよね。

すべてはこの瞬間のため
数えきれない「種」をまいて
ヒキョウな手段で君を抱いた?
ちがう!誰も傷ついてない また自分に言い訳してる
君への愛に嘘はないよ
じゃあなぜ今も魅せられない
うしろめたざ ゼロじゃない?
(Janne Da Arc「seed」)



ほら。

『湯気が隠す
湾曲した愛情と愛情を歌う欲情と浴場に眠った秘密の情景が
シャワーカーテンを濡らす
びしょびしょのまま
足跡をつけて追って来いと獲物が呼んでいるので
あとをつけた
息を殺さねばならない
一撃で仕留める約束だから』
(にねこ「【and she said.】」第12聯)



これは、映画の『サイコ』を思い出した。『サイコ』も映画の作中で主人公が変わるよね。


17

一日の構成物質がふたりの分泌液にまみれていくように、カレンダーを塗りこんだ。僕の舌が辿らなかった場所はなく、地図に描かれていない空白の場所に慎重に道を引くように、僕はシーツに彼女を描いた。そのうちに彼女自身が僕の舌になりひらひらと赤く蠢き出す。僕は饒舌なのできっと彼女も姦しかったのだろう。僕がしゃべる度にシタになった彼女もひらひらとよく踊った。
(にねこ「【and she said.】」第13聯)



「Seacret Signs」の舌の動きを思い出す。というより、注目すべきはカレンダー。1聯の「きみ」が「彼女」へ変わるきっかけが、「すれ違っていくカレンダー」なわけで。この聯では、ふたりの分泌液をカレンダーに塗りこんでいる。このことから、作中の「カレンダー」は、まんま、ふたりで過ごした時間の暗喩であり、空間の暗喩として彼女が使用されてもいる。地図に描かれていない空白の場所、存在しない土地、ユートピアとしての時空間を回想している。


18

『その天井の木目を何度数えただろう
終わるまでの時間に震えが走り
連結した時間の切り取られた風景
それはそこかしこに眠るベッドで
揺籃を揺らす手はもう失って
噛みすぎた薬指の赤が
押しつぶす他人の重力の回数に染まる。』
(にねこ「【and she said.】」第14聯)



この薬指は誰の指だろうか。誰が誰の指を噛んでいるのだろうか。

噛む人→噛まれる人
1)僕→彼女
2)僕→僕
3)彼女→彼女
4)彼女→僕

なんとなく(3)で読んでたんだよねー。「僕」以外の人とも身体を重ねているんだろうな、ということを、「僕」が「彼女」の指を見て気付いてしま(い、自分の嫉妬に気づいてしま)う。


19

不思議な舞踏は熱帯魚を思わせる。様々に人工的交配を繰り返され、色とりどりに染められたベタが争う様に、絡みつきそうして鱗を剥ぎ傷つき、しかし美しく。しなやかに背を反らせて、彼女はうめき声をあげる。声。そうだ声だ。僕たちは時に耳になった、そばだてるように、すべての音を取りこぼさぬようにと、録音しいつでも再生できるように、澄ました。僕らには光学磁気のシステムはついていなかったから。粘膜の立てる音、セキやクシャミ、そんな他愛のない肉体の立てる音に共時性を見出し、渇いたように、貪欲に。波形が絡み合うように。疲れるとそのままで眠った。塗りこまれ、赤子のように濡れた肌のまま。
(にねこ「【and she said.】」第15聯)



この聯は、回想中に何のために回想をしていたのか気づく瞬間が描かれている点でなかなか興味深い。「彼女はうめき声をあげる。声。そうだ声だ。僕たちは時に耳になった、」このフレーズは、彼女の最後の言葉が何だったかな、ということを思い出すために、彼女の声を手がかりにしようと気づいた瞬間、とでもいえそうな気がする。

あと、「僕たち」「僕ら」と一人称複数(cf『悪童日記』)が出てきている。この人称の変化は、赤と他人となった元恋人との情事を脳内で再生していたら当時の心境に戻ってしまったんだなあ、とかおもってしまった。(あ、でも、さっきの「カレンダー」やこの聯の「共時性」なんて言葉、「塗りこまれた」という言葉の反復から、恋人同士=一体化する関係性、ってのがあるのかなあ、、、


20

『白詰草を編んだ
つながっていく絡まりが
空を閉じ込めた
眼球に
転がる草原の草笛の音が
拡散し溶けて
広がったスカートが染まる
青は醜いと
王冠を放り投げ
王様は裸の罰を受けた』
(にねこ「【and she said.】」第16聯)



嘘が嘘であることがばれてしまった(裸の王様が罰を受けている)。

いつも眉を顰めて眠った。夏には可愛らしい小鼻にプクリと汗を浮かべて。でも苦しそうだった。彼女の出自には実は映画の様な秘密が隠されていたのだけれども彼女はその事を知らない。僕もその事を知らない。知らない世界が多すぎてだからこそ二人の嘘がなり代わり視野をつぶし「u r all i see」まさにそうだった。お互いにとってお互いは常に他人で片割れで共犯者で、かといって当事者ではなかった。猫が好きだった。そうだ、野良猫に餌をやっていたっけ。小さなアパートで真っ白い猫。覚えたてのフランス語で名前をつけた。ネージェ。雪という意味らしい。後で分かった事だけれども、Neigeはネージュと発音するのが正しい。知った時、互いに顔を見合わせて大きな声で笑ったんだ。ネージェは、人懐こい猫で、窓を開けて名前を呼ぶとどこからともなく現れて、一声鳴いた。実家で猫を飼っていた彼女はことの他喜び、その顔を見るのが僕も好きだった。やがてネージェは黒い猫と結ばれて、沢山の仔をもうけた。名前を呼ぶと必ず一緒に仔猫を連れてきて、彼女に抱かれた。僕も抱いた。仔猫はふわふわした毛玉の様で、それが生きているものだとは俄かには信じられなかったけれど、確かにあたたかく、軽い命を燃やしていた。愛おしい生命の具象として猫がいて、なんだか誇らしかったのを覚えている。ネージェが急に訪れなくなった日、庭に彼が死んでいた。
(にねこ「【and she said.】」第17聯)



ここも、嘘が嘘としての力を失った場面、つまり、関係性が崩れていく場面であるようにおもう。二人の関係は嘘がスタートであったかもしれないが、そこにはホントウのことがなかったのかもしれない。Neigeがネージェではなくネージュであることが正しかった、というような、嘘(意図的な事実の隠蔽)ではないけれども、誤り(意図しない不適当な選択)が重なってきたものだった。云々。

さて、庭に死んでいた「彼」とは誰だろうか。わたしは語り手(=「僕」)だと思う。次点でネージェの伴侶である黒猫。ただ、これは同じことを意味しているようにおもう。つまり、比ゆ的な死、「恋人としての僕」が、ここで終わったんだ、ということに、語り手が改装中に気づいた瞬間、過去の時空間のなかに、現在の語り手が不気味に死んでいる様をイメージするんだよねー。


21

『だから言った。私は言った。直立した朝に出棺した、夜夜の戯れを葬る。短すぎたネックレス、折れた爪。そしてペディキュア。猫も笑わない真空の月の光が、まだ照らしている合間に。出ていけと、不実な果実の搾りかすに。発酵して湯気を立てる前に。』
(にねこ「【and she said.】」第18聯)



そして、前聯で気づいた上での(記述としての)回想、(一人称が変わっている!)。

記述としての、というのは、この作品が形式的に3種(4種?)のものを採用しており、それぞれがそれぞれにつっこみを入れているようにも見えるから厳密には区別するのは困難なんだけど、とまれ、『』で括っている箇所をもっとも距離を置いたものとして見ていることからきているよ。


22

酔い潰れるまで、酒を煽る夜があった。自らの腐臭を焼く為に酒を飲む。ままならぬ世界にべったり甘えたまま、からんと音を立てて飲み込んだ。そんな僕に辟易したのか、それが、最後だったのか、否。彼女と僕は、その場所に「同時に存在していなかった」。けして明かす事なく、部屋の片隅で静かに腐っていく僕の触角は(ほのめかす事すらしない)恥、だ。気づいていなかったのはもしかすると僕だけだったのかもしれないけれど。酒。彼女はあまり飲めなかったけれど、僕との時間を愛した。色々なバーを渉猟しいろいろな物語を紐解いた。妖精の話やダ・ヴィンチの話、転がったおにぎりの実在論的解釈。くすくすと微笑みを分け合いながら。酒を飲んでほんのりと染まる背中に残酷に刻んでいく言葉と体温をきっと嫌いになれるわけがなくて、だから傲慢だ。支配されていたのはきっと包まれていた僕なんだ。
(にねこ「【and she said.】」第19聯)



ここで、「にねこ」というハンドルを考えてみる。「二匹の猫は互いに同時に存在する。」がtwitterのアカウント名として使用されている。これは、先に述べた、恋人関係=一体化、という奇妙さとも一致しないか?(どうかな?

ただ、ここであたしがおもうのは、彼女がまったくの他者、自分とはまったく無関係に自律・自立している赤の他人であることに、ようやく気づいた点で、無駄に全能感もってた赤子が徐々に母親は他人だってことに気づく=成長のような、そういう、なんだ、薄気味ワルさみたいなものを感じるね。(別にこれはdisじゃないよ、こういう関係性をそのままに繰り出すその手腕への賛意と、その主題に対する個人的な価値観との差異は、あって然るべきべき

まあ、ふつうだったら、彼女が他人だった!僕ちんも大人になろう!(子供の僕ちんが死ぬ(=大人の僕ちんの誕生)=成長!って具合なんだろうけどね、ここでは、僕ちん腐ってるからね、ゾンビだよゾンビ。マジ生かす(←わ、わざとだからね//////

ああ。喉が渇く。
(にねこ「【and she said.】」第20聯)



これなんかも、ゾンビっぽいフレーズだよね。ジョジョ6部のリンプビズキット(死体から透明なゾンビを生み出すスタンド)を思い出したけど、別にそれでなくてもゾンビって脳漿すするイメージあるよ。


23

『穏やかな朝から出発した
穏やかな一日
が連なる
いつ覆るかわからぬ不安

気付かぬふりをして
穏やかに
穏やかに
水を飲んだ
水道のからん
ひねる
冷たい
そういう日
(にねこ「【and she said.】」第21聯)



私の中の水がへり
少しずつこぼれ
私は自分の体液で溺れているのだと
思う
海はきっと私の
中にあるのに
切り離された小さな雫のうちに
溺れる
それは』
(にねこ「【and she said.】」第22聯)



この「私」は、ゾンビにならなかった場合の「僕」、と見ているよ。ゾンビを経由して「私」になった、ってのもありそうだし、その違いは大きいとおもうけど、現在の語り手がそのどちらも有してない、とはいえないし、どっちも持ってるんじゃないの?くらいな感じ。

や、回想というのはそういうものだとおもうんだよね。それぞれを細かくみていくと矛盾があっておかしくなく、同一の事象を思い出す角度によって逆照射される自画像も変わっていく、みたいな。


24

嘘つき。それは知っていた。いつしか二人の間で交わされていた約束。嘘をつき続ける事。その一つの嘘は僕にもわからない。本当を求めて、失われた半身に出逢えた喜びを悦びにすり替えていた二人は、嘘に酩酊していくのだ。ふらつく足で塀の上を歩く様に。
(にねこ「【and she said.】」第23聯)



僕にもわからない「嘘」は、たぶん「彼女」から「僕」への嘘だとおもうんだ。そんでもって、この嘘は、わかっていないフリ、とわたしは見ている。勘だけどね。

嘘からはじめた恋人ごっこに本気になっちゃったのが僕だけ、というのに耐えられないんじゃないかな。


25

『手を離すと落ちるよ。それはよくわかる真理で。その痺れが、僕らを繋ぎとめる。いずれにしても、溶けていく消えていく、だから。骨だけはしっかり残そうと、ふたり。情景がぼやけていく中で、底のない川に金属製のオールを突き立てるように、笑った。』
(にねこ「【and she said.】」第24聯)



一人称複数形。しかも、「ふたり」と平仮名表記。「二人」では「ひとり+ひとり」であることが視認しやすいけど、「ふたり」だと「僕ら」という人称とも合致しやすいのかな。

底のない川にオールを突き立てるってことは、不可能さとか危なっかしさとかをおもわせるよね、一見微笑ましくありながら、諦念をおびてる。


26

あの日が蘇る
ぼくらはここへ来て
一日中眺めていた...
もう二度と会えないのかな
(L’Arc~en~Ciel「静かの海で」)



騒々しい一夜。ベネチアングラスが割れた夜。彼女がお土産に買ってきてくれた、揃いのグラス。透明な赤がとても綺麗で、大のお気に入りになった。ワインを注ごうよ。飲めないくせに、バローロなんて買ってきて、赤が赤に沈んで行く様に瞳を輝かせた。生きているみたいだね。そうかな。僕は彼女の胸に耳をつける。静かの中でとても柔らかいノイズが蠢いていた。ベネチアングラスは透明度が命なんだよ。光に透かしてみて、黒く澱んだ部分がなかったら、一級品なんだ。野暮ったい蛍光灯を消して、蝋燭に火をつけた。わだかまる、黒い影が、無数にテーブルを彩り、後ろ暗い愛を囁いている。僕は微笑む。そうして彼女の耳を齧る。
「嘘つき」
明かされてはいけない本当の嘘が、物語の帳を破って。その数ヶ月後、ベネチアングラスは故郷に帰るように窓から飛び出した。破片がまるで血の様だった。
(にねこ「【and she said.】」第25聯)



『割れてしまった
ベネチアングラスの縁が
足を裂く
傷口は深くない

天使の欠けた足裏の
ミケランジェロの思い出と
ダビデ像を、旅出像と
勝手に思い込んでいた君は
ゴリアテの片思いも知らずに
えへへと笑い
ワインにその顔を
浮かばせる
共振する相手を
失った、赤の右側が
ゆっくりと冷えて
伝わるのが
血液なのだとしたら
やはり君は
えへへと笑い
そうして、言うのだろう
何度も聞いた言い訳を
何度も塞いだその唇で』
(にねこ「【and she said.】」第26聯)



なんとなく捨てられたベネチアングラスは窓の外で死んでいる彼に当たっている感じで、「赤の右側」である「僕」が彼女を直視していないこととも通じ合うようで、それを否定するように性衝動に頼るのも、なんというか、陳腐で、ただただ哀しい感じが、そのまま描き出されている感じがしていて、おもしろい。

笑っている彼女を見るシーンがこれまでいくつかあった気がする。お風呂場でエッチするとことか、ネージェのとことか、酔っ払ったぼくとおにぎりについて話しているとことか。
それらと比べてこのシーンの彼女の笑顔は、ワインの水面に映っているものとして描かれている。そして、――。

同じようにゆがんでいたから、同じように求めあったのかもしれない。そのあわいには真空に潜むエーテルの神秘が残り、その不条理がさらに二人をゆがめていった。
(にねこ「【and she said.】」第27聯)



「同じように」という、一方的な決め付けが入る。こともなし、回想とはこういうものである。


27

『沈黙が木の葉を揺らし、冬が手紙を落とした』
(にねこ「【and she said.】」第28聯)



抱きしめた時の体温が冷えていく。何時キスをしたのか分からない、少し薄目の形のいい唇が、ゆがむ時がやがて訪れるなんて。皮肉なものだね。
(にねこ「【and she said.】」第29聯)



『咥えたまま、しゃべることもできずに、頷いた、それは肯定なのか否定なのか、自分でもわからずに、ただこの時間に溺れていたかったその契約を、レースに署名した。引き千切られる、その前に。』
(にねこ「【and she said.】」第30聯)



先取りする形になっちゃうけど、言い訳はキスで塞ぐ、唇は歪まされる、口には咥えさせられる、手紙は引きちぎられる、という形で彼女の声を奪ってきたのが自分だった、ということを辿れてきたのだろうか、語り手は。


28

ああ、こんな話面白くない。最後の言葉、最後の言葉なんだ、思い出せない。どうして思い出そうとしたのかさえ思い出せない。最後の言葉。あなたがいなくなった日。月並みだけれども、世界が反転した。すべてが敵にまわってしまって、僕の歯車は欠けているのに、太陽は上り月は上り朝は騒々しく網膜を焼いた。生きている、その事をいっそないものにしようかなんて、笑っちゃうね。でも、現実として水すら飲み込めない凍りついた時間が足元に転がって僕を苛んだ。だから?
(にねこ「【and she said.】」第31聯)



さて、時制がようやく現在の語り手に帰ってきた、けれどまだ「僕」のまま、ゾンビのまま。ゾンビ僕ちんだから、「僕を苛んだ」という言葉も吐けちゃう。だから?


29

『だからいった。わたしは言ったんだ。
胸を叩いて、嗚咽した。彼女が残したのは、なにも入っていないマグカップとティースプーン。
それから彼女は沈黙した。沈黙した。沈黙した、だけだった』
(にねこ「【and she said.】」第32聯)



「ふたり」と「二人」が異なるように、この聯のみに出てくる「わたし」と「私」は違うだろう。ただ、ちょっと趣がちがう。あたしがおもうに、「だから言った。わたしは言ったんだ。」のみが、作中の彼女の「声」だ。(冒頭の「風が邪魔した。」を含めるのであれば、この2つのみ)。

そして。
耳は瞑れない。
ゴッホはカミソリで切り落としたよ。
丁寧に封筒の中にいれて、
レイチェルの元に自分で届けたそうだよ。
さあ。
僕は。
(にねこ「【and she said.】」第33聯)



さんざん「声」を受け取らずにいた「僕」の行く末を暗示するように、ゴッホのエピソードをつけて本作は終わる。狂気なのか正気なのか、という問いかけを発することの出来る語り手はまだ正気なのではないだろうか、どうなんだろう。


30

ラルクの「and She Said」と、本作「【and she said.】」の相違点として、最後にこの一点を指摘しておきたい。
本作のタイトルにはピリオド(「.」)がついている。「そして彼女は言った。」とは、「何を」も「誰に」も明示することを禁じているような向きさえある、そんな風におもった。


***


かせ
tb: (0)    com: (1)
 27聯の君
二人称の「君」を見落としていましたね。

本稿では「二人/ふたり」、「私/わたし」と、表記の違いが意味の違いをもたらすものとしていますし、そもそも、本稿に限らずそういうもんだろ、という立場にそもそもあるわけですが。いやはや。

澤さんの読みとは前提が異なるので、あたしはあたしの読みとしてこの二人称「君/きみ」の差異を明らかにしないといけないわけで、--。

ただ、まあ、語り手の、相手の笑顔を見る視線が異なるのがこの27聯なので、距離感の違いかな、程度の認識でした。

【遠】 彼女 あなた 君 きみ 僕ら 【近】

こんなイメジ。

んで、そうなると「僕ら/僕たち」の区別もしていないことに気が付くわけで、--。

ただ、「僕ら」が「僕+きみ」であるのに対して、「僕たち」は本稿中の「わたし」の一歩手前、な感じがしないこともない、かな。回想中に現在の思考が混線してきている感じからも。

【幼稚】 僕 ゾンビ僕ちん(作中にはない) 私 僕たち わたし 【成長】

こんな感じ。
  by かせこ
Posted on 19:23:34 «Edit»
2014
07/20
Sun
Category:【漏洩】

群昌美・横山黒鍵「レイン 。」小考 

群昌美・横山黒鍵「レイン 。」小考


詩における語り手とは。



硝子のような湖面に映る私を
優しい雨が醜く歪める
              (hyde「追憶の情景」部分)





ポエケットでいただいた群昌美ことsampleさんと横山黒鍵ことにねこさんの連詩集『レイン 。』より、全体を対象に、本作の語り手がどのようなポジションにいるのかということを読み解きながら、詩における語り手ないし連詩における語り手とはどんなもんなのかな、ということを、適当に与太っていけたらいいなとおもっています。

「レイン 。」というタイトルとおり、雨が主旋律として採用されており、ここから

1)水のイメージや、
2)曇天から連想される光/闇のイメージ、
3)雨音から展開される音・音楽・楽器のイメージ、
4)鳥や虫などの動植物のイメージ

などが重層的にかつ連をまたぐごとに変容しながら描かれていきます。ひとつずつ見ていきましょう。特に断りがなければ『レイン 。』からの引用であり、それぞれのページには2聯ずつ置かれておりますので、各フレーズの終わりにページ番号と左右どちらの聯かだけ示します。



1)水のイメージ

窓を打つ雨粒(1右)
孤独の波紋(1右)
音曲の金魚たちが尾びれを震わせて(2右)
金魚はやがて水槽のなかパール色の気泡を吐いて夏の水面を見上げるでしょう(2左)
沈黙のガーゼで縫いあわせた帆布に唇の型取りがいっそう華やかで(3右)
両手いっぱいに窒息のブーケを抱えて沈黙の水路を行く(3左)
あなたの血が水に、街に混ざってゆくとき(3左)
降りしきる語彙(4右)
湧き上がるちいさな泡(4右)
濡れる。(4左)
「紅茶を淹れる。」(5左)
湿った薪が弾ける音(6左)
湯気を吹き上げたケトルから溢れた涙と焦げる匂い(6左)
やわらかい素足を傷つけながら進む直角の海の中(6左)
幽閉された口伝えの汗は鈍く光った(7左)
私は澱を漉く(7左)
朝露に濡れた草原(8右)
温かい涙(8右)
……血液、精液その他諸々(8左)
水分を吸着させるには粉末が有効であるといいます(8左)
涙の一滴に屹立する花の雌しべ(8左)
半睡の目はまだ濡れたままで(9右)
汗で付着した顆粒(9右)
何度も口を漱ぐ(9左)
泥濘む葬列(9左)
水の告別(10右)
澄んだ水を湛えられないから蝶を放つ(10左)
そして常に新しくこぼれるあなたに出逢う(10左)
夜が水を湛えている(12)



ここで扱われている水のイメージは、意味を持つ以前の言葉(のようなもの)をあらわしています。1右では雨粒が孤独を誘い、「蝋付けの翼では手紙が書けません」と語り手である「私」は述べ、「上手くもない歌を歌います」。手紙を書く、という行為が、他者(=「あなた」)とのつながりを求めるために言葉を使用する、ということを表しているのに対して、雨音や様々な楽器の音へと転変していく、歌を歌う、という行為は、「私」のなかで完結している言葉の使用であり、対照的です。

尾びれを震わせる音曲の金魚の口から漏れるものは、色のないマネキンの肌の色にも通じる、色のない気泡に過ぎず、やがて息も出来なくなります。窒息は毒性の強い花となり繁茂し、沈黙のガーゼで縫いあわせた帆布で風を受け、沈黙の水路を行きます。

言葉のようなものだった雨は意味を与えられた語彙として「私」の輪郭を浮き彫りにし、「私」の声帯を震わせる湧き上がるちいさな泡は目に映る事物の輪郭をはっきりさせることができたけれど、それは同じ口形に調律されたもの、嘘のように整えられたほどけやすいものに過ぎませんでした。そこで、「私」は紅茶を淹れます。雨水を飲めるものに調整し、飲む者の好みの濃度に調整=調律できるもので、口内を作り変えようとします。

誰かの言葉だった雨が湿らせた薪で火をたき、気泡のように湯気は上昇し、雨滴のようにケトルの側面を涙となって水は溢れ流れます。水の上/下それぞれの運動。無際限の言語の海を、それでも自分でまかなえる範囲で直角に切り取り、おっかなびっくり自分の言葉を捜します。それは澱=残滓となった肉体の欠片であり、言語が、自分勝手のものでもなく、紋切り型でもなく、己に立脚したもの、として獲得されていきます。

しかし体液となった言葉はそのままでは相手に届きませんから、粉末と混ぜ合わせ、インクをつけた羽ペンで手紙を書くように、絨毯に指で擦り付けていきます。偶然生じた汚れのようでありながら、蜜を見つけた蜜蜂のダンスと同じ8の字/∞のサインは、割り切れない・伝えきれないものであり、相手へ口頭で言葉を伝えるため、なんども口を漱ぎます。

漱いだ水を吐き捨てるように、言葉=水と告別します。孤独の波紋を広げるだけだった雨粒もいまでは演奏のために傘を広げ迎えます。歌からはじまり、呼気を用いた楽器を経由して、偶然に左右されるしかない雨音を演奏する、という矛盾、でもって、言葉を扱うこととする。

直角の海のように湛えてられない、棺に納められた生まれたばかりのあなたとわたしは、四角く切り取られた窓から見える風景、片手で数えられるだけの風景しか引き受けられないかもしれないが、窓は修繕され、n(=あらゆる数字を代入することが出来る)に似たあなたをわたしが窓の内側で待ちながら、終わります。



2)光/闇のイメージ

窓を打つ雨粒が滲ませていく光は微笑みの行方さえくらました<鳥の目の闇(attack)>です。(1右)
雷鳴はあなたの街に届きますか。明滅する電球。その光と闇のあわい。群鳥の影が絨毯を泥土のように染め上げて、(1左)
丁寧にたたまれたひだまりの匂い(2右)
燭台の下で指を編むのです。影を捕まえる為の網を。(2右)
あなたは陽の光を閉ざし燭台の上で美しい足首を灯す。そしてゆれる敬虔な影に落とす眼差しの網は細い指がやがて引き裂く。(2左)
<選別の暗い空(sustain)>にあなたは生まれた。灰色の曲がり角(4右)
黒くなる。(4左)
朝が忘れることを再演する。(4左)
幕間を辿るように夕顔の蔓が掴んだ光(5右)
背骨の残した影から遊離して転調の焚き火を始める。(6左)
わたしの膚の土の冷たさも知らずに火の青さに脅えている。(7右)
瞬時に萎びていく幼心がつきを濁らせて。炎色反応にちらつく、幽閉された口伝えの汗は鈍く光った。(7左)
香気さえ揺るがせない陽光の記憶が梔子の白に映えて眩く、(7左)
純種の光、(8右)
冷徹な鉄を打ちつける音に光を伴って咲く。(9左)
「蝋燭を、<吹き消した。(release)>」
修繕された窓に新しくしつらえた鍵は白銀の蛹。(12)

※ < >で括った語句は( )で括った英単語をルビとして有する。なお、<>と()は引用者が付けた。



雨粒の滲ませる光は雷かもしれないし窓に反射する屋内の電球の明滅かもしれませんが、雨雲の上の太陽が落下する雨粒を照らすことは、狐が嫁入りする時分を除けば、ありません。中空を飛行する鳥であっても雨天は飛ぶことを太陽に近づきませんが、手紙を書くために用いた翼(作品の終わりで<折れた鵞筆(promise)>として出てきます)はイカロスを思わせる蝋付けであり、落下していく雨滴のイメージとも重なります。言葉を用いて飛び立とうとしても、できない。

そこで、同じ蝋を用いた、しかし今度は燭台に置くものとして灯りを得、手紙=絨毯を染める群鳥の影を捕まえる為の網を指で編みます。「私」のこうした行いと対照的に、「あなた」は燭台の上で足首を灯し、つまり夏の水面を見上げるように浮かび上がる気泡を思わせる、熱により上昇する存在となり、影を俯瞰しています。ただ、俯瞰するその姿もまた影を生じさせ、「私」の指が引き裂きます。

上昇した「あなた」は選別した暗い空に生まれるという形で達し、語彙を降らせ、「私」は破けた傘を持ち、語彙にまみれ輪郭を際立たされ、憂鬱で、語彙は「私」に染み入り、歌を歌い、歌うために傘を捨て、事物の輪郭を吐息で包みます。朝が、雨降りを、失語だったことを、忘れさせるかのように、光を夕顔に掴ませるように、「私」の言葉の獲得はあっけなく失敗に終わります。

新たな光を、影を得るために焚き火をはじめ、アルミナを投げ入れ、青い炎色反応を手に入れますが、そこでようやく投げ入れたものが宝石だったことに気付くのでしょう。「私」は「わたし」へと転調し、群鳥の影が絨毯を泥土に模したのに、文字を書き付けるものの温度を知らないまま火に脅えています。一方、「私」は夕顔が掴んだ光を漉いて、新たな自分を生み出そうとしていますが、窒息のブーケだったものを梔子(くちなし)の花、その真っ白な花弁に言葉を書き付けることが出来るのでしょうか。

夜は水を湛えている。文字の黒さで埋め尽くされたかのような時間帯、誰だってそんなに言葉を持ち合わせていない。だから、「蝋」で飛ぼうとしたイカロスが落下した点から「虫」を回収し言「葉」を添えて「蝶」に、「蝋」から「虫」を引き、残った「鬣」は馬となり、ともに窓外の風景を駆け巡ることとなります。したがって、もう蝋燭の光/影は必要ない、だから、吹き消した!

「あなた」は靴紐を蝶々結びにして窓外を駆け巡り、白銀の蛹の鍵は、新たな言葉が生まれるのを待っています。もう、金属を燃して過剰に光を求める必要もありません、修飾のない割物、飾り気のない言葉を、積み重ねることが出来るのです。



3)音・音楽・楽器のイメージ

だから私は上手くもない歌を歌います(1右)
ティンパニが鳴り響く夜(1右)
雨、は誰の足音なの。(1左)
雷鳴はあなたの街に届きますか。(1左)
あなたが好きだった歌は私の指、その木立の奥で誰も濡らすことの出来なかった雨音となります。(1左)
音曲の金魚たちが尾びれを震わせて、(2右)
あなたの歌が私の身体に新たな背骨を成形する。(3左)
どこかで振り払われるオーボエの細い祈り。(4右)
その細い身体でなにを歌えるのかと(4左)
もしかすると同じ口形に調律されていたのかもしれません。(5右)
背骨の影から遊離して転調の焚き火を始める。湿った薪が弾ける音が密談に変わる時、(6左)
口笛で呼び寄せる名前を探す。(6左)
整列したn、の小文字から不確かな拍動を受けて、(9左)
冷徹な鉄を打ちつける音に光を伴って咲く。泥濘む葬列のラッパは錆びている。(9左)
演奏のための傘をさし歩いてゆく。(10右)
雨音がくすぐったくて、(10右)



手紙にせよ歌にせよ、送り手と受け手がいるという点では同じものであり、そうした観点から雨音もまた上から下へ送られ受け取られているものといえると思います。ティンパニという打楽器がメロディを奏でることの出来る太鼓である点から、雨音が何か主題を持っているもののように思え、雷鳴もまたどこかに届くべきものとして書かれています。しかしながら、誰も濡らすことの出来なかった雨音とあるように、誰にも届かなかったことが示されています。

音曲、つまり現代から見たら時代の古い音楽である「私」の言葉、脱皮していくもの。「あなた」が歌う「あなた」の好きな歌で「私」の身体に新たな背骨(バックボーン)が成形されていきます。世界で一番難しい木管楽器、初めてオーケストラに導入された管楽器であるオーボエの細い祈りは、歌とは異なり意味を持たない呼気を使って音を生じさせたものであるのに、結局、また、歌を歌うように調律されてしまっていた、沈黙していたはずの唇。

そして転調(あ、でも「紅茶」で既に転調(「私」と「わたし」の分裂)は生じているよね)。

呼気が音を奏でるなら楽器を使う必要はなく、ラッパは錆びているし、そういう意味で口笛は歌と楽器の中間に位置するものかもしれません。そんな淡いから呼ばれる名前も、遥かと呼ばれた時の中に遍在する様々な行為に凌駕されていくのでしょう。あらゆる名も、単なる呼気やインクの染みに過ぎず、名指し得ない何か(=純粋経験(?))がただ、突っ立っています。そいつは、演奏するためのさされた傘が発した雨音のくすぐりがもたらした破顔であり、そんな風に破れる=割れることのあり得る物(=割物)なのかもしれません。(そう考えると本作冒頭の「窓を打つ雨粒が滲ませていく光は微笑みの行方さえくらました<鳥の目の闇(attack)>」が、求めたものに奪われ、奪われたものが求めていたものだった、という転倒を示していることになります。しかもattackは器楽や声楽の最初の発音でもあります。)



4)鳥や虫などの動植物のイメージ

<鳥の目の闇(attack)>(1右)
蝋付けの翼(1右)
群鳥の影(1左)
音曲の金魚(2右)
その花の名は空のウロコといいます。(3右)
窒息のブーケ(3左)
胎児のように眠りながら(3左)
異形の裸花(4左)
木葉の擦れる音、(4左)
幕間を辿るように夕顔の蔓が掴んだ光は、(5右)
わたしの視点は鳥になる。(6右)
梔子の白(7左)
鳥の肌さえ懐かしい。(7左)
躍動する牝馬の彫像。朝露に濡れた草原。蹴り上げる後肢を緑に染めて。艶やかな後背の毛並み。湿潤な風土を想起させる熱を蓄えた母体。(8右)
薄れてゆく菜の花の香り。(8右)
蜜蜂の八の字が出口を指し示すならゆっくりとその誘いに乗りましょう。(8左)
瓶詰めにした梔子の種子を見つめる。(9右)
ベッドの周りには花が増えて、(9左)
水仙のように、初めて破顔する。(10右)
蝶を放つ、(10左)
物語をしたためることなく<折れた鵞筆(promise)>(10左)
白銀の蛹(12)



鳥の目の闇(夜)→蝋付けの翼(イカロス、墜落)→群鳥の影(上空の光)→わたしの視点は鳥になる(鳥瞰)→鳥の肌さえ懐かしい(地に足をつける)→<折れた鵞筆(promise)>(夜明け)

鳥の動きを追いかけていくことで、メインとなる語り手「私」の変遷を把握できるように思います。言葉の探求、喪失、発見、獲得、失敗、懐古ときて離脱。言葉を使って表現できないことをそれでもなお言葉を使って表現しようとすること、またそうやって表現されたものを、仮に詩と呼ぶのであれば、本作では、そうした詩を巡るプロセスそのものを、詩的に(つまり、言葉で表現し得ないプロセスと見なしたうえでなお言葉を用いて)表現しているように思います。

また先述の蝋燭→蝋=虫+鬣→馬は、手紙→絨毯→土と通じる白紙であり、白紙という草原を走る活字であるように思いました。

音曲の金魚は空のウロコという花へ転じ、植物は夕顔、梔子、菜の花、水仙、と形を変えていきました。それぞれの花言葉は、夕顔が「はかない恋、夜の思い出、夜、魅惑の人、逆境を克服する力」、梔子が「私は幸せ者、とても幸せです、優雅、洗練、清潔、喜びを運ぶ」、菜の花が「快活な愛、競争、小さな幸せ」、水仙が「うぬぼれ、自己愛、エゴイズム」(白色だと「神秘、尊重」、黄色だと「私の元へ帰ってきて、愛に応えて」、ラッパズイセンだと「尊敬、心づかい」)とありました。わたしは、花のイメージは(7左)にあったように、梔子の白い花弁のイメージで読んできたので、水仙も白で読んでいたのですが、直前で菜の花の黄色のイメージと錆びたラッパが出てきたりしたので、(「あなた」に対して)「私の元へ帰ってきて」とか、「尊敬、心づかい」が錆び付いてしまったような初めての笑顔とか、そんな風にも読めてしまいそうでした。

※ 下線部は2014/07/20(21:37)に加筆。



以上、「レイン 。」を4つのレイヤーから成っていると仮定して読み解いた場合のあたしの読みでした。「紅茶」で前半後半わかれるものと思いますが、それまでは「私」という語り手に寄り添い合うように書かれていたものが、「紅茶」以降、「わたし」という語り手を召喚し、連詩という制作が作品の主題もあいまって闘争的な様相を見せているようでした。

あと、語り手については、あんまり、というか、ぜんぜん書けてないですな。うーん。



君の好きだった雨に優しく包まれて
素敵な歌は今でも流れてくるよ

              (hyde「Singin’ in the Rain」)





おしまい

香瀬 拝
tb: (0)    com: (1)
 
 caseさん、おはようございます! このたび黒鍵さんの厚意で連詩『レイン 。』の冊子を(送料までも無料で)入手し、めでたくcaseさんと同じ土俵に立ちましたので、ご挨拶に伺いました。
 黒鍵さんは詩のみならず字も達筆なんですよ! そのうえ朗読の声も男前で、caseさん情報によれば顔までイケメン、(以下略)

 まずツイッターで伺った、「現物と引用の違いを聞きたい」とのお話から。
 わたしは最初、caseさんの引用編集を前提としてcaseさんのヒヒョーを拝読したとき、
「こんな洒脱な相聞歌に、なんでこんな抽象的な読解なんだろう?」
 と不思議に思ったのですね。
 特に4の変転が、わたしとしては両吟っつうより相聞としか思えなかったので、このような連詩については連歌的連詩のだめさ加減(※後述・偏見)との比較でもって意義を熱弁したほうがよいのではないか、などと(後述の偏見でもって)考えたのでした。
 しかし現物を拝読し、この連詩が事実あきらかに「詩と詩人の対話」のような構造を持っていることがわかり、caseさんの評文に納得したうえで、caseさんの引用編集の絶大な価値を思い知った次第です。
(わたしがcaseさんの引用編集との併読によって解いたこの連詩の内容については、ここでは話がずれますので、自分の記事として書くつもりです)

 わたしは、
「現代連詩は、伝統的連歌と同じく社交の域を出ていない、そのうえ連歌のような式目を設けない乱脈である。身内の寄り合いが即興の発想を競い合って表現を殺し合い、ただ単に悪目立ちしたやつが褒め称えられるといった無作法な評価も目立ち、なんら内容がないため、部外者には基本的につまらない」
 というような、確固たる偏見を持っています。(その偏見の是正ももちろん必要でしょう)
 しかしこの連詩『レイン 。』の鑑賞に際しては、そのような偏見に出る幕がありませんでした。
 連なる詩文が著者おふたりの、まさに鑑賞の応酬であり、即興の遊興とは程遠いものであるように見えたからです。

 よってこの詩はぜひ一編の詩として、caseさんの読解のように構造を解かれるべきだとと考えますが、構造に注目するということは、こまかい修辞に目が行かなくなるということでもあります。
 そうなると連詩本来の本領なのであろう「書き手の交代による変転」の鑑賞が、難しくなるような側面もあるでしょう。
 この著者おふたりは、どちらも修辞の魔術師のような詩人なのだから、構造を読んで付合の妙を堪能しないのは愚行とも言えましょう。
 このジレンマを解消してくれる資料が、caseさんの引用編集というわけですよ。

 わたし個人が最も助かったのは4ですが、1~3も同じように価値ある資料だと思います。
 連歌の十倍の文量、それもこれだけ複雑に絡み合う比喩から飛躍の脈絡を抜き出すのは、やはり困難な作業ですから、ヒヒョーが代行する意義も高いだろうと考えさせられました。

 以上、ひとまずご挨拶でしたが、最後に。
 この連詩へのヒヒョーがhydeに始まりhydeに終わるところに、caseさんの詩人としての矜持を見たように思いました。(了)
  by 澤あづさ
Posted on 14:08:43 «Edit»
2014
06/08
Sun
Category:【漏洩】

企画「フランケンゴッコ」 

企画「フランケンゴッコ」

●概要

本企画は、ホストである「case(以下、オレ)」が、「お蔵入り作品(以下、シタイ)」を募集し、「参加者(以下、フランケン)」がシタイをいじくりまわす形で「作品=カイブツ」をつくろう!というもの。


●発端

なんとなくオレがツイッターでつぶやいたらなんにんかの人が反応してくれて気をよくし調子に乗った。ノリにつきあってくれるとうれしい。


●なんとなくの流れ

1)オレがツイッターでシタイを提示してくれるフランケン志望者をつのる。

2)オレにメールでシタイをおくる。

3)オレが各フランケンに、「当人の送ったものではないシタイ」を送り、いじくり(リライト/ヒヒョー)してもらう。

4)いじくられたシタイを再度オレに送ってもらう。

5)いじくられたシタイをオレが適当にならべる。

6)適当にならべられたいじくられたシタイの間をつなぐような小品を各フランケンに書いてもらう。

7)オレが全体の体裁をととのえる。

8)完成


●もう少しkwsk

1)たとえば、フランケンが3人(A,B,Cとする)だとする。

2)3人のフランケンがシタイ(a,b,cとする)を提出する。

3)3人のフランケンが自分のでないシタイをいじくる(a’,b’,c’とする)。

4)オレがいじくられたシタイを適当にならべかえる(b’→c’→a’とする)(ただし、全体がどのような順番になっているか各フランケンは知らないものとする(つまり、はじまりから終わりまでの一貫したならびを把握しているのはオレだけである))。

5)3人のフランケンに、それぞれのシタイの間をつなぐ小品を書いてもらう。

A(b’→c’)の間をつなぐ小品(dとする)
B(c’→a’)の間をつなぐ小品(eとする)
C(a’→b’)の間をつなぐ小品(fとする)

6)オレが全体の体裁(表記の統一など)を整え、

「(b’→d→c’→e→a’→f)’」という作品=カイブツの完成とする。


●カイブツについて

フランケンシュタインが怪物を作り出すにあたって、矢張りひとつの「方向」があったとおもうんですよ。なんとなくだけど。それは「テーマ」と言い換えてみてもいいんだけど。そうした「テーマ」と創出された怪物とに生じた必然的な差異みたいなものが、まあ面白いんじゃね、とかなんとか。

というわけで、いじくり(リライト/ヒヒョー)は、各フランケンに一任するのではなく、ホストの掲げる「テーマ」を縛りとして受容していただきたい。たとえるなら、シタイが食材であり、「テーマ」が料理名である。調理方法については各人に一任したい。


●そんなわけで、

一緒に遊んでくれると嬉しいです。出来上がったカイブツをどうこうするっていうのは考えてないです。ほんと思いつき企画なので。みなさんのお知恵を拝借できれば。。。

では、以下の「テーマ」でシタイをいじくりたい!いじくられたい!というフランケンゆるぼです。

1)恋愛
2)「赤いハイヒール」をイメージさせる
3)入れ子
4)Microsoft Word、A4用紙1枚に収まる分量(フォント、サイズ、画像等自由)

この記事にコメントくれるか、ツイッターでメンションとばしてくれるなりしていただければと思います。
tb: (0)    com: (0)
Posted on 18:49:36 «Edit»
2013
07/21
Sun
Category:【漏洩】

ポエケット感想3 

きょうはバロックをききながら書くよ。万ちゃんのベースが好きだったんだ。baroqueよりバロック。というか「”ハロック」。



あなたにパイを投げる人たち発行『コレラに小麦粉を塗りたくる者ども』

参加者は望月遊馬、中村梨々、しもつき七、る、コーリャ、榎本櫻湖、魚屋スイソ、渡辺玄英の8名(作品掲載順)。望月さんとか中村さんは今はなきpoeniqueでお名前を存知あげてます。こないだの『あるところに、Vol.1』でも思ったけど、「べすぽえ。」の方々の作品を読んでいると、なんかジーンとしてしまう。泣けてしまう。ううう。

つごもりの雪のなか
高湿のやわらかな髪にふれて
泡のようにひらべったくなり眠っていた
(P.5 望月遊馬「冬の星に灯る」)



「つごもり」という言葉が3度リフレインする、とても静謐な作品。それでいて、人と人が出会うということを、そのダイナミックな運動のエネルギーを感じさせる。作品全体に「白」のイメージをまとわせながら、夢と唱えられる火や湿ったやわらかい髪、芽キャベツのようなキッスに錆付いた車椅子といったアイテムたちが確かな存在感で彩りを添えている。なんか自分で書いてて恥ずかしくなってきた。こんなあたしの陳腐な説明でなく、是非読んで浸って欲しいなと思った。「わたし」と「あなた」の物語として読まれるものだろうけど、たとえば、

「くちうつしで雪をはこぶわたしのからだは縫い糸のようになって」
(P.6同上)



なんてフレーズから「永訣の朝」「松の針」なんかを傍に傍に置いて読んでみたいと思ったわん。

問いかけにいくつかうなずきながらそのほとんどがyesでもnoでもないことを知る
(p.8 中村梨々「半夏生」)



印象的な1行目。白黒付けられない、二者択一で答えられない、どっちつかず。そんな感じでスタートする。んで、タイトルをぐぐったら植物の名前なんですね。季節としての言葉しか知らなかったわ。風習についてもなかなか興味深いものがあるんですね。

農家にとっては大事な節目の日で、この日までに農作業を終え、この日から5日間は休みとする地方もある。この日は天から毒気が降ると言われ、井戸に蓋をして毒気を防いだり、この日に採った野菜は食べてはいけないとされたりした。
(wikipedia「半夏生」風習の項目・部分http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E5%A4%8F%E7%94%9F)



3聯目の雨の描写が独特で面白い。「薄墨の藍」ってなんだろう。

フラスコの底にいるみたい。思い出したように落ちてくる薄墨の藍。空とかインクとか蜜、カラスから濡れた雨。空にとっても近い場所で咲く紫陽花は、咲かないで枯れたまま、もしかしたら、紫陽花の花の色が落ちてくるのかもしれない。リトマス試験紙のように私たちは並んで、空を見上げている。
(P.8-9 同上)



気温が上がり、立ち止まるように長い袖をめくる。
風と入れ違いに飛び立っていくものと
思い出したように落ちてくる薄墨の藍と
息する
星のこと
(P.12 同上)



なんだろう、薄墨の藍。毒気だろうか。そして対比的にこの前聯で「白い小さな石」を空へ放り投げ、光に吸い込まれるといつか降りてくる(「落ちてくる」ではないんだね! 薄墨の藍との違いだ!)とかあったりして、たぶんここら辺から潜るとたのしそう。紫陽花からリトマス試験紙という語彙へのつなげ方とかも面白いなー。薄墨(白と黒が混じってる)とか、紫陽花(リトマス試験紙の代わりとして使える。土中の成分によって花弁の色が変わる)とか、リトマス試験紙(いっぽうの性質についてしか反応できない)とか、この辺りのゆるやかなつながりがおもしろいです。

朝食に時間だった。食べられる魚は泳いでいなかった。きみの肌とおなじ色をした果物を齧って、図書室から盗んできた本を紐解く、悪いことをすれば物語になれるというのは師の教えでした
(P.16 しもつき七「船出」)



すんごく細かいというか混乱したんだけど「船に乗って川を渡る」から「べとつく海風がぼくたちを運ぶ、港町の沖合いまで」になって「ジュール・ヴェルヌの小説みたいです。」というオチは、川を下って海に出て漂流して海底に沈んだの?(だいなし) あと、「ぼく」と「きみ」が出てきて、「きみ」は「ぼく」に殺された女の子なのかな?というかむしろ、死体になった「きみ」が一瞬だけ顔を出す「私」が「ぼく」を通して死体となった自分や自分を殺した相手について語っているのかな? 何かを殺すという行為が書く=物語のアナロジーになってるとか? と、七様ファンにフルボッコされそうな妄想で読んじゃった。ごめんね天使。

わたしのことを褒めたたえなさい。わたしのところに、集いなさい。わたしはハムスター。無敵よ。ヒマワリの種さえあれば無敵よ。だから、わたしには武器は必要ない。ヒマワリの種爆弾に、ヒマワリソード、それでわたしは戦うわ。そうよ。戦うわ。
(P.18 望月遊馬「齧歯類のサンバ」)



なんだこれ(笑)、初読ひとりで大爆笑でした。素晴らしくポップでキュート。素敵無敵。望月さんは唯一2作掲載されているけど、作風が違いすぎてびっくりした。すげー。いいなあ、こういうの。

公園の時計は3時42分で止まっていた
煙草を吸っているとピカチュウがやってきた
こんな夜遅くに家から放り出されたのか
その少年は自らピカチュウと名乗った
ピカチュウ語は使わなかったし
心は少年だけど体はおっさんだった
(P.21 る「オフィーリア」)



なんでそこを引用するんだよ、というツッコミに対して、だってこの作品すげーから、といういじわるな回答を投げかえすぜあたしは。ちくしょう、おもしれえなこれ。タイトルと全然関係ない引用部分なんだけど、恋人に振られた女がオナニーしたあとに浴槽に沈んで、事実か時間軸をずらした場面でこのピカチュウと出会って救われる、みたいな話なんだけど、なんつかー散文と改行のポイントを切断しながら括弧で括りながら展開していったりするので、溺れる女の思考が多層的になってすげーおもしろい。

・かばんの中身を詮索する。女は爆弾が入ってるの、と笑った。彼女が線路に飛び込んだとき、みんな彼女のことをテロリストだとか、魔女だとか誹ったが、僕はそう思わない。巨大ですばやい翼竜のような鋼鉄が、彼女を宙に舞いあげたとき、かばんは爆発なんかせずに、ぱらららと、色々の花びらを吐き出していった。あぁ、花火ってこういうことなんだな、と思いました。あとプテラノドンってじつは飛べなかったらしい。
(P.24コーリャ「はっぴりー・えばーあふたー」)



引用したような断片が9つ。どれもオシャレな感じ。かわいい。飛び込み自殺を題材にしたものって言うとZIGZOの「ひまわり」って曲を思い出すなー。

「Where are you jumping?」
(ZIGZO「ひまわり」http://www.youtube.com/watch?v=2K1BAlo_Al8 )



作中の「僕」が見てしまった「花火」は様々な火のイメージへかわっていく。「翼竜のような鋼鉄」も様々な羽のあるもののイメージへと変わっていく。それぞれが断片として独立していながら、なにかを失ってしまった「僕」が回復していく様子を描いていて、読後ちょっときゅんとする。ちょっとだけな。


聴診器が待っていた、「発想としては公家」、松明が地下鉄の古い音楽のまえで胡坐をかいて駈けていった、信じることの難しさをエリマキトカゲは説く、片栗粉が洗濯機のなかで攪拌されて泡だち、琵琶が弾かれた湖畔の靄がかかった齣送りの回転木馬と洞窟への左、雪男からの辱めは母が背負って行商人にまざってビタミンを運搬する経路を封鎖している、[・・・]
(P.29 榎本櫻湖「恋するタイプライターとコンビニ強盗」)



んー。体力つかう作品っす、読むのに。引用したような文が7ページ。たいりょくつかうっす。うす。これはどんな読み方を要求しているのだろうか。物語のようなラインはわたしには見つけられなかった。だれかおしえてたも。たぶん、ひとつひとつの場面になにかしらの元ネタ的なものがあるんだろうか。わからーんわからーん。タイトルが「恋するタイプライター」だけなら、たとえば、使用者に恋をしてしまったタイプライターが自身に生じた「恋」という不可解な感情を使用者に伝えるべくこれまでタイプされてきたすべての語彙を動員してあいらぶゆーを言おうとしている、みたいなフレームをはめちゃってアプローチを仕掛けようかともおもったんだけど、「コンビニ強盗」て。。。うーむはいぼく。

 あの日は大雨だった、中止になったイルカショーのかわりに、一番大きな水槽で、ダイバーの格好をした飼育員の女の人がサカナと一緒に泳ぐパフォーマンスをしてくれた、わたしは酸素ボンベのマウスピースから漏れ出して見えないところまで昇っていく空気のつぶつぶに夢中になっていて、だからあのあと先輩が話していたサカナがどんな色だったかわからなかったんだ、でもおみやげにはスプーンを買った、銀色のサカナの、
(P.35 魚屋スイソ「水色の水の色」)



プロットが巧みな作品。「わたし」と「先輩」の関係が壊れやすいものを扱うような手つきで書かれている(どんな手つきかは知らないんだけど)。んで、引用したこの箇所がたぶん作品ぜんたいの中心になってると思う。先輩は海岸の夢を見ていたけど見られなくなってプールで溺れる、溺れることと眠ることが等価になって保健室でふたりが眠る、クラゲの水槽の話、クラゲが水で出来ていること、水で満たされた水槽がたくさんある水族館、それを囲むかのような大雨。ここでは、大雨を一番外の「水」、クラゲやそれらと等価のような扱いとなる「眠るわたし(霧のかかった)」「溺れる先輩(プールの底)」を一番内側の「水」で、それらを取り囲むような水族館やプール、海岸といった「水」が間にはさまれている。三つの「水」のイメージが同心円状に構成されている作品で、それを夢/現実、現在/回想というのをミルフィーユニしたプロットで、うーん、巧いなー。と思いました。

小さな画面が花のようだ
(花のにおいがする草のにおいがする
小さな画面にじぶんの顔がうつっている
これはゴミかもしれない
よくわからないもの(生きているのか死んでいるのか
水曜日はゴミの日だった
(という夢かもしれない(うそかもしれない
死んだ希望がこれからも希望になる
(P.42 渡辺玄英「あげるよこわれた」)



ラスト。渡辺玄英さんの作品。「水曜日はゴミの日だった」から『火曜日になったら戦争にいく』を連想するのは自然な流れだろう。いぜん小考を書いたことあるし、いわゆる詩読みでない方もhttp://syoujosiryou.blog49.fc2.com/blog-entry-17.htmlを書いてるし、とても不思議で魅惑的な詩集だった。で、水曜日。ここでのゴミは死んじゃった人たちだろうか、あるいは「こわれた」というかたちでしか生きることのできないイマ・ココなのだろうか。「小さな画面」はケータイ電話を思わせ、直喩で用いられた「花」がにおいを発する。渡辺さんお得意の閉じられない括弧で、「におい」は果たしてリアルなものなのだろうか。そうしたリアルへのたどり着けなさは、ケータイが電源を入れられておらず、暗くなった画面に映る自分の顔に対する「よくわからないもの」という形容が拍車をかける。リアルへのたどり着けなさ、目にしているものに対する曖昧さ、そうしたイマ・ココが描かれることで、読者は(つか、あたしは)強烈にリアリティを感じるのだ。そうした「こわれた」ということ、結論はいつも宙吊りでしかないということそのもが「これからも希望になる」という姿勢は前向きとか諦観とかとはまたちょっと別なものなんじゃないのかな、とか思ったりした。



おしまい

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Posted on 15:30:38 «Edit»
2013
07/20
Sat
Category:【漏洩】

ポエケット感想2 

というわけで続き。のんびりと詩集やら歌集よむっていいもんですね。Dirの京さんがわちゃわちゃ叫んでるのがイヤホンから漏れてんですけどね。のんびりです。



吉田群青『ワールドイズマイン真夜中ゆっくりと、』

誰が鬼かわからないまま前の人の影を踏むプラツトホウム(p.7)



この、物理的距離と心理的距離のギャップが素敵。

腐りゆく肉が冷蔵庫の奥でわたしを待ってるので帰ります(p.11)



これは林檎さんのこれを思い出した。

家にはひとりで帰ります
あたしには鳥が4羽ついてるので
家には納豆が有ります
あたしにはグリコゲンがあるし 
驚きなのは地下鉄のレール
(椎名林檎『無罪モラトリアム』「モルヒネ」)



林檎さんが「納豆(健康にしてくれるもの)」があたしを待っていてくれる、というフレーズなのに対して、ぐんさんは「腐りゆく肉(時間の経過の只中に居るもの)」があたしを待っているという対比として見ちゃう。たんに「あ、ごめーん。今月ピンチで飲み会また今度ね☆(あー、冷蔵庫のあれ使い切っちゃわないとなー)」ってやり取りかもしれなくて、なんつーか、人と上手につながっているんだけど、ストンっと回線を落とされちゃったような感じ。

裏切りをはたらくときの眼つきして海老の背わたをそっと抜き取る(p.16)



これは

夜中に目をさました。
ゆうべ買ったシジミたちが
台所のすみで
口をあけて生きていた。

「夜が明けたら
ドレモコレモ
ミンナクッテヤル」

鬼ババの笑いを
私は笑った。
それから先は
うっすら口をあけて
寝るよりほかに私の夜はなかった。
(石垣りん「シジミ」)



を思い出した。食うものと食われるもののうち、食われるものから見た食うものの表情を食うもの自身が想像している関係が面白いなー。「シジミ」が「口をあける」という行為で食うものと食われるものをつなげているのに対して、ぐんさんの「海老」は身の内から抜き出る/出られない、という関係を見せているように思った。たとえば、

足掻いてもわたしはわたしの躰から出てはゆけないぶらんこを漕ぐ(p.17)



自分から自分を出せないくせに他者(「海老」)の身の内から腸を抉り出す暴力に、倒錯したものを見たり見なかったり。

聞いてくれ森永ミルクチョコレート僕は今とても、とても、さびしい(p.23)



サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい(穂村弘)



さすがにほむほむと並べちゃ悪いかとおもったけど(おもってない)、ほむほむの凄さをあらためてかんじちゃうよね。明らかに「象のうんこ」を意識してつくったんであろうぐんさんの「森永ミルクチョコレート」は、「聞いてくれ」と語りかける対象との距離感が違う。「象のうんこ」の持つ、<誰も普段想像しないもの>、そしてそれに仮託してしまえる自分自身の感情、ひいては自分自身も普段誰にも想像されないものに過ぎない、という孤独があるようにおもうのね。ぐんさんの「森永ミルクチョコレート」はその逆で<誰もが目にしているもの>だと思う。だけど通底しているものは同じようにおもって、つまり、先に引用した「影踏み」のような距離感、物理的な距離の近さと心理的な距離の遠さ、あるいはプラツトホウムを歩く群衆に泥む自分も含めてベタに顔のない現代人を想像して、大量生産/消費されるお菓子との共通項を考えてもいいのかもしんない。そうした顔のなさを回避したいが故に、一見不要かと思う「僕は今」という言葉を置いているのかなと思った。

終バスがあなたを乗せてゆっくりと天国へゆくように曲がった
さらば沼 さらば空想 甘い靄 さらばかつては熊だった君
ハロー街 ハロー寂寞 定食屋 ハローすべてを受け入れた僕
(p.27)



サヨナラバスは君を乗せて静かに走り出す
手を振る君が少しづつ 遠くへ行ってしまう
立ちつくす街並み一人ぼっちには慣れてるのに
どうして涙が止まらないんだろう…
(ゆず「サヨナラバス」)



さらば象さらば抹香鯨たち酔いて歌えど日は高きかも
(佐佐木幸綱)



ハロー 夜。 ハロー 静かな霜柱。 ハロー カップヌードルの海老たち。
(穂村弘)



こちらも確信犯(誤用)シリーズ。あ、ゆずはわからんけど。僕と君(あなた)って関係性の片方を失うことは、もう片方を失うことにもなって。つまり「『僕と君』って関係の中の僕」が死ぬことになるわけで、まあ別離ってそんなもんよね。こうした「『僕と君』の関係の中の君」との別れ(「さらば」)と、「『僕と君』の関係を終えた僕」との出会い(「ハロー」)につながっている。のかな?

ワンダフル・ハウリング
すばらしき遠吠え! わたしもう二度とだれのものにもならぬと決めた
(p.41 「すばらしき遠吠え!」には「ワンダフル・ハウリング」のルビ)



Lassie Lassie Lassie Lassie
走れ! 今夜のメシのために
Lassie Lassie Lassie Lassie
腰がうなるぜ発情期
Lassie Lassie Lassie Lassie
走れ! 己の今日のために
Lassie Lassie Lassie Lassie
首輪外せないけど 誰もなでないけれど
何処へでも走って行けるさ Bow wow wow
(hide「LASSIE(demo master version)」)



走る走る走るよそこに意味なんかなくても誰もいなくなっても(p.72)



んで、ハローして出会った「僕」のこれからの生き方。誰かに拠ってしまう関係性ではなく自分自身のあんよで立つお!みたいな。



読みながらいろいろ思いつきつつ調べつつ書いてたら長くなっちゃった。『コレラ』はまた今度にしよう。

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Posted on 15:58:08 «Edit»
2013
07/19
Fri
Category:【漏洩】

ポエケット感想1 

ポエケットにいってお酒をのんできたよ! みんな相変わらず美人さんだったよ! きゃー!



夏野雨『水玉通信 Vol.6』
 
短歌と詩と散文。手作りの小冊子で、表紙の質感が良い感じ。リスと風船がかわいい。

時間というものが、通り過ぎていくとはどうしても思われない。 それは夜にかかってきた一本の電話で 話し始めたときにはもう違う川を流れている 一艘の船で 川岸の風景を覚えている おなじ声を流れる 岸で 笹船をつくる手と手がふれて かさなる部分がしろくなる[…](p14「時の手」部分)



この「手」の「しろさ」が凄く好き。



佐藤真夏発行『あるところに、 vol.2』

噂のフリーペーパーの第2弾。第1弾ではお世話になりました。イラストが素敵。

許せない砂浜が広がっていく過程で、宙に浮かび、尾を食う人魚の、かなしい自給自足、信じたいうそには魔法すら叶わないと言うから免れる努力は放棄して挑戦を捨てた。(菅城春「トロイメライ#1」)



 ウロボロスっちゃってる人魚のイメージがいいね。『方舟さくら丸』のユープケッチャを想像させた。哀しい永久機関。

わたしたち家族の文法が
ほどけていくさまはうつくしかった
(深街ゆか「ゆめみるかぞく」)



 面白いフレーズ。文法っつーと逆照射して浮かび上がるものって思ってるんだけど、そうすると、これってほどけてしまったかぞくについてほどけるまえの家族が持っていただろうと推定される文法、の解ける様を描写しているようで、回想してる話者の立ち位置とかかんがえるとたのしい。

孵化すれば飛べたし、
生まれたときから死ねたのはみんな同じだ
わたしたちという範囲においてわたしたちは全知で
不可能なんてどこにもない
(しもつき七「たとえば蝶になる」)



 「生まれたときから死ねたのはみんな同じだ」ってすげーフレーズだな。タイトルにもあるように、本作は、このフレーズのたとえ話として、「たとえば蝶になる」ということをいっているような気がする。エーミール、許してくれ。

ぼくたちは四人いる。ぼくは四人いない。
たった一人のきみを、改めて数え直す時、
青い水が沸き立ち、ぼくの右に立つ者が悲鳴を
上げると、ぼくは世界の様相を狭く絞って想起し、
劈くような声を上げるぼくに枯れて色褪せた写真を
差し出そうとしているぼくが背後からぼくに、
殴打されている。仲間外れにされたきみが
 笑う
(破片「水槽の中」)



 四人のぼくってなんだろうなー。「ぼく」「非ぼく」「ぼく かつ 非ぼく」「ぼく でも 非ぼく でもないぼく」んー。なんのこっちゃ。3人だったら過去今現在とか思えるんだけどなー。と、思って『僧侶』なんじゃね?と思ったりした。

だけど、わたしはたった五つめ辺りの自転で
遠く以降へ振り切られるから
電柱の伸ばした手を掴みそこねて
また地球その二をとめてしまう
(ゼンメツ「立ち眩み」)



 vol.1のゼンメツさんの作品でも思ったけど、なんというか「瞬間」の記述がすごく上手な人って印象がある。閉じられない括弧で記述はすすんでいくんだけど、その都度あらたに「地球」をとめてしまうような、世界とうまくアクセスできないみたいな、そんな気のせいみたいな不安、を描くのがうまい。

 サーバーのメンテナンス前って、世界が終わるみたいで、ドキドキするよね、きょう朝五時前、そう言い残してログアウトした彼女が、ゲームのアバターと同じ位置に同じ色のバッジをつけて、前髪をてのひらで抑えながら、俯きがちに歩いていくる、ぼくはあのあと、メンテがはじまって回線が切断されるまで、パッドを握って立ち尽くしたまま、彼女が消えた空間を見つめていた。
(魚屋スイソ「ノンプレイヤーシティ」)



 傑作。っつか長ぇのによませる文体に嫉妬。なにこの饒舌体。すげー。よりにもよってそこを引用するのかよ、というカセの引用センスのなさを笑えよ、というか、作中にあふれるカタカナが嫌味でなく、かといって批評的なまなざしでもなく、たぶん今のリアリティってこんな風に書くんだろうなと、てきとーにおもった。
 町田でも舞城でもなく「詩学(2007.1/2月号)」でたまたま出会った市松獨朗を思い出したから引っ張り出して読んでみた。うーん。ぽいっちゃぽいけど違うなー。

親しさが
方角を持たないまま
(蓑田伶子「断片集『教育』一」)

この世の奥で
気持ちの持ち合わせがない
(蓑田伶子「断片集『教育』三」)



 方角を持たない親しさって、なんつうか、すげーわかるよそのエゴい感じ!ってなった。まったく失礼な奴だ。でも、これの前にある「守ったつもりでいた」の「つもり」とかね。こういう独善さって、すごーく醜悪だとおもうけど、人を行為へと駆り立てる何かな気がするのよね。そういう意味で沸き起こる感情を「何か」とわたしなんかは名指してしまうのだけど、「持ち合わせがない」と述べる発想って不思議だった。

最初から陽炎だって分かってた 分かってたけど信じたかった
(龍翔「三つの小品集」八月の空っぽ)



 あれですね。予想と期待は違うものよ、ってニコ・ロビンもアラバスタの地下で血まみれになりながらうそぶいてましたもんね。

茹で上げたパスタにのせるざく切りのトマトのような諦めがいい
(梶原千秋「湯気))



 光景がうかんで良い感じ。直喩でつなげちゃうのとか、諦めが体言なのとか、「いい」って価値判断しちゃうとことか、個人的にはンンってなるけど、オリーブオイルとガーリックのにおいがしそうなうたなのが良い感じ。

難しいお産でした、に「ね」を付けてわたしに共有しないでほしい
(ショージサキ「リリック」)



 ドキっとした。「ね」ってよく使うし、使ってるのも自覚してるし、距離感を縮めるためって開き直ってもいるけど、これはやはり、そうだよなー、個人の経験を勝手に引き受けるなよ、みたいなのってあるよなー。「この痛みは私だけのもの」ってなんだっけ三角だっけと思いながらぐぐったら俺屍だった。あたしゃゲームせんとぜ。。。

アメリカってついた名前のたべものを家中にならべてパーティしよう
(しろいろ「タイトルのない絵本」)



 ぱーりーたーいむ! どんな食べ物だよ!うまいのかよそれは!くえんのかよそれは!ってツッコミは野暮ですか野暮ですねすみません。しろいろさんは「くすぐり」がじょうず。きもちよくくすぐられたい。

秩序くそくらえ 落書き 君の肩きちんと上下しているけれど
「すごいよね。首切られても動くとかあたし到底まねできないわ」
(田中ましろ「飛散」)



 「秩序くそくらえ」って台詞ときちんと上下する君の肩の対比がかわいい。首ちょんぱされてる様を見ている「あたし」と「あたし」の話をたんたんと聞いているこの鍵括弧の括り手の距離感が気になってかわいい。

アスファルトのうえ川みたいにうねってさ、蝉って案外うまく飛べるんだね、つよいのもよわいのも生きのびるなら意味ないじゃんって子どもたちが呪いをかけ合って遊んでいる。
(佐藤真夏「(いる/いない/まる)」)



 さてラスト。発行者の佐藤さんの作品。こうした子どもの様子を見ているのかと思えば、次に「きみ」と「あたし」が出てくるのはプールだったりする。「あたし」という語り手が子どもと蝉の様子を見てそれを述べているような構図かというと、ちょっと違う。かといって「きみ」とのふれあいから「あたし」が「あたし」の幼少の頃を思い出しているのか、というのもピンとこない。なんとなく、イメージクリップみたいな、暗喩の多い映画みたいな、そんな風に意図して場面同士をつなげてるのかわかんないけど、聯分のようなことをしないで接続させている記述がとても興味深い。



以上。『水玉通信』と『あるところに、』でした。続き(『コレラに小麦粉を塗りたくるものども』と『ワールドイズマイン』)はまた今度。
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Posted on 19:20:16 «Edit»
※ 本文章は2013年1月15日から始まりますHHM(ひひょうまつり)の作例としてcaseがでっちあげたものです。引用や作品論など「HHM要項(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=263799)」をお読みいただいただけでは把握し辛かったことも多かったことと思いますので書いてみました。ご笑覧ください。HHM参加をお考えの方は、お読みになって「あ、こんなテキトーでもいいんや!」って思っていただき、是非とも筆を執っていただければ幸甚です。


***


【HHM参加作品】ぼくらはみんな詩んでいる!――草野心平「冬眠」を音読するために


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問題:次の詩を音読せよ。ただし単なる解釈による説明は認めない。




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・小説に限らずあらゆるメディアから物語を読み取ることが出来る。
・多くの人は物語を読み取ることが鑑賞だと思っている。
・物語以外の要素を読み解くにはどうすればいいか。

以上3点の思い付きを解消するために、「詩を読むという行為」ならびに「物語を読むという行為」を対置しながら太宰治『走れメロス』と芥川龍之介『羅生門』について考えてみたい。ちなみにこの2作品は多くの国語の教科書に載っており、中学と高校で触れるであろう「日本文学」を代表するものでありながら、短編である点を採用基準とした。なお、2作品とも青空文庫を参照している。

太宰治『走れメロス』(http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1567_14913.html)
芥川龍之介『羅生門』(http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/127_15260.html)


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・ 「●」を音読するために(1)

「冬眠」
『蛙』
草野心平
<蛙の詩人>
「春殖」「秋の夜の会話」といった季節をタイトルに含める他作品
視覚詩について

草野「冬眠」(●)を読むために、上述したパラテキストを参照する。
会話も然り。
往復言語だけでなく文脈や状況を鑑みて会話は行われている。

ドーナツの穴を囲うかのようにパラテキストを配置して、読み解き難いテキスト――「穴」の形を浮彫りにする。
「穴」?

○ではなくて、●なのはなぜだろうか。
当時の出版環境から彩色した○を載せるのは難しかったかもしれないが。
白丸ではなくて黒丸なのはなぜだろうか。

(蛙が冬眠するとき、蛙は土中の穴に眠る)

白い眠り/黒い眠り


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・ 色彩に注目した読み解き――『メロス』

色彩を読むとはどういうことでしょうか。色彩心理学?(わたしは色弱なんだけど)。色の意味は文化によって異なります。(ブルー・フィルムとピンク・チラシを想起せよ)。ただし、黒や白のようなモノクロなものと、赤のような原初的な色はカラーイメージの違いがそこまで大きくない、という見方もあるようです。
 
――赤。

 小説「走れメロス」を首尾一貫しているカラーイメージとして赤が用いられていることは広く知られています。「メロスは激怒した。」という有名な一文で始まり、「勇者は、ひどく赤面した。」という一文で終わること。主人公であるメロスの表情が真っ赤であることを強調するだけでなく、メロスの象徴する信実が彼の体内を流れる血液のイメージと重ねられるように設定され、友のために走り続けるメロスの熱情をも読者に想像させます。

このメロスと対置されるように描かれるのが暴君ディオニス。彼は人を信じることが出来ず、また彼の顔面には深い皺が刻まれ蒼白であったと書かれています。「走れメロス」は、信実を象徴するメロスの熱情的な走りと、親友セリヌンティウスとの友情を果たす姿に、ディオニスが強く心を打たれ人を信じる心を取り戻す、というのが大まかな筋ではあり、顔面蒼白だったディオニスが「顔をあからめながら」最後にメロスとセリヌンティウスの抱擁に近づいていくことからも彼の変心がカラーイメージとして明示されていることが読み取れます。

 ディオニスのように対置されるもう一人の人物が親友セリヌンティウスであり、彼はメロスと鏡像的な関係だともいえます。村の牧人と市の石工、相手を待たせる者と相手を待つ者。わたしは牽強付会ながら、大理石を扱うセリヌンティウスに白のイメージを引き出し、メロスとの色彩的な対照性も見たい気持ちがありますが、それを差し引いても彼らが住んでいる場所も職業も作中の立場も正反対でありながら、竹馬の友であり言葉を交わすことなく人質にする/される関係であることから両者の対照性を見られます。

 本作は真っ赤に塗りつぶされる作品です。蒼白だった暴君も、一度だけメロスを疑った親友も、そしてゼウスを思わせる何か大きな力に引きずられるように不吉さと狂気をまとった黒い風のようなメロスも、最後の場面で真っ赤に染まります。処刑までの期限である日没は、一日のうちでもっとも世界を赤く染める時間帯だからです。

 さて、日本語の「色」にはその人の様子や存在の意味もあります。赤という強烈な「色」で男三人が友情を確認して幕を下ろす本作ですが、本作では「色」を奪われた人物が二名います。メロスの妹と最後にメロスにマントを手渡す少女です。妹は結婚式を早められたことに「頬をあからめ」ますが、その感情をメロスに「うれしい」と決められ、少女の「緋のマント」は、その意図をセリヌンティウスに「口惜しい」と決められます。このような女性の発言を奪い男だけで友情という名の閉鎖的な連帯感――ホモソーシャルが「メロス」から見出せます。こうした視点に立ったとき、「友情」とはなんだろうかと思います。もしかしたら太宰にとって、「メロス」に描かれた「友情」ものは「真っ赤な嘘」だったのかもしれない、などと想像するのも楽しいです。


+++


・ 「●」を音読するために(2)

「春」「殖」
「秋」「夜」「会話」
「冬」「眠」

季節を示す言葉を持つタイトルがどういう作りになっているか。
どういう変遷を辿ってきたのか。

生殖――「もうすぐ土の中だね/土の中はいやだね」――眠

「るるるるるるる[…]」――「死にたくはないね」――●

「春殖」は3つの顔を持つ。
・蛙の春に対する喜びを生殖の悦びを表す鳴き声
・「る」が左向きに座っている蛙の表象
・「るるるるるるるるるるるるるる」と連なる蛙の卵の視覚詩

「る」の文字の中にある丸=卵――誕生の色は、白い。


+++

・ 二項対立に注目した読み解き――『羅生門』

よく知られた「羅生門」の要約がこちら。

 「下人が盗人になる物語」
 「下人が勇気を得る物語」

 はい、ただのへたれで何者でもなかった主人公「下人」クンが、生き抜くために盗人になる、あるいは、荒廃した現実に立ち向かう勇気を得る。さて、――。

 盗人とは悪ですし、勇気はどちらかというとポジティブなイメージです。ネガティブな悪行を働く原動力が勇気というのはいかがなものか。そして最後「下人の行方は、誰も知らない。」で本作は幕を閉じるわけですが、彼は盗人として生き抜いたのか、それとも改心して餓死を選んだのか。本作に仕組まれた二項対立を整理していきながら見ていきましょう。本作は「A/B」で二項対立を図示した際の「/」に偏執した作品として読み解くことができます。

一つ目は場所・時間帯についてです。場所は「羅生門」、時間帯は「暮れ方」、「蟋蟀(きりぎりす)」が啼きそろそろ肌寒くなる季節は「晩秋」といったところでしょうか。洛中と洛外の、昼と夜の、夏と冬の、それぞれの境界線上を揃えて舞台としている「羅生門」は、「=境界線上で佇(たたず)む」の作品として構成されていると言えます。

二つ目は下人の人物造形について。「面皰(にきび)」があることから「思春期」、盗人になるか飢え死にするか、善か悪か「迷い」の最中にいます。また「聖柄の太刀」とは寺社仏閣に奉納される刀のことであり、一介の下人だった男が持っていることは冷静に考えると不自然です(下人は既に盗みを働いたことが、少なくとも1度はあった)。このことから、先ほどの「迷い」は「どちらを選ぶか」という仮面を被った「悪人(盗人)として生き抜けなかった自身への自問自答」のように見ることができます。

そして三つ目は「作者」を騙る語り手についてです。わたしたちが通常、読書の最中に頭に浮かべる「この小説を書いた人」というのは、読んだ人それぞれの頭の中に発生する「作者」という要素に過ぎない、という考え方があります。そして、実際にわたしたちが目で追っている字面を物語っているのを「語り手」と読みます。このことより、本作中の「作者」は語り手のことであり、作り話であることを意識しないで物語の世界に入り込んでいた読者は、「作者」を騙る語り手が顔を出すことによって、これが作り話であるという現実をつきつけられるわけです。ここでは、小説という構造が読者に対して仕掛けた「物語世界と現実世界の狭間」を見て取ることができます。

このように、「羅生門」という小説は、様々な二択の選択肢の間を縫うような設定を重ねて作られたものと言えます。

以前、「下人の行方は?」という話題を話していたとき、「羅生門に戻ってくる」と返答されたことがありました。下人には自分の意思がないのだろうか。

ただ、下人とは平安期の貴族の奴隷のことですが、暇を出された男が終始「下人」と呼ばれ続けたことは、選択肢を前にしても人間は何も選ぶことができない、選ばされているに過ぎない、人間とは運命の奴隷に過ぎない、という読み方は深読みしすぎかもしれません。


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・ 「●」を音読するために(3)


「冬眠」をそのまま素直に受け取れば、鼾のような擬音を用いることができるでしょう。
様々なパラテキストを見渡した上で、「●」を(「(餓)死」を?)どのように音読できるだろうか。

ある者は身振り・手振り・憤怒や悲哀とも名指せそうな変容し続ける表情を用いて「鼾のような擬音」を咽喉の奥から発していた。またある者は春を・明日を・来世を思わせるように「翌朝のデートの予定」を軽やかにうたっていた。

あなたはこの黒丸に、何を想像する?


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・ 「物語を読む」、「物語以外を読む」

けっきょくよくわからんのだけど、いまのところ物語ってのを次のようなものと考えてる、わたしはね。

・ある作品から要約として抽出できるもの
・要約に必要なもの:登場人物、場面、事件
・登場人物、場面、事件を配列し何かしらの変化がある

例)桃太郎
起:爺と婆のもとに桃から男の子(桃太郎)が生まれる
承:鬼が島へ向かう道中で桃太郎が黍団子を条件に犬・猿・雉を家来にする
転:鬼が島で鬼をふるぼっこにする
結:爺と婆のもとに鬼から奪った財宝をもって帰り3人で幸せに暮らす

転を境に桃太郎たのいる場所が変化する、場所の変化の前後でゴクツブシだった桃太郎が一人前に成長する(個人の変化)、爺婆らのもとに財宝が転がり込む(経済的変化)の3つの変化が確認できる。昔話はこのような要約でほぼ全体像であり、「物語」を確認できる。

では、「物語以外」とはなんだろう。たとえば、爺と婆はなぜ山や川しかないところで2人きりで暮らすことになったのか。たかだか黍団子で家来となった犬・猿・雉の心中は何か。鬼は無条件で悪役だったが具体的な悪行は何か、財宝を手に入れた方法は何か。どうやって鬼を倒したのか。財宝の分配は3匹の家来にはなかったのか。

このような「物語以外」への突っ込み的な視線が、要約の過程で捨象した何かといってみたい。こうした「想像力の余地」を足場にして笑いを創造しているのがbokete.jpの名作と言える。というわけで、これから野暮なことをします。


http://bokete.jp/boke/1776135

描かれなかった戦闘描写と犬が戦闘のための家来にもかかわらず子犬(家来の年齢については描かれていない)が、「余地」。



http://bokete.jp/boke/1997546

先ほどの犬の年齢と同様、家来の性別についても描かれていない。また、黍団子以外の条件が「なかった」とも描かれていない。


http://bokete.jp/boke/1792084

桃太郎へ惚れるということを戦闘への参加と書き換えた前のとは逆に、キビダンゴだけで戦闘に参加してしまった後悔を描く。当然、家来の胸中は「余地」。



http://bokete.jp/boke/2142404

これは赤ん坊の胸中が「余地」であることを利用したもの。類似でかぐや姫の首が切られるブラックジョークなんかも小学生なんかが好むよね。どちらも「中に人がいるなんて普通思わないジャン?」って当たり前の発想が共有されている。

この共有がネタそれ自体にも鑑賞者間で行われると笑いの共有にもなる。「桃太郎」という有名な昔話のパロディであるから、これらのボケは笑いとなっている。そして、パロディで描かれた作品自体もまた共有されていく。つまり、--。




http://bokete.jp/boke/2207206(削除されています)
http://matome.naver.jp/odai/2134616231098160501/2135100265771849003

もし仮に「犬が逝った。」であったら、「犬猿の仲」のような言葉を思い出すかもしれないけれど、「犬も逝った。」単体では笑いには絶対になりえない。

桃太郎侍が「越後製菓!」と叫ぶことで面白く感じることに近いものをわたしは感じる。あるネタを共有している人らで笑えるネタそれ自体が共有されることで生まれるネタの存在。

「笑い」とは緊張と緩和だという人がいる。でも、わたしたちは何かを「笑う」とき、何に緊張し、それがなぜ、どのように緩和されたのか意識していない。元ネタ=固定観念といった緊張が、「余地」から派生した想像力に緩和されている様は、創造がまさに固定観念を破壊しているとも言える。


+++


・ 詩を読むということ――ぼくらはみんな詩んでいる!(おわりにかえて)

お笑いを面白がれること。
ドラマである俳優にのみ注視できること。
ある作り手の遍歴をもとに作品を鑑賞できること。

言葉遊びができること。
同じ作品であっても演者の違いで楽しみをそれぞれ見出せること。
気心知れたアイツと酒の席でグデグデに酔っ払い、ツーカーなやりとりで延々とクダを巻くも何の生産性もない美しくも怠慢な爛れた雰囲気の素晴らしき魅力がわかること。

これらは全部わたしたちが普段の生活で特段意識せずに行っていることである。これらのどれかひとつでもいい、すこしでもいい。「なんで、そういうことができるのか」「どうして、こういことができるのか」「楽しめるってなんだろう」「面白いってこういうことではないか」。そんなことをみんながちょっとずつ喋ってみたらいい。そのひとつひとつが、「詩を読む」ということだって、根拠もなくいってみたりなんかして。

意識してないだけで、わたしたちは詩を読むときのプロセスをどっかで行っている――「ぼくらはみんな詩んでいる!」。だからそれを、意識してみたいんだけど、それってまるで、音読できない作品を如何にして音読するかということを考えることに似ているかもしれない。


***

・ 参考

青空文庫:(http://www.aozora.gr.jp/)
ボケて(bokete):(http://bokete.jp/)

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Posted on 02:58:13 «Edit»
2012
11/10
Sat
Category:【漏洩】

HHM(ひひょうまつり)要項 


HHM要項
香瀬

現代詩フォーラムでは「香瀬」で登録しています、caseです。
この度は「HHM(ひひょうまつり)」の開催についてご連絡さしあげます。


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相田九龍氏が主宰しておりました「批評祭」ですが、2012年は行われておりません。
また彼自身が代理を募っていた(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=243871)ため立候補いたしました。

caseが主宰するに当たり、広くネット詩の振興をはかりたいと考え、
現代詩フォーラムの外にHHMの案内ページ(現在準備中です)を設け、現代詩フォーラムはもとより
文学極道等他サイトや個人ブログ等で活躍される書き手を巻き込んだイベントにしたいと考えております。

以上のような開催主旨に関しては、コーリャ氏が投稿した文章に詳しくあります。
(コーリャ「しもつき七さんがオバさんになっても(HHM開催にあたって)」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=263750)


+++


今回、HHMでは広義の作品論を募集します。
そして「批評」を「作品について書かれたあらゆる文章」といたします。
アカデミックな文芸批評である必要はなく(もちろん、そうした形式も大歓迎です)、
感想・鑑賞文・レヴュー・コメント・雑感・妄想・ツッコミ・パロディなんでもござれです。

また、活字で書かれた詩だけでなく、あらゆる作品を「批評」の対象として歓迎します。
小説にも、音楽にも、絵画にも、彫刻にも、映画にも、建築にも、
マンガのコマ割りにも、Youtubeで見たアニメの演出にも、
コントや漫才といったお笑いの作り出す“間”にも、ニコ動のネットアイドルのスカートの襞や足の小指にも、
「詩」が隠れていることをわたしたちは知っています。

あなたの好きな作品について語ってください。
あなたの見つけた素敵な「詩」を、ちょっとでもいいから教えてください。
HHMはそのすべてを全力で受け止めます。
そうした個々人の声が、ネット詩を豊かにすると信じています。


+++


そもそも「批評祭ってなんだよ?」という方は、下記要項に「批評祭アーカイヴス」の紹介もありますのでそちらをご覧ください。
手前味噌ではありますが、割と好き放題書いてもOKみたいです。
一応、開催前に作例として何かしらcaseが書いてどこかにupします。

さあ、みんな、
肩の力を抜いて、楽しいお祭りしようよ。


+++


【HHM要項】

■□■□■□■□■

(開催目的)

文学極道で右肩氏が批評や鑑賞についての提言(http://bungoku.jp/fbbs/viewtopic.php?t=684)が面白く、
前回までの主催者、相田九龍氏が忙しくて2012年度は批評祭が行われていないので、
caseが代打します(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=243871)。
各人の思いや考えを交流することでネット詩が豊かになることを願って。

■□■□■□■□■

(募集要項)

ネット上で誰もがアクセス可能な作品、
もしくは著作権法で許される範囲内で引用を行った作品を対象として扱った「批評」。
HHMにおける「批評」は、感想・鑑賞文・レヴュー・コメント・雑感・妄想なども含む。
引用・参照・参考にした文献名・著者名やwebサイト名・URLは明記。
題目冒頭に【HHM参加作品】と附記。わかんなくなっちゃうからね。

(例:「失われた「鈴子」を求めて」という題目だったら、「【HHM参加作品】失われた「鈴子」を求めて」となります。)

■□■□■□■□■

(投稿規定)

「現代詩フォーラム」に投稿できる方はそちらに。
「現代詩フォーラム」以外に投稿したい方は個人ブログに。
上2つ以外の方は「あなたにパイをなげる人たち」内BBS(現在準備中)に投稿。
個人ブログに投稿する場合のみ「あなたにパイをなげる人たち」内BBS(現在準備中)での報告が必要。
投稿された「批評」は随時「批評祭アーカイヴス(http://hihyosai.blog55.fc2.com/)」に転載。
投稿数は1人1作(1つの文章を分割するのも禁止)、字数制限はなし。
投稿に当たって120字前後の慷慨を本文冒頭に附記、附記された慷慨はTwitter(HHM用アカウント)で宣伝に用いる。
投稿者は上記の転載や宣伝に了承したものとする。

■□■□■□■□■

(審査概要)

「最多ポイント獲得賞」(現フォ内ポイントの総数)
「MVP」(あなパイチャットで最も話題になった)
「caseセレクト」(主催者の独断と偏見)
その他、特色のある「批評」に応じていくつか賞を設ける。
全投稿作の講評をcaseが書く予定。

■□■□■□■□■

(開催期間)

・投稿期間   :2013年1月15日から2013年1月31日
・審査~結果発表:2013年2月 1日から2013年2月15日

■□■□■□■□■

【以上】

散文(批評随筆小説等) HHM要項 Copyright 香瀬 2012-11-08 14:51:55

http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=263799
tb: (0)    com: (0)
Posted on 03:11:06 «Edit»
2012
10/02
Tue
葉月二兎「papilibiotempusolare-loremipsumanniversarium」小考


***


わかんねえ、を殺す。


***


さて、葉月二兎氏の「papilibiotempusolare-loremipsumanniversarium」(http://bungoku.jp/ebbs/bbs.cgi?pick=6352)です。平凡な読者であるわたしにとってはタイトルがあっちょんぶりけな時点で白旗をあげます。ええ、自分の過去を棚に上げて、です。

わたしが本作のタイトルを見ていちばんはじめに頭に浮かんだのが以前、自作につけたタイトルでした。それは極小から極大まで球体のイメージを行ったり来たりするなかで、校舎が燃えたり蛾の鱗粉でつくられたドラッグがでまわったり、そんな内容だったと思います(忘れた/確認しない)。

というわけで、このタイトルに対して「わかんねえ」というのは、どういう語の選択・配列を施された造語なのか「わかんねえ」というものでした。まあ、「わかんねえ」に対する氏の反応は首肯できるものであるし、以下に引用するような氏のスタンスは物を作り見せびらかすものの態度として真摯であるようにも思いました。


---quote---

[…]
例えばもし何かに掲載されたとして、読者から「分かりません。」と言われれば、「そうですか。」とだけ言いますし(あるいは流しますし)、読者が「こういう様に読んだ。」と言われれば、その「読み」にただただ感謝するのみです。
ただし“芸術家たらんとする者の修錬の場”であるこの文学極道の読者に関して言えば、「読者」とは同時に「芸術家」ないし「創作者」でもある、という認識でコメントをしております。

グリフィス様のご質問にある“作品について”――「作者」として言えば、タイトルや言葉やその連関、技法、下地等々・・・また、多くの人々が「作者の意図」と呼んでいるものについて、作者が(作者として)説明できないことは何もありません。

と同時に、作者が説明することも何もありません。何故ならば「作者の意図」というものは す べ て 作品に(作品で)表しているからです。

ですので、「作者」である私(そして私自身のスタンスとして)は、作品に表している「作者の意図」というものを公に語ることなどしません(それは「作者」の言い訳でしかないと思っています)。出した作品が す べ て です。

http://bungoku.jp/ebbs/edt.cgi?sel=20120927_485_6352r

---end_of_quote---


っちゅーわけでリベンジです。「わかんねえ」はとりあえず置いといて、「おもろい/つまらん」で読み直しです。

なお、本スレッドのレスの他に、澤あづさ「papilibiotempusolare-loremipsumanniversarium の妄想解析」(http://blog.livedoor.jp/adzwsa/archives/18004356.html)を拝読しました。直接参照した旨を記すことはないが、影響を受けたことをあらかじめ述べておきます。


***


本作をよんですべてが宙吊りにされてしまった感覚が最終聯なのでそこから遡行していくかたちで読み直します。


---

天皇よ、
走れ

---


えーっと、どちら様でしょうか? というのが感想。蝶や太陽のイメージの点在を拾っていきながら、最終聯で宙吊りにされ、なおかつ、タイトルは造語という形を取っているため、読み終わるという体験自体が実感しにくい。これは、読むという行為に始まりと終わりを無意識のうちに想定しているであろう読み手、というものを読者として想定された作品だとしたらとてもイジワルに成功しているように思う。あるいは、イメージが点在していくように、なにかしらの筋が提供され、読み手はそれを受容していくことが読むということだと考えている読み手、というものを読者として想定されているのであれば、「いわゆるこくごきょういく」の読み方にアンチを張った読みを強制している、という見方も出来るかもしれない。うん、むかつく。

うーん、でも、これの何がむかつくって、誰が「天皇」に命令しているのか不明だし、そもそも「天皇」って誰だよ、という内容の面と、「読めないだろー、ばーか」という作者像が透けてみえる本作の構成かもしれない。わたしはよく、アンテナという言い方をするけれど、作品を介して似たようなヴィジョンを共有できる感覚、ある種の優越感みたいなものを惹起するようなつくりが感じられて苦手だ。「わかる/わからん」という読者の感想をあらかじめ封殺し、「好き/嫌い」の判断と「おもろい/つまらん」の判断をパラレルにして突きつけてくるような、アンテナの有無が踏み絵的な値踏みをされているような、そういうものを感じた。

と、こういう書き方をして読み直してみたんだけど、うーん、なんか違う。わたしの、ひがみ・やっかみの正当化、みたいな文章だなあ。ひがみ・やっかみという視点に立てば、わたしは恐らく「papilibiotempusolare-loremipsumanniversarium」という作品それ自体に対してたまらなく嫉妬していることを自覚しているし、過去の私がこうありたかったであろう書き手のスタンスを見て取っているように痛感している。まあ、それはそれとして。

「わかる/わからん」は感情的、「おもろい/つまらん」は理性的、とざっくり言うけど、千野帽子氏のツイート(http://togetter.com/li/98271)を参照にしたもの。混乱したのでここに戻る。

で、だ。わたしはこの作品を「おもろく」読めたのか? イエス。でもしっくり来なかった。 なぜ? タイトルと最終聯。 なぜ調べなかった? めんどい、というか、上で述べたようなことが理由としていえる、かもしれない。 おk、ほかにある? 調べたいと思うほどの魅力までは作品に覚えなかった、その点で澤あづさ氏とは異なるかもしれない。あとは、調べなくても十分楽しいと思えるほど作品に魅力を感じなかった。これは、わたしにとっての問題だけど、イメージの点在を拾い集めることに加えて冒頭と結末に謎賭けがあっても、もうお腹一杯だった。

っちゅーわけで、これからわたしが食べやすいように仮構する加工する下降する。作品に潜って捏造する。つまり、--。

--この天皇は消しゴムだ。


***


---quote---

その次に登場するのは消しゴムであるが、ただし彼は消しゴムとしてはおそろしく巨大だったから本当に消しゴムといえるのかどうか疑問視されていた。薄ねず色の表面いっぱいにカーマインレッドで「FOR BIG MISTAKES」と印刷されていたので実用品ではなく消しゴムのパロディ的存在なのであろうと皆から思われていたが彼自身は自分のことを消しゴムの天皇だと思っていて天皇それ自体がパロディ的存在であると言えなくもないといった複雑な思考をするような性質ではなかった。彼は完全に気が狂っていた。(51ページ)

http://homepage3.nifty.com/syosei/books/modern/yasutaka.html)からの孫引き

---end_of_quote---


筒井『虚航船団』を知らん人はこちらぞどうぞ→「萌え絵で読む虚航船団」(http://www.geocities.jp/kasuga399/oebi_kyokousendan1.html)

さ。
さて。
さてと。

これで、おk。正真正銘のフェイク、本物の偽者、存在している不在(なんか西尾維新っぽい)。そういうものとして、本作を最終聯から逆照射してみる。

・最後から2こ目。
「白蝶に襲われた太陽」は日章旗をあらわす。白地に日の丸、晴天に燦燦と輝く太陽、地と図を反転させるかのように、白地は白蝶となるものの、赤丸は受身として、能動性を欠いたまま主体を誇示する。「君」と「あなた」の2つの二人称は、「国の首長」と「彼方」であり、ってなんだよ、2人称の揺れそのものへの着目で天皇を最後に召喚する下地はあったわけやん。うっかりしてた。「水が燃やす」とは何だろうか。涙や汗、雨だろうか、燃える水、石油、ガソリン、焼夷弾。

・最後から3こ目。
8月15日? 12月8日?

・最後から4こ目。
散華。

・最後から5こ目。
「蜘蛛の巣の糸」ってーと、芥川が出てきちゃう。お釈迦様マジどS。「蜜蝋」が読みづらいなあ、ハニカム構造? 国民であることから離れていってしまう=「蜜蝋が剥けて閉めだされていきました」かな。んで、やっと自由になれたのに、それってけっきょく、「花は、時間を離れてゆきます」=死であった。みたいな?

・最後から6こ目
天皇の二面性でいきゃいいのか。権威と権力の不一致。人と神の矛盾した現人神という概念。なんつうか、この聯あれだな、リョウメンスクナなシシ神さまみたいな不気味さがあるな。

・最後から7こ目
『草枕』? 「智に働けば角が立つ情に棹させば流される」のパロディか。鹿の角(根はいっしょなのにふたつに分かれている=「君/あなた」)の直面する自身の無力さみたいなものを茶化してる感じ。無責任さの指摘っつってもいいかも。

・最後から8こ目
「僕ら」って誰だよ。というか、「君=あなた=天皇」としたら、こいつが「走れ」って命令してんのか? 「ピンクの純粋さ」は笑うところだろうか? 散華への伏線と同時に特攻前の性欲の発露みたいな。にんげんだもの。でもカタカナ微妙だな見た目。「特定の日付」は最後から3こ目に通じるだろう。「時間以上に逃走する人」っつーのは、時間の経過=忘却まで待てずに、戦争についてあれやこれやキャッキャウフフしてきたような、というと赤って色も別の意味を帯びるな。

・最後から9こ目
あ、この聯は「きみ」なんだね。なんでだ? ミスか? というか、「牡鹿の角=天皇」って読みまでいっちゃってて、「白蝶」が最後から2こ目に「太陽」襲ってるんだから、このあたりは通じてるとみていいぬ。「白蝶」が繭張ってるの、国会議事堂にモスラが繭つくってる映像とかぶる。日本という国に寄生する圧倒的暴力。それはそれとして、bungokuの場における「鴎」は一条氏を引き寄せちゃう。ここまで、意味まみれにしちゃうと、人種の問題だろうか、とか思っちゃう。ちなみに、「立方体まで崩れる」様子ってジョジョ5部のベイビィ・フェイスを思い出す。あの回の人体の表現けっこう好き。人体=人間がモノのような扱いをされる非人間性の戦きといったらいいだろうか。最後から5こ目のハニカム構造の読みに近づくなあ。「瞬間からあな」ってのは「あな/た」と分断しているような様子か。もしくは「からあな=空穴」でお金のなさをあらわしてんのかな。貧窮・貧困・飢餓。(おとなになれなかった)「黒い子供をした顔」「黒い子供した顔」(2つ目は「を」がない。「黒い顔をした子供」の「顔」を強調するために「黒い子供をした顔」になり、「子供の顔」であるよりも「黒い子供した」という修飾にまみれた、圧倒的に(個(=人間性))を奪われた「顔」。佐藤亜紀の論じた映画「宇宙戦争」を思い出す。)

・最後から10こ目
「暗転する」=黒くなる「指先」って、最後から2こ目の「白蝶に襲われた太陽」と似ているように思った。というか、赤くはぜちゃったものを「白蝶」は襲っているのか?

・最後から11こ目
「アロエの刺」で、次の聯の「赤」につながりがねじれてるように見えるのは、薬としてのアロエで傷ついている指先という矛盾した点にあるのかな。新宿、歌舞伎町(ピンク!)と、副都心、みたいな。歌舞伎町と言えば、消しゴムは同性愛者だ。思わぬところでつながった。

・最後から12こ目
「私」って誰!? 「僕ら」の「ら」のほうか? 誰だよ! というか、ここは「黒くの余白」と「敷き詰められた北の太陽」。「黒の余白」ではなく「黒くの余白」ってのがポイントか。読みづら。次の聯では「黒(く)」となって、活用語尾を括弧に入れていることから、この聯の活用語尾は狙って置いていると考えられるけれど、「黒く」が連用形であることから考えるに「黒く余白」だったら「余白」が名詞でありながら用言のような動きのイメージをまとうことができるように思うにもかかわらず、「の」までしこんでくることから、とっても読みづらい。「の」が助詞のどれにあたるか検討するのもだるいな。「北の太陽」はソビエト? ええ、ええ、攻められ、攻められ。

・最後から13こ目
あら、こんなところにお釈迦様の伏線が。単純に蓮華でよんじゃったけど。あとは、「コップ」=日本(の中の嵐)か。「睡蓮の首」が「花の首折れた」を経由して「蜘蛛の糸」に翻るなら、散華や地獄のイメージをストロボのようにたいているっていえそう。首をくくって指をなくすイメージってどっかで見たような気がしたら、あれだ、人格ラヂオ「崩壊した街 支配されない場所」。


---quote---

君は頭を僕は指を無くした
補うように二人仲良く
吊るされていた

人格ラヂオ「崩壊した街 支配されない場所」
*歌詞の表記はあってないかも。。。

---end_of_quote---


・最後から14こ目
「夕立」、これは最後から2こ目の「水が燃やす」や、次の聯の「コップの水」なんかに変わるのだろうか。「コップ」=日本国だとして、「夕立」というのは、周囲の環境が雨天によってclosedになるイメージの助走のようにも思える。そう捉えると、「水が燃やす」の残酷さ、といおうか、痛快さ、といおうか、そんなものが見えてくる。

・最後から15こ目
「角の欠けた枝の/たたずむ二頭の牡鹿」は、直前の植物のイメージから枝=角からの動物へのイメージの飛躍が面白く読める。しかも、この二頭補い合ってるようだし。「時間」ってのは未来と過去か。補い合って現在か。

・最後から16こ目
アニメは知らん。

・最後から17こ目
ここの不気味な蝶は、二律背反・矛盾を内包するひとつ、というイメージの流れに乗ってるやろうな。羽蟻は、後に出てきた、指先の黒さや、子供の顔なんかに転じていくんやろうね。不気味な蝶の首を絞めた指先に黒が宿る。

・最後から18こ目
最後から4こ目と対応しているかのような聯。この聯のはじめ3行はとっちらかってるなー。スラッシュ、括弧、同音異義語のゆさぶり。なにがいやらしって、さっきのめんどくさい助詞「の」が、この聯では終助詞として、しかも、スラッシュに挟まれてるとこ。まあ、ここのスラッシュの使い方は、わたしもやったし、田崎さんもやったし、葛西さんが先駆者なんじゃね、と思ったり、似たようなのでは渡辺玄英もやってるし。語尾のゆさぶりにより確定不能さの表現は、「湖面」の震えとあいまっても、そんなに面白いものではなくなってしまったのかなあ。ここでは「蜂の巣」は「鯨の瀬」を挟んでいるわけだけど、これがやがて蜘蛛の糸によって閉め出されるんがなあ。ここは「君」なんやね。円錐状ってのは2つ前の聯の「円形状の静脈」からの転化か。

・最後から19こ目
知らん。

・最後から20こ目
んー、あんまりこの聯は面白くない。1行目の「に」が気持ち悪い。2つ後の聯にもあったけど、「沈黙」というのは、ストレートに死でいいのだろうか。史上で決して語られない者の死、決して語られないということそれ自体が死。べたか。

・最後から21こ目
この仙人掌は、後のアロエかな。「抉れた石」は国家でも思い出してりゃいいのだろうか。窓の外を転がるローリング・ストーンズ!

・最後から22こ目
ここは君とあなたの分裂を見せているね。早々に分裂を見せているのは、このひとつ前の「白蝶/蝶」であり、これらは二匹の蝶ではない(「蝶」は「白蝶」の影、か?)。産卵、散乱、燦爛。ちげえええええええええ。Sun Run。んだよ、この詩のオチが示されてんじゃねえか。

・最後から23こ目
猛禽類って米だろ。

・最後から24こ目
この聯にだけ、鍵括弧があるのな。閉じだけだけど。閉め出されたって奴ですかね。この聯の「彼らのものの )」以降の文字列は、閉め出された文字列ってことですかねえ? 

・いちばん最初
矢張り、「ほほ笑みか(蹴られ)ない」の表記は素晴らしいと思う。笑ってもらえない、それに隠された罵倒も、決してされることもない。このかなしさ。このかなしさ。このかなしさ。鯨も馬も知らん。知らん。

なーんつって。


***


天皇を消しゴムっつー、パロディのパロディを用いてパロディの捏造をこころみたわけだけど、けっきょくわたしの自力ではタイトルの読解は無理! ノイズ! 消しカス!

ここまで潜ってみて、楽しいは楽しかったけど、気持ちよくはなかった。潜りきれていないという自覚もあるけど、快楽なしでこれ以上は勘弁。













tb: (0)    com: (0)
Posted on 15:13:30 «Edit»
2011
10/30
Sun
Category:【漏洩】

TKB 

7か8.

更新したよ。

やっつけだけれど。
tb: (0)    com: (0)
Posted on 22:52:38 «Edit»
2011
04/17
Sun
Category:【漏洩】

【メモ】太宰治『走れメロス』 

 突発的にメロスの読み直しをしたよ。べたに。本文は青空文庫より。



+++



○人物・場面・事件

 物語の読み取りにおいて、「人物」「場面」「事件」の三つのポイントを押さえられるかどうかが肝要だと思ふ。以下、本作における三つのポイントを整理するよ。


一・人物

 人物においては固有名詞のあるものとそうでないものに分けられる。()内に職業を付記。


固有名詞(登場順)

メロス(村の牧人)
セリヌンティウス(シラクスの市の石工)
アキレス(賢臣(冒頭、老爺の語る王に処刑されたもの流れのオチ)*登場はしてない)
ディオニス(王・暴君)
フィロストラトス(セリヌンティウスの弟子・石工)


普通名詞(登場順)

若い衆・老爺・村人たち・妹(一六歳・花嫁)・花婿・山賊・刑場の群衆・少女(オチ)



二・場面

 場所・時代・時日・時間帯・季節・天候 など。本作を6つの場面に見立てる。


1 シラクスの市(メロスは激怒した。 ~ メロスは激怒した。)
   未明 日も落ちて、まちの暗いのは当りまえ・夜

2 王城(メロスは、単純な男 ~ メロスはすぐに出発した。)
   初夏、満天の星

3 十里の路・村(メロスはその夜、 ~ 死んだように深く眠った。)
   夜・翌る日の午前、陽は既に高く昇って、(メロス到着)
   目が覚めたのは夜だった。夜明けまで議論 結婚式は真昼
   黒雲 ぽつりぽつり雨が降り出し 車軸を流すような大雨

4 村・野・森・隣村 氾濫した川 峠(山賊と遭遇) 峠のふもと(メロス倒れる)
   翌る日の薄明の頃 雨も、いくぶん小降りになっている様子
   雨も止み、日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。
   太陽も既に真昼時(渡河前)
   陽は既に西に傾きかけている(渡河後)
   午後の灼熱の太陽

5 泉 路(野原の酒宴・小川) 刑場 (ふと耳に、 ~ 疾風のごとく刑場に突入)
   日没までには、まだ時間がある。
   陽が沈む。ずんずん沈む。 少しずつ沈んでゆく太陽。
   シラクスの市の塔楼は)夕陽を受けてきらきら光っている。
   「まだ陽は沈まぬ。」(フィロストラトスとの会話)
   赤く大きい夕陽
   陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時

6 刑場 (「待て。その人を殺してはならぬ  ~  勇者は、ひどく赤面した)
   (太陽の描写なし = 日没・夜 = 1と同じ時間帯)

* シラクスの市より、現イタリアのシラクーザが舞台。
* ゼウスを何度も呼ぶところから、古代ギリシアの時代。



三・事件

 変化を引き起こすもの・きっかけ。変化を読み取るとは、それ以前/以後の差異ならびに、その差異を生み出した要因を把握することとする。()内数字は場面と対応する。


・メロスは激怒した(1)
  物語の発端。メロスの人物造形=単純。老爺の発言から王城へ向かう。

・「ただ、私に情けをかけたいつもりなら~」(2)
  物語のスタート。メロスが走り出す理由=ディオニスの信頼を再獲得するための仕掛け。
  メロスの口調が「だ・である」から「です・ます」に変わっている。

・セリヌンティウスを人質に(2)
  同右。ディオニス=疑惑に対してメロス―セリヌンティウス=信頼が設定される。
  (対比の内訳は、1における老爺の台詞より。)

・黒雲(3)~フィロストラトス(5)
  メロスが目的を達成するための障害として。「黒雲」に対する「不吉」(3)はその暗示。
  以下、障害について見ていく。

 大雨・小雨・雨が止む ・・・ 持ち前ののん気さ(油断)
 川の氾濫       ・・・ 天災
 山賊         ・・・ 人災
 午後の灼熱の太陽   ・・・ 疲労 = 不貞腐れた根性 = 悪魔の囁き
 フィロストラトス   ・・・ 諦念

・別れ際の花嫁へのメロスの台詞(3)
  「おまえの兄の、一ばんきらいなものは、人を疑う事と、それから、嘘をつく事だ。」

 以後、メロスは走りながら走る理由を自身に告げる場面がいくつか見られる(メロスの二面性?)。物語のスタートとして、単純な人物として設定されているメロスの、王との「約束」がキーになるものと考える。
 (メロスの二面性については、王に対する口調の変化からも伺える。暗殺する気の人間が、途端に口調を改め三日間の許しを請う様は、自縄自縛であり滑稽といえる。)

A 「人を疑う事」 = 王へのアンチ = セリヌンティウスとの信頼関係
B 「嘘をつく事」 = セリヌンティウス、また王との約束を破ること

このように見直すと、(4)で「~の為に走るのだ」が三種出てくるが、それにも当てはまることがわかる。

 「殺される為に走るのだ」「身代わりの友を救う為に走るのだ」・・・ B
 「王の奸佞邪智を打ち破る為に走るのだ」         ・・・ A?

(奸佞邪智は「心が曲がっていて悪賢い」だけでなく「人に媚び諂う」という意味もあるが……?)

 王との「約束」はもう一つある。つまり、日没までに帰らなかった場合、メロスを許すという約束であった。この「約束」についての言及は(4)におけるメロスの「悪魔の囁き」と呼ぶ場面である。
この場面でメロスは「友と友との間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝」と言いながら、「私は負けた」「永遠に裏切り者」「不名誉」と自身を蔑み、「正義だの、信実だの、愛だの、」「くだらない」「人を殺して自分が生きる」「何もかも、ばかばかしい」と自棄になってしまう。

 こうしたメロスのプラスからマイナスへの大きな心情変化は、身体の疲労とパラレルになっている。したがって、泉の水を飲み身体の疲労の回復したメロスの心情はマイナスからプラスへと変化している。(「悪魔の囁き」を「悪い夢」とすることで、現実から一蹴してしまう)
 また、王城到着まで「のん気」に間に合うものと見ていたメロスが、到着できないかもしれない可能性を経ることで、王城到着に対して「希望」を抱くこととなる。では、どういった「希望」が生じたのか?

 「義務遂行の希望」        ・・・「私は、信頼に報いなければならぬ」・・・A+B
 「わが身を殺して、名誉を守る希望」・・・「私の命なぞは、問題ではない」

 AもBも相互補完的なものであったが、当初は王へのアンチのニュアンスが強かった。それは、「私は負けた」という台詞がある――物語の終盤、王に「おまえらは、わしの心に勝ったのだ」という台詞もある――ことからもわかる。
 そこで、「問題」という言葉で俎上に上げられるのが「(私の)命」である。王との「約束」では、日没までに間に合えばメロスを殺し(セリヌンティウスは解放され)、間に合わなければセリヌンティウスを殺す(メロスは許される)ものだった。
 「命」よりも「信頼」に価値のウェイトは移動してきている。「問題」という言葉に注目して、フィロストラトスとの会話における、最後の走る理由を見てみる。

 「それ(=セリヌンティウスが「メロスは来ます」と強い信念を持っていた)だから、走るのだ」
 「信じられているから走るのだ」
 「間に合う、間に合わぬは問題ではないのだ」
 「人の命も問題ではないのだ」
 「なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ」

 ここに来て、メロスの走る理由は、人質として差し出したセリヌンティウスの命を助けるためということを放棄している。しかし、本当に「ここにきて」であろうか。
 メロスにとっての「名誉」は「信頼に報いること」「約束を果たすこと」であろう。これらは、花嫁に語った、「きらいなもの」の裏返しでもある。

 では、「間に合う、間に合わぬは問題ではない」という台詞は一体何を意味しているのか。
 「なんだか、もっと恐ろしく大きいもの」とは何か。

 この場面でメロスは、フィロストラトスに「あなたは気が狂ったか」と言われる。しかも、それに追い討ちをかけるように、「メロスの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。」ときて、「ただ、わけのわからぬ大きな力に引きずられて走った。」とあり、すでに、自分の意志で走っていないことが仄めかされている。

・メロスとセリヌンティウスの殴り合い
  お互いに一度だけ、お互いのことを疑ってしまったことに端を発する。
  信頼・信実を象徴する二人にとっての禊的な場面か。
  
 

○カラーイメージ

 以上を踏まえ、「走れメロス」の読解の手がかりとして、主要人物のカラーイメージの変遷をたどってみる。


メロス

 激怒(1)・真紅の心臓・愛と信実の血液(4)
 斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている(5)(「希望」ゲット)
 メロスは黒い風のように走った(5)
 口から血が吹き出た・胸の張り裂ける思い(5)
 緋のマント・赤面(6)

* 赤/黒 = 信実/狂気(黒雲の「不吉」を思い出してもいい)


ディオニス

 王の顔は蒼白で、眉間の皺は刻みこまれたように深かった。(2)
 顔をあからめて(6)

* 青/赤 = 疑念/信実


石工(白? 時代背景と場所の設定より大理石を扱うものとイメージ)

 セリヌンティウス = メロスとの友情 = 信実
 フィロストラトス = セリヌンティウスとの師弟関係 = メロスへの諦念

* セ/フ = 師/弟 = 信実/諦念

※ カラーイメージは対比関係となっている。あからさまな対比であるメロス/王がそれぞれ二面的なカラーイメージを付託されていることより、石工を補完的な色彩と見なし三者の三角形の図をイメージとする。その際、紅白・黒白・蒼白・蒼黒といった語を念頭に置かれたい。



 本作における登場人物のうち、実際に作中に登場する人物で、かつ固有名詞を有する人物は以下の四名である。すなわち、メロス・セリヌンティウス・ディオニス・フィロストラトス。
 タイトル「走れメロス」より、メロスを中心人物として見ることはやぶさかではない。メロス=信実・信頼、という視点より、彼と対比的なポジションとして設定されているのが、物語の発端として王城の主として君臨するディオニス=疑念と言える。
 ここで、二者の対比を補完する形でセリヌンティウス/フィロストラトスが召喚されている、と仮定する。つまり、メロスにおける信実と、ディオニスにおける疑念の別の側面を表すギミックとして石工が設定されている。
 もちろん、物語を動かすためにメロスは人質を王に差し出さねばならない。また、メロスが目的(=約束)を果たすためには、それ相応のカタルシスを必要とするため、天災・人災をはじめとする障害が必要となる。
 ここで、物語が「何かしらの変化を読み取らせるもの」と仮定して、本作における最も大きな変化が「ディオニスの疑念から信実への変化」だとしたら、メロスに課される障害は、より大きなものとならざるを得ない。

 先に述べたように、メロスに課された障害は「自身の油断・天災・人災・疲労(悪魔の囁き)・諦念」と整理できる。
 そのうち、天災/人災は、自身の注意ではどうしようもないものと言える。油断は、疲労を誘発し、また疲労を経て「希望」を獲得する仕掛けとなっている。
 諦念は、悪魔の囁きと似たようなものである。が、前者が、石工の別の面であるのに対して、後者は身体の疲労がもたらした悪い夢として物語上処理されることとなる。

 直面している状況に対する自身の認識の甘さ(=油断)から、自身の力ではどうにもならない事態(=天災・人災)を経て、目的を阻む障害として、自身の状態(=疲労)と、自身の目的未達成の可能性の示唆(=諦念)が生じる。
 疲労は、泉の水を飲むことで身体が回復され、悪魔の囁き=悪い夢と一蹴された、では、フィロストラトスは何のために召喚されたか。
 (6)の殴り合いのシーンにおける、セリヌンティウスが相手を一度だけ疑った具体化としてフィロストラトスの召喚を考えたい。
 つまり、メロスにおけるセリヌンティウスへの疑念――と言おうか、彼の場合、身体の疲労がもたらした諦念の近いものではあるが。それは、つまり、信実に対するカウンター=ディオニスと価値観を一にするものとも言える――が、悪魔の囁き=悪い夢として処理されたのに対して、セリヌンティウスにおけるメロスへの疑念が物語上、最終的に禊を要求しているにもかかわらず(なぜなら、メロスは禊を行う必要があり、メロスとセリヌンティウスはある意味で鏡像関係であるのだから)、描写されない。したがって、セリヌンティウスのメロスへの疑念としてフィロストラトスのメロスに対する諦念じみた提言を終盤直前に仕込む必要にあったと考える。
 しかし、その諦念は、石工サイドからみたら形式上必要であったかもしれないが、メロスサイドから見たら、悪魔の囁きを悪い夢として処理した段階でクリアしているようにも思える(一度乗り越えた障害がもう一度し出てきたに過ぎない、ように思える)。そこで、メロスのカラーイメージが変転する。

 フィロストラトス登場直前にメロスに当てられる修飾に「黒い風」というものがある。このとき((5)の後半)メロスは、「犬を蹴とば」すわ、「人の命も問題ではない」とは言い腐るわ、果てはフィロストラトスに「気が狂ってる」とまで言われる。イエス。メロスはこのとき〈赤〉ではない。つまり、疑念の象徴であるディオニスに対する激怒の感情もなければ、「愛と信実」の血液の色でもない。
その証拠に、(4・メロスがへたばってる場面)における信実の象徴とされたメロスの身体(=血液・心臓)は、フィロストラトス登場の場面において「口から血が吹き出た」とあり、その身体から脱け出てしまっているかのようである。逆に、メロスがこれほどまでに急がなければならない時間帯として、この場面では、太陽は夕陽として描写されており、この世界そのものが、メロス=信実=赤となっているかのようでもある。
 このとき、メロスはメロス自身の信実という小さな枠組みを超え、「もっと恐ろしく大きいもの」=「わけのわからぬ大きな力」に突き動かされるようになる。そして、これは、この場面直前にメロスの祈った対象であるゼウス(=神秘的なもの)である可能性が匂わされる。

 ギリシア神話におけるゼウスは、最高神であり、主に天候を操る神である。川の氾濫の際、メロスが彼に祈りを捧げるのも、このことから合点がいく。
 陽が沈む直前に彼に祈りを捧げるのも、天候の文脈から理解することも可能ではあるが、天候=太陽を操るよりも、メロス自身を神秘的・超越的な力で間に合わせる方策にゼウスが出たとも解せないか。
 つまり、メロスは自身の信実を体現するもの(=〈赤〉)から、それを超越した人ならざるもの(=〈黒〉)へと変貌した、と。
 そのため、メロスは信実を遵守するものから、信実そのものへとなった、と大雑把にいえよう。それらを端的に示すとして、これまで明言を避けていた「人の命も問題ではない」という発言や、犬を蹴とばすという行為が挙げられないか。(ただ、メロスが自身の信実(=正義)を貫く手段として、殺人を厭わないのは(2)における王の暗殺未遂から案じられる。つまり、メロスは単純な人物造形として一貫して動かされているとも言える。)

 ここでいったん整理。

赤/青 = メ/デ = 信実/疑念 = 物語の発端
赤/白 = メ/セ = 信実/信実 = 物語を駆動 = 待たせる者/待つ者
赤/黒 = メ/メ = 信実/信実 = 物語の山場 = 遵守する者/それそのもの
黒/白 = メ/フ = 信実/諦念 = 物語の山場 = 目的・約束/最後の障害
白/赤(黒?) = セ/メ = 信実(?)/信実(?) = 物語の終幕 = 禊・殴り合い
青/赤 = デ/デ = 疑念/信実 = 物語の終幕 = ディオニスの信実の回復
黒/赤 = メ/メ = 信実/信実 = 物語のオチ = メロスの(人間性の)回復



○対比

メロス・ディオニス・石工の対比

メロス/ディオニス・石工 = 村/シラクスの市 = 鄙/都

ディオニス/メロス・石工 = 王/庶民 = 孤独/友情

石工/メロス・ディオニス = 物語上の二面性の処理の仕方



+++



○おまけ

本作における「笑い」のイメージについて

 デ・憫笑(2)
 メ・嘲笑(2)
 デ・嗄れた声で低く笑った(2)
 デ・北叟笑んだ(2)
 メ・無理に笑おうと努めた(3)
 メ・笑って村人たちに会釈して(3)
 メ・笑って磔の台に上ってやる(4)
 濁流・メロスの叫びをせせら笑う(4)
 メ・きっと笑われる。私の一家も笑われる。(4)・・・メロスが笑われる
 デ・王は、ひとり合点して私を笑い、(4)・・・王がメロスを笑う
 セ・殴ってから優しく微笑み、(6)

 * 相手に対する意識的な意思の表明として用いられている(?)









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Posted on 23:39:12 «Edit»
2010
12/08
Wed
Category:【漏洩】

第2回グラチャン感想@twitter 

第2回 21世紀新鋭詩文学グランド・チャンピオン決定戦(http://bungoku.jp/grand/2010/)結果出てたー!



って、受賞作多っ!



heさんが!2作も!読める!





ひっそりと読む。上から読んでて(heさんは別。ファンだからね! そして期待を裏切らない心地よいリズムだたさ。)ピンとくるのがない。趣味の違い?うーん、評価理由がわからない。なんで?ていう。過剰な情報が整え切れていないのかな。長いのにどこか「不足」を感じる。



吉田群青「わたしの悪夢」(http://bungoku.jp/grand/2010/0087.html)。相変わらず読ませる。個人的な雑感が地続きに変な妄想となってワヤワヤって感じ。延々と朝食を作り続ける聯が素晴らしい。



ちなみに群青さん(@atomiyo_sowaka)の作品では旦那を題材にしたものが好きだ。浮気しちゃうやつだったっけ?



見つけた:吉田群青「夫の浮気」http://michmichi777.blog31.fc2.com/blog-entry-517.html(『弁解なんかしたくなかった』)



朝食の場面がかっこいいのは、自分語りを回避するのに幽体離脱っぽくなってんのに一人称ですすめちゃうところ。「幸せな家庭」に閉じ込められていく(/で閉じ込めていく)わたしの二重性。妄想を身体から飛ばすんでなくて、身体にとどまらせてそれを「俯瞰」してんのがおもろい。



これ、かっこいいなあ。渋い。ディア「砂遊び」(http://bungoku.jp/grand/2010/0037.html)



あ、黒沢さんと趣味がかぶってるww



話は戻るが、群青さんのこれも好き。「帰らない夫」(http://michmichi777.blog31.fc2.com/blog-entry-489.html)



これらに影響を受けて書いた自覚のあるものを思い出す。「真空にかすり傷」(http://caseko.blog90.fc2.com/blog-entry-352.html)。うーん、だめだな。へたっぴだ。



まぁ、わたしはどうでもいいのよさ。



ポエコ・ポコ「ちがうみち」(http://bungoku.jp/grand/2010/0075.html)。ああ、いい。こういうの書けないなあ。空白の使い方がわかんないんだな。



谷竜一「人の糟」(http://bungoku.jp/grand/2010/0083.html)。笑える。谷さんは前回の「水葬」(http://bungoku.jp/grand/2008/0146.html)のが好きだし、うまいと思ふ。けど、笑える作品って素敵。



とりあえず、初読の感想。





今回はグラチャンに応募してないんで完全にお客さんとして楽しみにしていた。前回とはかなり趣向を変えたような印象。第2回で前回から大きく変化しちゃったように思うんですが、そのへんどうなんでしょう。とりあへず、受賞作多すぎ。



いまちょっと調べてみた。第1回GCは応募総数:154(内、無効:4、棄権:2、有効:148)。第2回は非公開(? 見つからない)。一次通過作品数は、第1回が41、第2回が51。各受賞作品数は、第1回が10、第2回が25。



「各受賞作品数/一次通過作品数」を仮に「二次選考通過率」とすると、第1回は10/41=0.2439024(約24%)、第2回は25/51=0.4901961(約49%)。



第2回の応募総数がわかんないけど、「一次通過作品数/応募総数」で「一次選考通過率」としてみると、第1回は41/154=0.2662338(約27%)、有効数だと41/148=0.277027(約28%)。



ちなみに、「各受賞作品数/応募総数」もやってみる。第1回だけだけれど。10/154=0.0649351(約6%)、10/148=0.0675676(約7%)。





さて、再読。ディア「砂遊び」(http://bungoku.jp/grand/2010/0037.html)。読んでて、何かに似てる印象を覚えたんですが、あれだ、マルケスっぽいんだ。幽霊とか変な気象とか病気とかがふつうのこととして書かれてある点からそう思ったんだ。



正直、読み始めて何行かは、喩が独りよがりなような気がしたんだけど、「雨が降らないんじゃなくて~」からカチッとリズムに乗っている印象。結部での人間の親子の(ような)会話が、砂の風の音=幽霊の会話=前聨であることを確認する。



んで、確認して導入を読むと同様の「瞳を洗いなさい」が見つかるわけで、プクータ親子もまた幽霊であるかのような。こうした人間の営みがすべて砂粒の吹き去った残像が見せる幽霊のようなもの、そんな印象。



たとえば、以下のようなセリフがグっとくるように、それまでの綴り--このまちの営み--が置かれている。    「そういやお前の名前はなんだっけ?」「とっくの昔の砂嵐にもってかれちまったよ。そんなもの」





ポエコ・ポコ「ちがうみち」は改行を文節でないところで区切ることで、意味をいったん留保させて読ませていく。まあ、手法としてはそんなに珍しくはないんだけど、タイトル「ちがうみち」が、常に行き止まりにぶち当たりながらも次の行でつながっていく意味の連鎖にかかっていて面白い。





谷竜一「人の糟」。ムジさん好きそうだなと思ってたら選者だ(笑) 整体での施術中の会話なんだが、ずれてる。骨がずれてるって内容ともあってるのかな。やや説明的なんが勿体無いけど。もっと関係ないおしゃべりとかするだろうに。一本調子にしないほうがいいと思った。



最後に一体化しちゃうのは、結局そうやってまた「糟」がたまっっていってしまうってことなんか知らんけど、糟を取りにいって(/疲れをとりにいって)、結局疲れちゃうってこと、よくあるw なんて思いながら読んでいました。まる。







twitterはログとりづらい!好かん! heさんについては別枠で書こう。
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Posted on 21:45:32 «Edit»
2010
11/13
Sat
Category:【漏洩】

ルビ@twitter 



ウブカタ『マルドゥック・スクランブル 圧縮』を読む。『ユリイカ』に寄稿された中沢さん(@sz6)のエッセイを読んで触発される。んー。おもしろかった。

*

独特のルビの振り方で思い出したのは水無田気流の詩(と、『ヘルシング』と『パンプキン・シザーズ』)。ちと古い翻訳SFぽさ、みたいな狙いを持ってるって水無田が何かの(たぶん『現代詩手帖』)のインタビュで言ってた気がする。

*

難読字を補助するためのフリガナ以外のルビの機能は、言語が多義的であるのを顕現させるものだと思う。言葉遊びからキャラクターの色付け・ストーリーの展開(ウウカタ)とか、漢字を(ひらがなではなく)カタカナに開くことで従来の言語の使用から脱臼した文脈の構築(ミナシダ)とか。

*

並置して考えると面白そうなのが、吉増剛造-永澤康太に見られる過剰なルビ(傍注)。彼らは、言語が多義的であることよりも多層的であることを見せつけようとしているように思える。

*

多義的というのが、言語が多数の意味を有することから、多数の(読み手を別の)コンテキストにつなげる。対して、多層的というのは、(その)言語--というか文字を--を使用(記述)する(に至った)書き手の動機や関係連想それ自体も同一平面(紙面)上に記す。

*

したがって、多義的に機能しているルビが、その語を起点とした外向的なベクトルに対して、多層的に機能しているルビが、その語を終点とする内向的なベクトルをイメージする。両者の中間として『数式に物語を代入しながら何も言わなくなったFに、掲げる詩集』の中尾太一をイメージなんて言ってみたりw




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Posted on 16:57:27 «Edit»
2010
07/18
Sun
■1753 / 1階層)  第一レス

□投稿者/ case -(2010/04/09(Fri) 17:52:06)

2010/04/09(Fri) 17:56:01 編集(投稿者)


 鈴木士郎康っぽい。というのが第一印象。もちろんプアプア詩かましてたエログロ
ナンセンスの時期のソレ。なんだけどソレに比べるとパワー不足を感じるのは何故か
しらん。行の長さや改行のタイミング、反復や対句によるリズムの不足を感じます。
ドライブ感、という表現で適確かしらん。知らん。伊藤比呂美やねじめ正一の初期作、
金井美恵子の詩、町田康や舞城王太郎の小説、とかとかとか。本作にも見られるけど
良く意味わかんないんだけどなんか読んでしまうような形だけのストーリー、みたい
なものを読ませるには構造か(/と?)文体を再考かと。

 んで、わたしが「良く意味わかんないんだけど(以下略)」と感じた点を書いてみ
ます。


+++


・前聯

 前後編になっているのかと思ったので、改行を境目と判断して読みます。句読点の
ない文を改行でぶつ切りにしていますが、「た」形や感嘆っぽい文末を文の区切りと
判断します。

 ・一文目

  脛によく撹拌した卵を入念に塗りたくり
  その上に葱とシーチキンを混ぜた上でカートを前進させた

 脛の上には「よく撹拌した卵」「葱とシーチキン」が載っている。前進される「カ
ート」とは何か。具体的描写等説明はない。

 ・二文目

  側溝の穴にカートのタイヤが中途半端に嵌まり込むと
  カキーン!ラジオの実況中継をこの掌に収めると同時に
  カートの前進がヒヨコのセル・フォンになってぴたりと止まった

 側溝ってのは道路の脇にある汚水を流してある溝のことだろう。その穴にはまるほ
どであるためカートのタイヤは小さなものだとわかる。「ラジオの実況中継」を掌に
収めるというのは携帯ラジオのメトニミーか。「カキーン!」とあるように野球中継
を聞いているように思われる。ここで「カートの前進」が「ヒヨコのセル・フォン」
へと変形される。「カート」ではなく「カートの前進」。つまり具体的な事物ではな
いものが具体的な事物となったことで「ぴたりと止まった」ということである。「ヒ
ヨコのセル・フォン」に何らかの着信があったためカートを急停止させたことだろう
か。状況は定かではない。

 ・三文目

  脛をカートに痛打し燃え上がる脛の上で
  葱とシーチキンの香ばしい香りの卵焼きが出来上がった

 「燃え上がる脛」とはカートに打ちつけたことによる痛みを表しているのだろう。
燃えるような痛み。比喩は言語上で実際の炎を呼び起こし「香ばしい香りの卵焼き」
を召喚する。同一行において同じ漢字を使用する場合なにかしらの含意を探ってしま
うが不明。単なる強調か。

 ・四文目

  これって御飯が進むんだよなあ

 指示語「これ」の指示内容は「卵焼き」のことであろう。自らの脛で焼いたおかず
を食すことは自炊・自給自足を示しているのか。だとしたら、「脛」という急所で料
理を行うのは切迫した状況を意味しているのかもしれない。

 ・五文目

  その日は朝も昼も夜も卵焼きにご飯でセル・フォン要らなかった

 「卵焼きにご飯」。三食「卵焼きにご飯」であることと携帯電話否セル・フォンを
必要としないことの連関が不明。「セル・フォン」も比喩か。(電波上の)つながり。
つながりを必要としない、という意味にとれば一人/独りでも良いということとな
る。

 ・六文目(最終文)

  その代わり一日中トイレの中で不動産鑑定評価基準を
  暗唱させられるはめになって仕舞ったのには閉口した

 指示語「その」は三食「卵焼きにご飯」であったことか「セル・フォン」を必要と
しなかったことか。「トイレ」が自宅のものなのか公衆トイレなのか、また男性であ
れば小便器用か個室なのか、はたまた用を足す場ではなく手洗い場なのか否かすべて
不明。個人的には個室であれば自宅でも公衆トイレでも男女どちらでも面白く感じら
れる。狭い室内で「不動産鑑定評価基準」をそらんじる様は不気味で素敵。いかに立
派な不動産であってもまたその真反対であってもトイレの個室の中ですることは皆一
緒。そこでそらんじられる「評価基準」もまた水に流されるのだろう。「させられる」
と使役受身になっている点は、この作品内の主体がなにがしかの指示を甘受しなけれ
ばならない立場にあることを示している。では、いったい誰からだろうか。


・後聯

 ・一文目

 ー書き直す日記の文字は大量のゴミを降らせてやさしく眠るー

 文というか狂歌? 両サイドがダッシュでなく長音記号なのが気になる。ミスか。
日記をつける習慣をあたしは持たないが、書かれてしまった文字が否応なく修正され
てしまう状況というのは怖いものだと思う。文字からしてみれば好きに書かれたわけ
ではないのに。「ゴミ」というのはしたがって書いた側にとっての判断だろう。それ
とも死体もゴミかしらん。「やさしく眠る」のは誰?文字か、書き手か。

 ・二文目

  ’04年私の部屋はゴミで充満して居た

 日記、という言葉から日記内の引用だろうか。作品内に、つまりあらゆる書かれた
文字が虚構化されるフィクションに作者の生々しい情報を強引に捻じ込みそれすら虚
構化されてしまうけれど抗ってるねー、的な評価(違?)として鈴木「プアプア」に
「現場性」って言ったのは飯島耕一。日記あるいは身辺雑記の虚構化が虚構そのもの
への抗いとなって実在性への接近の契機となるってそれホント?

 ・三文目

  ゴミの充満した部屋でみこを犯しながらデッサンに励んで居た

 「みこ」は「ゴミ」の反転か。書かれてしまった/書き直されてしまった文字を「
ゴミ」としているのならば、それを反転したものを犯しながら励めるデッサンとはい
ったいなんだろうか。(主体は男か、はたまたタチ役か/「みこ」の性別も不明。巫
女?まさか。

 ・四文目

  何の絵を?シルクロードの隊商図をキャラバンのマックスを

 三文目に対する自問自答。あるいは「何の絵を?」は語り手の唐突な介入。ここか
ら絵画内世界へ。文字の世界からの脱出?否、それを文字化しているのが本作である
という事実。

 ・五文目

  ラクダの上に大量の浣腸キットが乗せられて交易に従事する彼らは
  「ラクダの上には商品を。人は歩け歩けじゃよ」
  と唱えながら砂漠を越えヒマラヤを越え時にはアルプス造山帯をも踏破して
  燃える商魂の彼らにはクリスマスイヴも全然関係無かった

 したがって「デッサン」に存在しない台詞が交易が休日の有無が文字化されたここ
にはある。「燃える商魂」。げんきですかー!?げんきがあれば詩会のレス付けも一
日で出来る!「燃え上がる脛」「燃える商魂」。炎を介して「脛」と「商魂」の感動
的な出会い。脛は弁慶の泣き所。涙で炎は消させない。泣いちゃいけねえおっかさん。
いつか燃え立つ商魂で。おっかあ楽にしてみせる。だけど今ではそそり勃つ。おいら
あ「みこ」ちゃんとやってるぜ~。(だけどクリスマスイブはない)

 ・六文目

  やがて過去は現れる

 転調。もっとも短い行であることともに、日記を読み直すことで過去が現在の顔を
することを示している。

 ・七文目

  ’48年12月23日の運命に日に7人の殉難士の御霊は何故か
  ’08年5月2日の百貨店でタクシーのナンバープレートに食らいつき
  私の首めがけて猛ダッシュの突進を敢行し
  私の首を自転車に変えたかと思うと
  その自転車に7人でまたがり再びを猛ダッシュを敢行して
  大学を中退して仕舞った


  12月23日
  内閣不信任案可決 - 衆議院解散(馴れ合い解散)
  東京裁判: 巣鴨プリズンで死刑囚7名に絞首刑執行
  (引用、wikipedia「1948」)

  12月23日 - 東条英機、日本陸軍軍人・第40代内閣総理大臣(* 1884年)
  12月23日 - 板垣征四郎、日本陸軍軍人・関東軍参謀長(* 1885年)
  12月23日 - 木村兵太郎、日本陸軍軍人・関東軍参謀長・ビルマ方面軍司令官(* 1888年)
  12月23日 - 土肥原賢二、日本陸軍軍人・第7方面・第1総軍司令官(* 1883年)
  12月23日 - 広田弘毅、外交官・第32代内閣総理大臣(* 1878年)
  12月23日 - 松井石根、日本陸軍軍人(* 1878年)
  12月23日 - 武藤章、日本陸軍軍人(* 1892年) 
  (同前)


  5月2日
  大型サイクロンがミャンマーを直撃、特にエヤワディ地区に被害が集中している
  模様で、ミャンマー国営放送はこのサイクロンで350人近くが死亡したと報じた。[119]
  韓国で李明博政権の米国産牛肉の輸入再開に対し反発する市民が集会を開き、以
  後数ヶ月に渡り抗議デモが続く(2008年韓国蝋燭デモ)。
  (引用、wikipedia「2008」)


 さてさて。軍人が戦場ではなく敗戦者の立場から死刑を申し渡されることを「殉難」
([名](スル)国家や宗教などにかかわる危難のために、身を犠牲にすること。「―
の士」(引用、YAHOO!JAPANN辞書))と呼ぶことの妥当性について云々するかどうか
はまた別として、最終文にして唐突ともいえる歴史文脈の接続が成功しているか失敗
しているかで言ったら失敗していると思います、わたしは。「’08年」の方はwiki
の記事より韓国のデモを指しているのだろうか、と思い、そうなると前聯の「カート」
がショッピングカートであることが判明し、「燃え上がる脛」は文字通り燃えていた
のかもしれない(蝋燭デモ、とあることから)。まあ、脛が燃えていたか否かではな
く現場に炎が存在していたということですね。「自転車」はよくわからんけど、「大
学を中退」は死刑執行ってことかしらん。


+++


 はじめに戻って。「よく意味(略」で言うと、今こんな感じで生きてるおいらも過
去の誰かの生き死にの上なんだねそうやって生きたり死んだりしながらこの世界にい
たりいなくなったりしてるんだね的なことを文字にしてしまうことってアレよね不動
産の評価基準もラクダのデッサンも文字でいっしょくたに表せるのよね不思議よね過
去と現在をいっしょくたにした日記も似たようなものよねそんな感じで生まれたり死
んだりしてるのよね私でもそれって自明よね。みたいな?

 えと冷たいようだけれど何を書きたいのかという点に関してはあまり興味を持てな
いタイプの読み手なのでそこは申し訳ない。けれど、本作がどのようにかかれている
かという点には興味があります。素材の整理や取捨選択、ポイントとなる部分の説明
や描写、歴史等外部コンテキスト挿入のための地均し及び助走と着地、などなど。題
材は面白いので構造や骨格を既存のものを拝借して組み立てなおして見るのも一興か
もしれない、と思います。 











第一レスおしまい。



+++++



■1765 / 1階層)  1点

□投稿者/ case -(2010/04/23(Fri) 15:52:41)


 第一レスで逐語訳的にわたしなりの「読解」を試みたのですが、「読解」の最中も今振り返ってみてもそこに「快楽」がありませんでした。これは作品としてかなり致命的ではないのかなと思います。

 「快楽の装置」(佐藤亜紀)ってのは芸術作品の謂いですが、それは作品内容だけでなく形式・構造・配列・運動・飛躍・接続・・・といったもろもろに対する「鑑賞行為」の最中に生じるすべてのことである、とわたしは解釈しています。

 本作では大量のガジェットが矢継ぎ早に出てきますが、矢継ぎ早に出てくることそれ自体の作品内における必然性、ガジェット相互の関係性、ともに見られません。矢継ぎ早にガジェットを繰り出すことは読み手の読書スピードをコントロールすることにつながるでしょうが、残念ながら本作のリズムが心地よいものとは言えません。

 また結部における外部コンテキストへの接続を要求するも、読み手に知りたいと思わせるような布石や伏線が仕込まれていたとはいえません。と、ここまで書いてみて実はわたしがわかんないだけで筆者とコンテキストを共有している人間からしてみれば面白いものなのかもしれない。

 とりあえずわかんなかったガジェット--

葱とシーチキン
ヒヨコのセル・フォン
不動産鑑定評価基準
浣腸キット

--それ以外はわかったのかと云われるとまったくそんなことはなくて、特に作品を読む中でつながりを拒絶するようなものを書き出して見ました。本作に使用される語彙や書きたい内容をもっと絞ったら、もしかしたらわたしにも読めるかもしれないと思いました。現状、とっちらかってるなぁ、という感想がもっとも大きくなってしまいました。


ありがとうございました。



+++++



石川順一「自明の私」(poenique「詩会」)
(http://poenique.jp/cgi-bin/5sdf7e3sfd5s/cbbs.cgi?mode=all&namber=1742&type=0&space=0&no=)


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Posted on 16:54:03 «Edit»
2010
07/18
Sun
Category:【漏洩】

ma-ya「梅雨前線」(poenique「詩会」コメント) 

■1752 / 1階層)  第一レス

□投稿者/ case -(2010/04/09(Fri) 14:20:29)



 インフィニティで区切ってんのが聯の切れ目? 計七聯。最終聯のみ改行とインデ
ントあり。強調及びクライマックスのカタルシスを意図?

 ストレートで王道的な詩風、正直自分が的確な読者ではないと思う、のは抒情が苦
手ってのもあるんだけどそれでも、読める。酔える。

 さて梅雨前線。梅雨前線といったら停滞前線ですよね。手痛いではないです。停滞
前線かわいい。まるとさんかくのうねうねがかわいい。


+++


・一聯

 「泡のない」「ぬるい」「麦酒」は時間の経過を表すけれど、これは母が戻らなく
なってからの時間の経過なのか、母が「麦酒」を「のこし」た時点までの時間の経過
なのかどっちかしらん。つまり、「麦酒」は泡もあり冷えていた段階で母はいなくな
り、泡もなくなってぬるくなった今も戻らないのか。それとも、泡もなくなってぬく
なった段階で初めて母は「麦酒」を「のこし」たのか。素直に読めば後者。であれば
こその「戻らなかった」。

 「のこされた」のは「麦酒」と「私」、したがって「母」にとってみればどちらも
共につれて歩くに足らないものという点で「麦酒」と「私」は等価である。ましてや
「母はもう戻らなかった」。未練はないのだ。

 「片付けられた」のは「柱にぶらさがった縄」と「吐き出されたもの」、「知らな
いだれか」は等しくこれらを片付けつつも「麦酒」と「私」だけは「のこされた」。
ここからも「麦酒」と「私」は等価に見える。

 (縄と吐瀉物から縊死を想像するのはありやなしや。「母は戻らなかった」。現場
の証拠は等しくその専門家たちが回収し調査するだろうが、大部分の市民にとって彼
らは肩書きであり個人のレベルでは「知らないだれか」に過ぎない。)

 (ここで、「泡のない麦酒」と「ぬるい麦酒」を別物と見る。母は自死の直前まで
にビールを飲み干すことはなかった、残された「私」はビールを飲み干すことはなか
った(/あるいは、ビールを冷やすようなことができなかった?(生活できなくなっ
た?=日常の喪失)))

 (「残された」でも「遺された」でもなく「のこされた」である点に注意。書き手
は読者に漢字の代入を誘っている。)

 「滑りのわるい桟」は内/外の出入口をシームレスにしない。「のこされた」「麦
酒」と「私」をなぜるように「涼やかな風」は登場する。「風」は「母」の代替とし
て「私」の許へ来たのか。時間の経過だけを暦は知らせる。


・二聯

 「窓辺のテーブル」、内/外の出入口付近にある内部の素材は部屋の中に「のこさ
れた」「私」の対外的バリアとなる。「砂」は「風」の運んできたものだろうか。風
と砂、ともに流体的なものであるが気体と固体の違いはある。砂に触れれば「跡」が、
触れた指には「粒」が、それぞれのこされる。

 「飛行機が薄暮を飛んでいくように」の直喩は、窓外の風景をイメージさせると共
に「はてしない心もち」に接続して心象風景に変えてみせる。うまい。「薄暮」は一
聯の「西日」が効いているため単なる直喩に堕していない。きちんと具体的な召喚物
としても生きている。

 指の擦りあわせと瞼を閉じる動作も単なるアナロジーではなく、その前の「指のは
ら」「粒」が効いている。「瞼をとじ」ることに対する不可避であるがゆえの忌避感
みたいなものを見て取れる(なんだそれ)。


・三聯、四聯

 瞼を閉じる=夢、と異界への手続きを踏んで召喚されるのは「海底に暮らして」い
る「祖母」。「珊瑚でできたベランダ」「おわらない洗濯物」「観覧車」を矢継ぎ早
に繰り出すも置いていかれるほどの違和感はない。不思議と受け取れる。不思議を受
け取れる。

 「観覧車」の召喚は海底の広さと明度を示す。近・中距離から遠距離への視点の移
動がシームレスに行われている。

 「日のひかり」の海面から海底へ垂直方向・下に対して「祖母のちいさな呼吸」「
ひしゃげた泡」は垂直方向・上の運動である。さりげない対比表現だがここでもう一
度「泡」を召喚することで一聯の「麦酒」を想起させている。そして四聯「海面はお
だやか」である。果たして「祖母のちいさな呼吸」の「ひしゃげた泡」は確認できる
のだろうか。それとも泡立ち波立ちしない凪いだ海の表面は、炭酸の切れたぬるいビ
ールに似ているのだろうか。


・五聯

 では。四聯を一行で成立させていたためこれを転調の合図とみなそう。そーなると
五聯は回想を引き合いに出した「私」の独言。これまでの流れとぶった切って読むの
もアレだが、「紙風船」が唐突過ぎてよおわからん。球体から「泡→紙風船」のイメ
ージのスライド?まさか!

 あとは、「放ってくれたら」がわからない。「のこす」の言い換え、あるいは「の
こされた」「私」の捉え直し、だろうか。むーん。

 この聯は単なるモノローグだとしても、モノローグなりの魅力(独我論的な?)に
乏しいと感じた。


・六聯

 異界からの帰還、「瞼をあける」とそこには「鬼ごっこをする子供たち」。(五聯
の違和感は三聯から展開さるる異界に無理やり回想を捻じ込んだ結果だろうか?)

 「砂」「粒」から「子供たち」へイメージをスライドさせて読むのは出来なくはな
いと思う。ガラス質の砂粒ってのもよくあるし、あたしはそれを(/それも)イメー
ジしていたし。風に舞う砂のイメージ、ゴンドラの硝子窓に挿す日の光、これらを「
紙風船」のノスタルジックな単語から強引に「鬼ごっこをする子供たち」へつなげて
いるのだろうか。だとしたら「砂」それ自体に石英等の描写を加える必要と、本聯で
もう一度「風」を召喚しておく必要があるように思います。(や、どーなんでしょー。
かなりうがった読みではあると自覚しているのですけれどね。なんというか、転調し
てから語の配列への注意力が散漫になっている印象いんしょう)


・七聯

 最終聯。内/外のイメージで言うと――


  部屋の中(一聯)
  ↓
  窓辺(外→内:砂)(二聯)
  ↓
  異界・夢/海底(三聯)
  ↓
  同前/海面(四聯)
  ↓
  同前/回想(五聯)
  ↓
  窓辺(内→外:視線、子供たち)(六聯)
  ↓
  庭(七聯)


――こんな感じ?

 そいで、母の喪失から自身内部に沈潜して浮上して外部へ復帰、といった成長譚が
基本骨子と言えよう。

 そうなると当然問題となるのは如何に書いているかということとなる。四聯までの
シームレスなつながり、五聯での破綻、六聯での挽回。そして七聯。

 成長、つまり「私」は外へ庭へ出るわけだが「かえる」は雨を呼び、「私」は「あ
じさい」から「雨の、匂い」を呼び出す。「まばらに手の鳴る音」と比喩されるのは
雨音であり、ここに喝采の色彩が潜められている。何に対しての喝采か。

 「陸という陸は海に隠され」てしまった。「海」は本作では異界である。内奥の異
界を外部に召喚する。ってーとアレだね、ポニョだポニョ。ポーニョポーニョポニョ
はんぎょじん♪ 『ポニョ』が正しく異界への手続きを踏み、かつ異界への移動では
なく異界そのものを移動させたにも関わらずストーリーを完全に払拭した形で作品と
して成立しているのは驚くべきことだハヤオカッコイイ!

 ただ、本作では「海」が「私」の内部にあったものなのでその反転と見るのがベタ
アかしらん。そうなると、ビルドゥング物と思っていた本作はアンチ・ビルドゥング
と読めまいか。いや、どーだろー。

 ちなみに反転というのは最終行「花びらはしずかに、頭上を流れた」より。この行
の視点の移動は下→上のものであり「花びら」は海面に浮かんでいたものだろう。し
たがって「私」は海底にいることとなる。(祖母化?


+++


 不在の「母」を介した「私」と「祖母」のつながり。本作の書き手は視点の移動と
心理描写が合致したときに大きな魅力を持つ、と思うんだあたしは。んで、五聯や最
終聯ではそれがないように思う。四聯をはさんだ前後がもっとシムレスにつながった
らいーなーと思います。












第一レスおしまい。



+++++



■1764 / 1階層)  3点

□投稿者/ case -(2010/04/23(Fri) 15:22:48)

2010/04/23(Fri) 21:03:27 編集(投稿者)
2010/04/23(Fri) 19:32:24 編集(投稿者)

 うまい。特に前半が。好みでもある。だからこその後半の語の配列が鼻についてしまう。

 今回、倉庫さんとの読みの相違が大きく異なっているのに驚いた。倉庫さんは「私/祖母」より「不在の母」を「紙風船」(回想)から読み取るものとしています。対してわたしは「私/(母)/祖母」と「母の不在」そのものが「私」と「祖母」を介在しているように捉えています。

 祖母-母-娘、のつながりから、親類縁者という(つながりを)イメージをしたのが倉庫さん。女性の系譜--伊藤比呂美的な--をイメージしたのがわたし、とも言えるかしらん。

 興味深いのが、倉庫さんもわたしも「私」を最終聯において死んだものと見ているところ。献花や、祖母の同じ場所(海底)にいることから。

 「まばらに手の鳴る音」を雨音から喝采のイメージにスライド、一段落とした行(「雨の、匂いが」)が転調のサインとなっている点もうまい。

 惜しむらくは「紙風船」「鬼ごっこ」(回想=ノスタルジのイメージとしての強度の弱さ)、「かえる」「あじざい」(雨天に対する安易なガジェットの選択及び色彩に対する配慮不足)の四つの単語が後半に登場するも、前半との関連や変遷を見受けられないところかな。



ありがとうございました。



+++++



ma-ya「梅雨前線」(poenique「詩会」)
(http://poenique.jp/cgi-bin/5sdf7e3sfd5s/cbbs.cgi?mode=all&namber=1739&type=0&space=0&no=)
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Posted on 16:50:33 «Edit»
2010
07/18
Sun
■1751 / 1階層)  第一レス

□投稿者/ case -(2010/04/09(Fri) 11:56:16)


 とりあえずタイトルをググって見ましたが、犬用のレインコートは「outward
hound」でした、うっかり、そうか「往路の;外国行きの」(引用、YAHOO!JAPAN辞書)
という意味なのか。勉強になった。

 全8聯、聯間は改行2行で引用された英文のみ改行3行に挟まれている構成。した
がって改行と、英文という表記の違いから第4聯を転調と捉えて作品を前半・後半に
区別してみる。聯、と言ったけど、この書き手の多用する散文のブロックを便宜上聯
と呼ぶよ。

 日本語の聯は句読点の有無から2種類に区別できる。第1,3,6,8聯(以下、
Aグループ)が句読点のない聯で、比較的ひらがなの割合が多目ね。第2,4,7聯
(以下、Bグループ)は句読点があり漢字も多いしカタカナも数字もアルファベも自
然と使われている。

 (アルファベの使用では第7,8聯の「Afro Blue」に違いを大きく見ることが出
来そうかしらん、たとえばBグループでは「ジャズ」を軸に展開しカタカナ語の頻出、
アルファベは「iTunes」・「Em」・「Afro Blue」の音楽=ジャズに関係ある語を召
喚するのに使用している、それに対してAグループでは作品全体の最終聯でもある
「みみをきる~」の聯まで「ジャズ」を軸としておらずカタカナ語も用いられないま
ま唐突にアルファベの「Afro Blue」が記されている。)

 と、ゆーふーに、Aグループを「かささぎ」、Bグループを「ジャズ」とゆーふー
に読んでみたのですが、いかんせん「ジャズ」が守備範囲外過ぎますので詳しくはわ
かりません! ですんで、表記の違いに注目してそれぞれ読んでみるよ。


+++


●Aグループ

・一聯

 「かささぎをきいたか」とあるけど「かささぎ」は聴くものっていうか鳴き声のイ
メージがあまりない。あ嘘。カチカチカチ勝ち勝ち。カチガラス。しかし泥棒。かさ
さぎを泥棒の象徴として読むのは欧米だっけか? いまwikipediaって見たら日本の
かささぎが「七夕伝説」と関わりがあるとのこと。


  鵲の 渡せる橋に おく霜の しろきを見れば 夜ぞ更けにける(引用、wiki「カササギ」)


 カササギのーわたせるはしにーおくしものー、しろきをみればーよぞふけにけるー。
家持っちゃんの歌として『新古今』にある(引用同前)らしい。

 ちなみに「七夕伝説」におけるカササギの役割は天の川に橋を架けること。こなた
とかなたに引き裂かれた織姫と彦星が「手をつないで」共に「橋を渡」ることはイメ
ージしづらい。とゆーことは七夕伝説ではない?

 「釈迦堂」への「あめだま」を「落っこと」す動作が「祈り」として示されるけれ
ど、倒置法としての「かささぎの」「祈り」のことだろうか。「手をつな」ぐことが
架橋そのものを示すメタファーとしたら・・・。

・三聯

 本聯では漢字が「赤光」と「落っこちる」のみ。表意文字はイメージを喚起して、
「落っこちた」「あめだま」は「赤」い。

 「あめだま」を「落っことした」のは誰? 「もうひとりいる」、another、橋の
上には2人いるのだろうか。「祈り」は2人のもの。天の川を渡らなければいけない。
つまり、日没を待たなければ会えない。「赤」く「光」る「あめだま」のような「落」
日。

・六聯

 さて。「かささぎ」を「つかまえ」るのは誰? 「祈りのこえ」は「にどときこえ
ない」が「とてもよく みえる」。落日。一日の終わり、日毎告げられる太陽の断末
魔。あるいは産声。落としたはずの「あめだま」が曙となって逢瀬の終わりを告げる
のか。「かささぎ」を「つかまえ」るには? 渡された橋は橋の役目を果たせず、な
ぜなら渡る天の川は夜闇にしかあらわれない。

 「その眼を」「にどと」「ひらかないで」

 開眼が変化を告げるなら、閉じられた瞼、瞬きは明/暗を、昼/夜を分かつ。あー、
なんか言葉が堅苦しくなってきたー。いやだー。「眼」が開かれなければ、夜が明け
なければ・・・。とゆー願いは一年に一度夜の間だけしか会うことの出来ない2人に
とって切実なものであり、それは「祈り」へと昇華されるのではないかしらん。

・八聯

 「みみをきる」、切られた耳は「落ちてくるかささぎ」の持つ落下のイメージをま
とい、「祈りのこえ」がきこえない不要なものは切り捨てるというおうか、橋を架け
られない鳥は不要なものだといおうか。夜から昼へ。世界は反転する。したがって―



  アフロ青(引用、エキサイト翻訳)


 ――「あめだま」の色は?



●Bグループ

・二聯

 「ジャズの分類がよく分からない」といおうかあたしはジャズがわかんない。「分
類」と「分からない」と「分」の字を重ねているのに意味はあるのかしらん。

 分かることは分かつこと、というのは中学校の一年生のときの国語の先生が言って
た。その先生は椎名林檎の担任だったらしい。林檎さんでは「迷彩」が好きだ。そう
いえば笙野頼子『幽界森娘異聞』で森茉莉の引用が多くてその中にソレっぽいのがあ
った気がするけど森茉莉を読んだことはないから詳しいことは分からないし椎名林檎
の読書傾向とかも知らない。知ってる人おしえてプリーズ。

 「分類」つまり「分かつこと」そのものが「分からない」わけだ。「分かつ」、た
とえば男女の間にでっかい河川を敷いてみるとか?

・四聯

 「ジャズ」から死者のイメージ、ってかジャズに限らず作品を残すことは作者の死
を作者が死なれんことをあらわしているように思うのさ。「森娘」は『幽界~』の中
で紛れもなく死なれん死者として作品中から笙野頼子によって召喚されていたように
思う。たとえば作品だったりしたらその構成要素としての音や活字が召喚のプロセス
となる。

 かなたとこなたの橋渡しとしての作品。「赤い欄干」はペンキの赤か/夕日の赤か。
一聯の「釈迦堂」は「無数の袈裟」として響いてくる。かなた=死。したがって「な
にも届かない距離」とは本来接続不可能なもの、でっかい河川の両岸、そんなもので
あって、そこから渡される「大きく冷たい祈り」って一体。

・五聯

  “あんたが音楽を聴いてるとき、そいつは空中に消えてっちまった。それは何か
が終った後のことで。あんたはもう二度とそいつを手に入れられやしない”(case訳)

  “それが終わった後に、あなたが音楽を聴くとき、それは、空気に入りました。

あなたは二度とそれを捕らえることができません。”(引用、エキサイト翻訳)

 これが「祈り」? わかんねー。空中に消えてっちゃって、二度と捕まえられない
のってのは何だ。召喚された何かか?

 ちなみに。本聯を転調と捉えて次聯を見ると、冒頭「つかまえて かささぎを に
どときこえない 祈りのこえを」となっている。You can nevr capture it again.バ
ップリーゲティフォミ。

・七聯

 「アドリブ/技巧」=「霊感/技巧」と読み替え、「ビバップ」の「約束事の埒外」
にいる「僕」は同じ即興演奏という意味の言葉であっても「インプロヴィゼーション」
に「お決まりの悪さを」覚える。なぜか。

 「とっくに死んだ人が生きてるみたいにやってる」のが「ジャズ」であり、その場
限りの即興演奏を何度も聴けるようにしたのが録音・複製の技術であった。ジャズ=
アドリブ=ビバップ。そこには死なれん作者すら存在しない薄ら寒い空気がある!
ようなメタファに見える。(や、だってジャズわかんらんけんさ)。作品が偶発的に
生成され消えていく瞬間。そこにはただ作品だけがあるような・・・。

 まぁでも「僕」は、「彼」、と三人称代名詞で呼びかけているわけで。それは生/
死を両岸とする作品というでっかい河川を介した逢瀬なわけで。それは視覚や聴覚を
超えて味覚として認知され一体化していく。あめだまのように「祈り」は口中で溶け
て。


+++


 アウトワードバウンズ。こなたからかなたへ。無理やり読み込んでみたけど、正直
しんどい。ま、ジャズが門外だからね。この書き手の過去作を頭の中で参照して読み
方を構築した感じ。A/Bの二つのラインを交互に繰り出して最終的に統合するのは、
この書き手の得意とするパターンであり、本作はそれに「ジャズ」という別コンテキ
ストから他者の声を引用しポリフォニックに仕上げてある点でこれまでのパターンを
用いつつもチューンナップされたものといえるかしらん。




第一レスおしまい。  



+++++



■1763 / 1階層)  3点

□投稿者/ case -(2010/04/23(Fri) 14:44:58)


 実は本作を読んでなんかデジャヴュを覚えていたんだけど、一条さんの「RJ45、鈴木、」と構造が似てるなぁと。七夕だし。洋楽の挿入もあるし。A/Bパートの混交だし。なにより、「歌声には生きてるも死んでるも関係ない」。

 「RJ45、鈴木、」では視点者の入れ替えなんで、本作よりA/Bパートが近しい部分がある(いや、でも、あれはれで「変な文章」なわけで)。でも、それを差し引いても本作の混交が最終聯の「Afro Blue」や「あめだま/飴玉」、ほかには「祈り」や「釈迦堂→袈裟」では弱い、ような気がする。(もちろん混交それ自体の是非はあるでしょうが、一作品として提出されればそこに全体の調和(あるいは不調和)を見出したくなるものです)

 これは個人的な好みの問題のですが、「かささぎ」パートで用いられている①句読点の排除、②ひらがなの多様、は失敗だと思う。

 ①から。リズムが良ろしくない。空白よりも改行して視覚的にリズムや意味/無意味・象徴・観念なんかをぶつけて欲しい。視線の単純な横滑りでは「ジャズ」パートとバランスが悪いような気がします。別の手で拮抗させる、とか。

 ②より。表記については、ひらがなに「開く」意図が不明。五感の機能に依っているのか(「眼」(視覚)/「みみ」(聴覚))かと思ったのですが、「手/て」「指/ゆび」(触覚)には揺れが見られる。うーん、なんか厭。笑

 ただ、「ジャズ」パートの文体は筆者の真骨頂と言おうか。スタイリッシュです。ジャズわかんなくても読める。筒井康隆の扱う「ジャズ」とはまた違う手触りは、リスナー/プレイヤーの違いでしょうか。



ありがとうございました。



+++++



宮下倉庫「Outward Bound」(poenique「詩会」)
(http://poenique.jp/cgi-bin/5sdf7e3sfd5s/cbbs.cgi?mode=all&namber=1738&type=0&space=0&no=)



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Posted on 00:30:00 «Edit»
「柩」をめぐる冒険――斉藤倫『さよなら、柩』「バビロン」小考


     夏よ来い!
     夏よ来い!

     だって
     オレはもう
     おまえを

     知っているから!
             (斉藤倫「(木詰緑平の 夏が はじまる)」『オルペウス オルペウス』)




***


バビロン


ヘイ ヘイ
いんちきバビロン
はりぼてじゃないか
あんちょこじゃないか
ぼくはまた
いまだかつてないクイズ番組が
スタートしたかと
わくわくしちゃったじゃないか

ヘイ ヘイ
いんちきバビロン
よく見たら
フアフアのファーが
いたるとこに貼ってあるじゃないか
おしゃれじゃないか
ぼくはまた
オープンカーで走ったら
女の子が降ってくる国かと
コウフンしちゃったじゃないか

ヘイ ヘイ
いんちきバビロン
花嫁かとおもったら
部長じゃないか
どこまでが股上かわからないじゃないか

夢かとおもったじゃないか
幸せかとおもったじゃないか

ヘイ ヘイ
ばらを咥えたまま
近所に買い物なんて本当にいんちき
でもここに
たどりつくまで
ずいぶん遠回りしちゃったなあ




***


 バベル。バビロン。バビロニア。語形変化で、お口あそび。神の門?世界の中心?んなこたぁどーでもいい?

 だいじなのは「バビロン」、そいつは「いんちきバビロン」って呼ばれてる?


はりぼてじゃないか
あんちょこじゃないか
わくわくしちゃったじゃないか
フアフアのファーが/いたるとこに貼ってあるじゃないか
おしゃれじゃないか
コウフンしちゃったじゃないか
花嫁かとおもったら/部長じゃないか
どこまでが股上かわからないじゃないか
夢かとおもったじゃないか
幸せかとおもったじゃないか



 「~じゃないか」が連発されるけど、巧妙に使われ方がずらされてる。たとえば、わたしは3つに分けてみる。

①事実の指摘
 「はりぼて」「あんちょこ」「貼ってある」「おしゃれ」「部長」「わからない」。これらは、作品内主体(=本作の語り手)である「ぼく」により事実として指摘され、「~じゃないか」と強調されている。ただ、語り手が“誰に”向けて語っているかは不明(「バビロン」に?)。

②感情の否定
 「わくわくしちゃった」「コウフンしちゃった」。これらは「バビロン」の「いんちき」に気付くまえの語り手の心理と考えることができる。「~しちゃった」と過去形で語られるのは、既に語り手がそのような心理状態でないことを示している。そして、「~しちゃったじゃないか」という形で、「いんちき」から心を乱されたことに対する羞恥や怒りを感じる。

③現実の直面
 「夢かとおもったじゃないか」「幸せかとおもったじゃないか」。恐らく本作は、この2行を如何に響かせるか、という点においてそうとう腐心された作品とわたしは考える。「夢/幸せ」の組み合わせは「現実/不幸」と対照的なイメージを喚起させる。これに近い組み合わせでは「花嫁/部長」が挙げられよう。(当然、「花嫁」は直前に出てくる(空から)降ってくる「女の子」(シータ!?/バルス?)からイメージが横滑りされたものだ。)
 これらの発言の段階では「夢/幸せ」と「おもっ」ていない点で②に分けることも可能だが、②の「わくわく/コウフン」が「おもった」を介していない点で、これらは感情を直接表出(してそれを否定)している。対して「夢/幸せ」では、そう「おもっ」ている自身を客観視している眼差しを感じる。じるじる。



「いまだかつてないクイズ番組」ってのがTV番組的な何かを想起させて、そうではないことがつまり「いんちきバビロン」と言われるゆえんである。

 ちょっと待って。というと、「いまだかつてないクイズ番組」は「いんちき」ではない「バビロン」ってこと?このあたりが、本作の捩じれたつくりであるような気がするのです。

 どゆことか?

 1聯では、「はりぼて」「あんちょこ」と事実確認をした上で「いまだかつてないクイズ番組」だと思ったように読める。したがって、「わくわくしちゃ」うような「クイズ番組」は「はりぼて」で「あんちょこ」の用意されたものとゆーことなのです。ん?

 ふつー(ってのがなんなのかわかんないけど)に考えてみると、「はりぼて」や「あんちょこ」が使われているから「いんちき」と感じるだろう。と思ふ。やけどここでは、「はりぼて」や「あんちょこ」が使われているからこそ「いまだかつてないクイズ番組」だと思った、とある。そして「わくわくしちゃったじゃないか」と「クイズ番組」(だと思った何か)に対して抱いた感情を否定している。えーっと、つまり、「はりぼて」や「あんちょこ」が使われていないことが「いんちき」だってこと?あれ?

 ちょっと整理。そして上の文は消さない消さない。

 「ヘイ ヘイ/いんちきバビロン」は、誰か(「バビロン」)に語りかけているよにみえる。んで、「はりぼてじゃないか/あんちょこじゃないか」と事実を確認する。で、この確認をする前に(あ、前だ)「いまだかつてないクイズ番組」とおもっちゃって「わくわくしちゃった」、と。うんOK。りんさんの詩は迷子になるなー。つまり、「いまだかつてないクイズ番組」は「スタート」していない。したがって、「いんちき」でない「バビロン」もまた、この段階では、ない。

 うーんでも、なんとなく逆――「いまだかつてないクイズ番組」こそが「いんちきバビロン」――でも読める気がするんよねー。うーん。なんだろう。もやもやする。うーん。

 「はりぼて」や「あんちょこ」が確認できるにもかかわらず、「クイズ番組」が「スタート」しなかったことこそが、「いんちき」?



 とゆーのも、「フアフアのファー」(この表現すき。かわいい。「ぴかぴかのシュー」(『手をふる 手をふる』)みたい。)が「いたるとこに貼ってある」、つまり「おしゃれ」であるにもかかわらず、「オープンカーで走ったら/女の子が降ってくる国」ではない、とゆーのが2聯なわけで。

 ここでも「コウフン」は否定されている。(ところで、「わくわく」はひらがななのに「コウフン」はなんでカタカナなんだろうね。あるいは、オノマトペで統一させていないのはなんでだろう。たとえば、「どきどきしちゃったじゃないか」でもいいわけで、むしろこっちほうが「わくわくしちゃったじゃないか」との対句効果は高いはず。とゆーことは、なんかしら意図があるんだろうけど。かといって漢字の代入(興奮/口吻)はなんかなぁー、と思ふし。むーん。視覚的には「フアフアのファー」で重ねられている「フ」が反復されている、ってのを指摘できると思うんだけど、あんまおもんない。へるぷみー。)

 まあいいや。


 ぴかぴかのシュー
 ぼろぼろのシュー
 ぴかぼろのシュー

 でも二つなら
 いいシューズ
 (「ぴかぴかのシュー」4・5聯『手をふる 手をふる』)



 
 統一されていなくても、二つなら、いい二つ。(いや、なんとなくじゃなくてね、表記的な統一でなくても、構造的な統一があれば対句的に機能するってことなんかな。『手をふる 手をふる』や『オルペウス オルペウス』、本作だったら「ヘイ ヘイ」みたいな同語反復をりんさんはよく使うけど、これらは一回性の強調だと思うんだ。たとえば、「手をふる」であればふられた「手」は一回ごとに異なる「手」になってしまう、「オルペウス」だったらよみがえるごとに異なる「オルペウス」になってしまう、みたいな。まったく同じ(表記)であるからこそ、異なってしまう、みたいな。「ヘイ ヘイ」だって、語りかける/語りかけられる誰かは、その一回一回の発話ごとに異なってしまう、「ぴかぴか」だって(あ、「ぴかぴか」は中途に空白がないから用いられ方が違うか、でもでも、)一回ごとに違う光が輝いている!みたいな?)

 ほい、では、同語反復と表記的な統一って似たような言い方で申し訳ないんだが、前者が同一表記(「ヘイ ヘイ」)で、後者が同一属性(「わくわく」「どきどき」=ひらがな・オノマトペ)ってことで。んで、「わくわく」「コウフン」は、なぜ同一属性ではないかってお話でした。(またもや「迷子!」(猫町))

 ちなみに作品「ぴかぴかのシュー」では「ごらん/夕日を見ていると/きのうの朝日が/さしている」と「夕日」と「きのうの朝日」が同一視されています。つまり、同一属性の反復では対照的なものが反転して一致してしまうことになる(「ぴかぼろのシュー」!)。

 とゆーことは? 

「コウフン」が「どきどき」ではいけないのは、反転して一致してしまうことを避けるため、と考えられんかね?(誰だよ

 漢字表記ではないのは字数をあわせるため(全体の視覚的バランス)、カタカナ表記なのは属性を統一させないため(反転して一致することの回避)と考えてみましょう。すると、次に疑問となるのが、なぜ反転して一致することを避けなければならないのか。

 1聯の「いまだかつてないクイズ番組が/スタートした(こと)」に対応するのは、2聯では「オープンカーで走ったら/女の子が降ってくる国」となります。否定される感情が一致してはいけないのだとしたら、「はりぼて」「あんちょこ」であるにも関わらず「クイズ番組が/スタート」しないことに対する感情の否定、というわたしの読みは誤り、という風にいえます。したがって、1聯の読みの揺れが(つか、ふつー揺れない)ここで静止します。

 整理しましょう。1聯では、「はりぼて」「あんちょこ」を確認してしまったことで、「いまだかつてないクイズ番組が/スタート」しないことを察してしまい「わくわくしちゃったじゃないか」と一瞬まえの感情を否定します。それに対して、2聯では「フアフアのファー」がいたるところに貼り付けられていることから「おしゃれ」であることを確認し、「女の子の降ってくる国」を期待したにもかかわらず「コウフンしちゃったじゃないか」と一瞬まえの感情を否定します(「女の子」は降ってこなかった?)。つまり、感情を否定するに至る筋道が1聯と2聯で異なっているわけなのです。なのです。



 「花嫁かとおもったら/部長じゃないか」。1聯みたいに何かを確認してしまう、ということも、2聯みたいに期待できる何かがあるにもかかわらず、ということもない3聯。4聯の転調にそなえた助走のような位置づけなのかな。なぜ花嫁を部長だと気付いたのかも(「クイズ番組」が「いんちき」であることは「はりぼて」「あんちょこ」で気付かれた)、なぜ部長を花嫁とおもったのかも(「女の子の降ってくる国」と思ったのは「フアフアのファー」が「おしゃれ」だったから)、明らかにされない。

 ところで、この「部長」の性別は? なんとなく、小太りでヨレヨレのスーツを着たおっさん、をイメージしてしまったのだが、ステロタイプはなはだしいな。

「部長」の性別は明示されていない。「女の子」や「花嫁」に期待をかけている様子から、そのコントラストとしての「部長」に男性的なイメージを仮託しやすいつくりになっとるのやろう。

 でもでも、女性でもいいわけだよね?そうなると、厭な上司なのか憧れの上司なのかでもニュアンスは変わるよね?(「部長」という呼称から、語り手は部下だと判断。)すると「部長」パターンが3つに分けてもよね?

 ①男性
 ②厭な上司としての女性
 ③憧れの上司としての女性

ヘイ ヘイ!

 ①は、まぁいいや。コントラストでガッカリ感を出しているんだよ。②も同じようになるかな。ただし②では「花嫁」の(たとえば、ウェディング・ドレスを着ているような)イメージから、ガッカリ感つか恐怖もあるかも。(後姿を見て花嫁かと思って声を掛けたら厭な上司だった、ってシチュエーションなら、部長の性別関係なくどっちもイヤだな。男性だった場合は厭な上司でなくてもイヤだ。)

で、③。これってかなりドキがムネムネしちゃう的な状況? あ、でも、そしたら「いんちき」ではなくなってしまうのか。しまうのか?

 たださ、「どこまでが股上かわからないじゃないか」ってどういうことだろう。まったくわかんない。「部長」の履いていたズボンが異常に大きかったってことなんだろうか。あるいは、勘違いしていたとは言え「花嫁」を受け容れる準備を「ぼく」がしていた場合、「ぼく」の履くズボンの「股上」の可能性も考えられる(のだろうか?)どちらにしろ、変な格好をしている、ということだ。つまり、自分の思ったとおりに行かない・思ったことを否定してしまう/されてしまう、(=いんちき)、ということだや。



 先述したように、「夢かとおもったじゃないか/幸せかとおもったじゃないか」が、本作の核であるようにおもう。んで、りんさんの作品で「夢」や「幸せ」ってどんな文脈で出てくるか調べてみたよ。



自分の果たせなかった夢の
安っぽい映像を
まわりのみなが鑑賞している
(「耳の後ろをまもれ」『手をふる 手をふる』)

わたしは主人公
幸せが堰を切って
まろび出てくる
(「ワトソンフォビア」『手をふる 手をふる』)

夢で何度もわたしを殺した
あの人にすべてを差し上げたい
夢で契約した
物件をすべて譲渡したい
夢の世界には弁護士はいないと
フロイト博士も書いています
(「都会育ち」『手をふる 手をふる』)

もう逃れる方法が
夢オチしかないなんて
(「サンラータン」『手をふる 手をふる』)

ペンギンは
わたしたちの心のなかに
立っているだけでなく
それぞれのペンギンたちの見る
夢のなかにも
立っているのだ
(「ペンギン」『手をふる 手をふる』)

「ビールの中にいるみたい
 あの時のあの瞬間みたいだ
 すべてが夢みたいだ」
(「ソフホーズ」『手をふる 手をふる』)

指折り数えた夢のほうも
そろばんずくで無駄になって
犬のものがまじっているというのだ
(「ひとだま」『手をふる 手をふる』)

あとの二店は
深夜営業で
ゆめをみて
まいります
(「村西」『手をふる 手をふる』)

夢のようで
現実のようで
ただあんなに大きな
絶望がほしい
(「(授業中 木詰緑平は 夢をみた)」『オルペウス オルペウス』)

「わたしの夢の中で
 停電して
 あなたが手をとってくれて
 あなたの声がして
 もう大丈夫だとおもった
 ずっとあなたといるんだとおもった」
(「(木詰緑平は かえりみちを辿る)」『オルペウス オルペウス』)

私は追った
夢の中のようにもっさりと
空間が重く
手足が動かないとおもえた
(「(レチタティーヴォ)」『オルペウス オルペウス』)

そこでは夢の腰を
さすることが 罪であり
救済は
かかとを合わせるように
ことばじりを合わせるのだ
(「のっぴきならない塾のうた」「(ソング1、2、3、4)」『さよなら、柩』)

・タイトルのみ
「有名で逢いましょう」(『手をふる 手をふる』)
「(増岡洽子が 木詰緑平と別れたあとの午睡でみた夢)」(『オルペウス オルペウス』)
「夢に盲いて」(『オルペウス オルペウス』)





た、たくさんあったぜ・・・。

 さて、思いのほか「夢」と「幸せ」の使用率に差が出ました。上記引用では「幸せ」は「ワトソンフォビア」のみ、かな。それ以外はすべて「夢」を使用した作品からの一部引用です。

 んで、用いられている「夢」を、すっごくかんたんに〈現実とは異なる位相における憧憬や理想または逃避の対象〉とまとめてしまいたいと思います。(つまり対象化しうるということから「夢」は外在的である。反対に「幸せ」は、一作からの判断ではあるが、内在的印象を受ける。)したがって、「いんちきバビロン」は(「ぼく」の語りの対象のようにも見えることから)「夢」のことではないのか、と。

 ここまできて、「いんちきバビロン」=「いまだかつてないクイズ番組」=「女の子が降ってくる国」=「夢かとおもったじゃないか/幸せかとおもったじゃないか」=「(夢じゃなかった/幸せじゃなかった)」(夢/幸せの否定)=「現実/不幸せ」と、イコールでつなげちゃってもいいような気がする。ごーいんだけども。



 さて、ちょいと視点をあげてみましょうか。これまで一語一句一行一聯という単位で見てきました。では、本作それ自体や、本作を含む詩集について見てみませふ。

 まず本作。タイトルは「バビロン」ですが、語られているのは「いんちきバビロン」。ここに何かしらの捩じれを感じます。原義に従い「神の門」や「世界の中心」というものを当ててみても、あるいは「夢」という語の使用例から敷衍して、ユートピアのようなものをイメージしてみても良いでしょうか。しかし、それらは「いんちき」と作中で退けられてしまいます。ここで、「バビロン/いんちきバビロン」という対比が浮かび上がるわけですが、「いんちきバビロン」=「夢」だとすると、「バビロン」とはいったい何を指しているのでしょう?

 次いで詩集。タイトルは『さよなら、柩』。斉藤倫ファンならすぐさまピンと来ますが、タイトルが同語反復ではないことに、なにかしら予感のようなものを感じます。これまでのスタイルからの脱却?のような。(あ、でも、「バビロン」初出を『現代詩手帖』で読んだのって『オウペウス オルペウス』刊行まえだった気が・・・(いや、まてよ、『オルペウス オルペウス』は長年温めていたものだってあとがきにもあるし、時系列的には脱却って解釈でもいいのか。)いいのか?)

 詩集のタイトルで注意したいのが「柩」の表記。これは『手をふる 手をふる』『いぬはなく』『オルペウス オルペウス』『さよなら、柩』のどの作品にも用いられていない表記だ。あえて挙げれば「しまう」(『手をふる 手を ふる』)と「地図」(『さよなら、柩』)で、それぞれ「棺桶」と「棺」という語が使われている。

 「棺」と「柩」。なにが違うん?

 『漢語林』によれば、「棺」は「うちかん。死体をじかにおさめる箱。」とあり、形成文字の音を表す「官」の部分は「かこうの意味。死体をつつみかこう、ひつぎの意味を表す。」とありんす。んでは「柩」はというと、「人の死体をおさめ入れる、木製の箱。棺。」とあり、あれ?同じ意味?ってなもんで形成文字の音も見てみるわけですが、「匛」の部分は「キュウという音を表す音符で、長時間にわたって人の死体をおさめるはこの意味。」とあって、ここではたと気付く。「棺」は「死体」だけど、「柩」は「人の死体」って限定してるやん。

 「棺」も「柩」も死体を入れる箱ってことに違いはない。んじゃ、そもそも箱って?「物を納めておく器。」(『広辞苑』)ってのはわかるんだけど、だいたいの箱って納めた物を取り出すことを前提にしとるよね。お菓子の箱も引越しのダンボールも。舌切り雀やこぶとりじいさんのお櫃も浦島太郎の玉手箱も。パンドラの箱も。(関係ないんだけどさ、あらゆる災いを封じた箱を開いたために不幸が飛び出したんで急いで蓋を閉めたから希望だけが残ったってことはさ、希望もまた「あらゆる災い」のひとつってこと? 閑話休題。)

 「ひつぎ」は納めたものを取り出すことを前提としていない。「ひつぎ」には、ただ、死体が納められるだけだ。

 生きていることが現実だとしたら、死ぬことは現実ではないところへゆくこと。現実ではないところへ連れてゆく「ひつぎ」を「さよなら」と遠ざけることは、現実に留まることを意味している。それが「柩」であれば、人間としての現実に。



 最終聯。「ばらを咥えたまま/近所に買い物」へ行くことが「いんちき」と言われてる。でも、この「いんちき」は今までの「クイズ番組」や「女の子が降ってくる国」に比べて、はるかに現実的といえない?や、厭だよ、そんな人が近所のスーパーマーケットにいたらさ。でも、さ。

 「本当にいんちき」なんだよ?

 「いまだかつてないクイズ番組」「女の子が降ってくる国」が「いんちきバビロン」=「夢」から、「現実/夢」だとして、「バビロン/いんちきバビロン」へとずらしたら、「バビロン」=「現実」ってことになるんだけど、でも、これじゃ足りない。

「いんちき/本当にいんちき」と捉え直すと、「夢/現実的」ってなる。現実的。現実的な何なのだろう。さっきまとめた〈現実とは異なる位相における憧憬や理想または逃避の対象〉ってことを考える。「夢」として「いまだかつてないクイズ番組」「女の子が降ってくる国」「ばらを咥えたまま/近所に買い物」は等価のようであるが、最後だけ〈現実とは異なる位相〉ではない。つまり、「本当にいんちき」である。それはあえて言えば「現実的な夢」とならないだろうか。

(((

 そういえば、夢には二種類あるね。眠りの中でみる夢と、将来の夢。


自分の果たせなかった夢の
安っぽい映像を
まわりのみなが鑑賞している
(「耳の後ろをまもれ」『手をふる 手をふる』)




区別の難しいものが多いのだけれど、どっちかというと、これは後者? そして〈憧憬や理想〉を現実と位相を変えないもの?

)))


 現実的な夢。それが、つまり、「たどりつくまで/ずいぶん遠回りし」てしまった「ここ」のことなのだと思ふ。そして、現実から夢を経て現実的な夢(を将来達成すること)である「ここ」こそが、「バビロン」、なんじゃないかな。(ちょっと突飛だけど、主体である〈私〉を〈いま・ここ〉と捉えると、本作の「ここ」=「バビロン」は「ぼく」のこととも言えそうだわ。)

 つまり、たとえば、増岡洽子と別れた現実から、オルペウスとなってエウリュディケを救いに行く夢――さよなら、柩!――を経て、放置自転車が光り輝く海のように見えてもなお激しく夏を希求する木詰緑平。

 みたいな。





case_ko
tb: (0)    com: (0)
Posted on 00:44:41 «Edit»
2010
05/08
Sat
Category:【漏洩】

Impressionnabilite 

へーい、なんかかっこよさげな感じの名前のコンテンツを未詳さんに作っていただいたよ!

小考のコーナーも置いていただいちゃってるし、なんかこっぱずかしいね!きゃw

そしてググってみたところsensitivityという意味らしい。知らなかったぜ・・・。

ピクルスさんならびに未詳スタッフに多謝。

(さらっと読んでみたのですがけっこう恥ずかしかったです。思った以上に。恥ずかしかったです。)














tb: (0)    com: (2)
 
おつかれさまです、倉庫さん。
ありがとうございます。

言わんとするところはなんとなくわかります。というか、かなり意識されて評してくださっているコメントで、個人的には「んにゃ、あたまなんか、まったくつかっとらんよー」って感じなのですが、んんん、こっぱずかしっすね!

右肩さんにはかなり一方的にですがシンパシーを勝手に感じていまして、bunngoku登場当初から「あ、わたしと似てるかも」みたいな直感や、平川さんによる「詩人じゃなくて職人だね」という認定第二号(一号はわたし?)とか、なんとなく自分の書きたい(というか構築したい?)作品だなぁ、というざっくばらんな印象なのですが。「考えるという生理活動の手段」って言い切れてしまうところなんかに、右肩という書き手への興味がありますね。なんかだいぶエラソウナ文面で右肩さんには恐縮ですけど。お前なんかと似てねぇYo!とか云われそうですね。へへへ。

倉庫さんの作品を読んで「ん?このヒトあたまワルイ?」とか感じたことはまったく無いんですが、「あー、センスあるなぁ」ってため息をつくことはしばしばです。こないだの詩会に出された作品では、かささぎとジャズを接続なんて発想がわたしにはないし。そういう思い切った飛躍、うらやましいっす。
  by case
 
どうも。Impressionnabilite、拝見しました。

若干引っかかる例えかもしれませんが、ドンキホーテを思い出しました。単品だとそそらなくても、集積されると思いがけない発見がある、と言えばいいでしょうか。

「僕自身が何に対して自覚的に「詩」を書いているかというと、考えるという生理活動の手段としてです。」

これは右肩さんのレスの一部ですが、caseさんの作品もこれに近いのかもしれないな、と思うに至ってます。ま、僕は理屈を通して事物を眺めることに不得手なので、要は頭が悪いんですが、余りあてにはなりませんね。
  by ミヤシタ
Posted on 01:07:35 «Edit»
2010
05/05
Wed
Category:【漏洩】

twitter 

を始めてみました。
tb: (0)    com: (0)
Posted on 00:34:39 «Edit»
2010
04/26
Mon
Category:【漏洩】

10-04-26(Mon.) 

 原稿書き上げてとりあえずひと段落。あとはぼちぼち推敲すればokかしらん。



 poenique「詩会」、点数が出揃いましたね。うーん、飛びぬけてハイレベルの作品が無かったように今回は思います。と、他人事のように云っちゃいます。

 「hachizuka」は昨年お声を掛けていただいたアンソロジー詩集『Good Day』(iP Project)への書下ろし「蜂塚」のヴァージョン違いです。「蜂塚」をヴァージョン1とすると「hachizuka」はヴァージョン3ですね。どうでもいいですね。気に入ってるんでもうちょい弄ったりなんなりしてグラチャン用に仕立てようと思います。

 「箱の中」で持てる手札をすべてぶち込み。以後、「開封後」で雰囲気のみで作品を書くことを意識して、今回の「hachizuka」では骨格のみでどこまで自立させられるか、という実験。倉庫さんの「筋書きが面白くない」とかma-yaさんの「構造としてそのまま書かれている」というのは、実際に言われると堪えるけどなるほど、と。石川さんはじめ三人の内容に即したコメントは予想外だっただけに(内容なんてないものとして書いていたんで)興味深かったです。



 昨年の暮れ、一回りくらい年下の女の子に「えー、エヴァも見て無いんですかー。だめですよー。きゃはーw」とかわいく云われたので素直に見る。まあ、エヴァに限らずアニメものを。徒然と。以下覚えているものを順不同に。

『エヴァンゲリヲン:序』
『サマー・ウォーズ』
『ハウルの動く城』
『WALL・E』
『千年女優』
『パプリカ』

 雑食過ぎる。ラスト二つから平沢進にはまりまくりすてぃ。「ロタティオン聴」きながら今日は土手走ってきた。泣き黒子つけて。「夢の島思念公園」も好き。OPアニメーションが素敵。



 質問。批評の力を上げさせるには(注:自分の批評力を上げるのではなく、自分が相手の批評力を上げるには)どのようなアプローチがありえるだろうか。批評ってのがアバウトだね。書かれてある文章を文字の配列に還元し相互の関係及び運動を分析する能力とでも言おうか。

 批評やってる人ってどうやって鍛えられたんだろうー。
tb: (0)    com: (4)
 
 いえいえ、こちらこそコメントありがとうございました。『パーフェクト。ブルー』は未見ですのでGW中に見たいなあ、と思います。
 ムジさんほかに何かおすすめのアニメありますか?あ、『つみきのいえ』も上記のリストに付け加えられるなー。ますます共通点が見つからなくなりそうです。たはは。

 きよこー!
  by case
 
 なるほど。納得致しました。間抜けなコメントを書いてしまった。
 失礼致しました。
 きよこー!
  by むじ
 
今監督の初見が『東京GF』なのです。その後『妄想代理人』を見てOPに震えて、本編にだれて、しばらくはなれいたのです。

きよこー!
  by case
 
 香瀬さんは、なぜ「東京ゴッドファーザーズ」を観なかったのだろう。という不可解さがコメントを書かせます、私に。観て、「きよこー!」って叫んで下さい、是非。
 失礼致しました。
  by むじ
Posted on 18:32:55 «Edit»
2010
04/09
Fri
Category:【漏洩】

詩会の第一レス 

 poenique(右記リンク参照)の詩会にレス。思ったより時間がかかる。読み書きは楽しい。が今年は小考とか難しいと思う。グラチャンとか。出したいぜ。群青さんのバナー素敵だぜ。



 ムジさんが審査員とか発起人とか動き始めたので触発される。ネットのオン/オフ関係なく周囲に行動的な人が多いので襟を正す思いだ。しかし無い襟は立たない。あたしはTシャツが好きだ。



 文学極道(右記リンク参照)で年間各賞が発表されて総評が発表されて読み読みしてます。っつか創造大賞受賞者がほぼ三冠ってのはびっくりしたけど得心した。彼女しかいない、とゆうんを誰もが思った結果なんやろうね。うまいもん。あと総評がおもろい。ミドリ・黒沢・ムジ三氏の評はのなためわくわくしながら読む。おもろい。楽しい。



 中沢さん(感情レヴュー:右記リンク参照)のtwitterで文フリ用の同人誌にジャンル小説についての論考を書いたとの発言。読みたい。文フリゆこう。



 あ、東京近郊に住んでらっしゃる本記事を読むような奇特な方々。オフ会に興味ない?
 
tb: (0)    com: (0)
Posted on 02:28:27 «Edit»
2010
03/16
Tue
Category:【漏洩】

10-03-16(Tue.) 

詩会やろう!(あとひとりなんだ)
http://poenique.jp/cgi-bin/5sdf7e3sfd5s/cbbs.cgi


追記
はじまるよ!(っつか、昨日の今日かよ、いや今朝何時間の間か、ヤッほー倉庫さん!)

tb: (0)    com: (2)
 
どうも! わたしもないです! 過去作で!
  by case
 
どうも! 出す作品がないんですが!
  by ミヤシタ
Posted on 23:29:08 «Edit»
2010
02/24
Wed
Category:【漏洩】

「語り手」って? 

 ぅぉ。気づいたら一ヶ月放置。ぅぉ。「感情レヴュー」さん更新(http://d.hatena.ne.jp/sz9/20100221)。ぅぉ。キム・ヨナかっけぇ。ぅぉ。(うるさい



 試験終ったイヤッホーイ。みんな受かるといいなぁ!



 そんなわけで語り手の話。

 ちょっと前に酒見賢一『語り手の事情』を読む、そして昨日 芥川龍之介「羅生門」を授業する。  

 酒見氏の作品は佐藤亜紀氏の指摘通り「語り」への意識の高さを読んでみる。つまり、キャラクター・ストーリー・プロットという形で読み手の眼前に繰り広げられるそれぞれそのものを繰り出すものへの意識の高さである。

 本作は官能小説の体裁を持った恋愛小説であるが、本作そのものを推進する「語り」及び「語り手」を前面に押し出した仕掛けとなっている。どういうことか。たとえば、三人称小説をイメージしてみると、小説内で三人称の呼称を用いているまさにその人物は「神の視点」を保持した「語り手」であるが、それゆえ作品の前面に現れることはない。作中でも言及される『嵐が丘』は2人の「語り手」を設定しているが、「語り手」と設定されているがゆえに彼らはキャラクター≒登場人物としての動きを拘束されている--「事情」があるわけだ!--。

 本作の「語り手」は自身が小説の「語り手」であることを自覚ししている。周囲の登場人物も「語り手」に話しかけたり、登場人物の位置に引き摺り下ろしたりする。この辺りの位相の変化は筒井康隆『朝のガスパール』で五つの位相まで徹底されたが、筒井氏が枠物語(小説内小説)とメタフィクション(虚構の自覚)を併置し構造を魅力としたのに対して、酒見氏は「語り手」の立ち位置に絶えず揺さぶりをかけ続けることで「語り」そのものを前景化し興味を喚起している。



 以上より「語り」の前景化を念頭に入れた上で再読を行うに、『羅生門』作中へ不意に登場する「作者」という表記は、本作が虚構であることを読み手に自覚させる役割と読める。

 ここで注意したいのは「作者」という表記そのものである。作者を、その作品を現に書いたと思しき人物(書き手)と読み手が想定しうる人物、と仮定したとき、仮定上とはいえ書き手が作品内に顕現することはない。なぜなら小説が活字で書かれたものであり、小説が虚構であるならば、活字化された「作者」はその時点で虚構化されたものだからだ。(作者と書き手の違いについてのかせの考えについてはhttp://caseko.blog90.fc2.com/blog-entry-400.html)

 したがって、作中に現れる「作者」表記のそれは、作品『羅生門』の作者「芥川龍之介」であるわけではない。そしてこの「作者」は、下人と老婆が羅生門を舞台として語られるストーリーからは逸脱しつつもストーリー(虚構)そのものに口出しをしていることから、「語り手」と考えられる。

 まぁ、数ある芥川の短編の中でも「羅生門」のストーリはつまんないすからね。では、どのような楽しみ方を狙っているのか。ベタに下人の心情変化(これをビルドゥング・ロマンで読む人が未だにいるけど)を主題として読む人がいるけど、変化というか「揺れ」そのものを読ませるポイントとして、さいきんのあたしは設定してみる。

 (「下人の行方は誰も知らない」の続きを考えさせる授業展開というのがあるんだけど、以前、下人の悪堕ちとか死にオチとか改心とかが出てくる中、「振り出しに戻る」ってのを聞いた。つまり、『羅生門』に出戻ってくるという解釈。おもろい。)
 
 んで、登場人物の心情の「揺れ」と、「語り手」の登場による虚構の「揺さぶり」とのアナロジーとして見る。

 たとえば、桃太郎を子供に語り聞かせるとき、「川から大きな桃がどんぶらこどんぶらこ」はストーリーであるが、これに続いて「って、んなわけないじゃーんww」みたいに続けて話してしまったら、ストーリーは嘘っぱちと意識化される。



 こんな感じで、「語り手」ないし「語り」を前景化することは、ストーリーの享受を読み手に無自覚のままにさせない狙いを持っていると考える。あたしはね。



 あれ?おかしいなあ。中沢さんの西尾維新考に触発されたのに。西尾氏では『ニンギョウがニンギョウ』が好きさ。ああ邪道さ。ふふん。西尾読みの友人が貸してくれたのだが、あたしが貸した小笠原鳥類『テレビ』に反応して「こんなんっぽいの貸すねー」って貸してくれたのが『ニンギョウ』。いやあ、意外なところでつながるものですねー。

 あ、それでですね、ラノベ読みを相手に授業するにはどんな感じのアプローチが有効なんでしょうかねー。
















 

 

























tb: (0)    com: (0)
Posted on 22:50:38 «Edit»
2010
01/24
Sun
Category:【漏洩】

祭の後 


 第四回批評祭、主催者の相田さん、お声をかけてくださったyukoさん、多くのスタッフの方々、お疲れ様でした。ありがとうございました。

 参加に当たって全作品通読を自分に課したなか、あ、おもろかった、と思った作品にポイントしたよ。

 まず一つ目はこれですね。

 虹村凌「【批評祭参加作品】知らんがな【うさこ、戦う】」
 (http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=201245&from=osusume.php%3Fosuhid%3D7764

 最果タヒ「うさこ、戦う」に対する批評を放棄する形で作品に接近するスタンスを取っている点が興味深かった。

 ここで「知らん」という態度表明が笑えますね。

 どう考えてもネタであり、それを云ったらアタシもアナタもネタという消費のされ方しかネット上のテキストには有り得ナイんだろうけど、おもろいのが、作品に対して「わからん」ではなく「知らん」を繰り返すこと。知らんて。笑

 あ、でも、「理解出来ぬ」とか「ようわからん」とか文中で云ってますね。

 あれ?まあいいや。仮に、作品を解釈することを「わかる」、解釈できないことを「わからん」としたときに、「知らん」ってのは作品の解釈への動機付けが読者のうちに生じない状態と見てみようか、知らんけど。そんで、「知る」ってのは肯定/否定ごたまぜでの解釈への動機付けなんかな、と。

 詩--国語教育的な意味でいいや--が読まれないのは、もしかしたら、ここにあるんじゃないでしょうか。「わかる/わからん」以前に、「知る/知らん」って段階で、「知らん」ばっかり、みたいな。

 あ、あと、文中にある「人の見た目は9割だが、詩の5割はタイトルだと思っている。」は名言やね。

 そうそう、話はずれますけど、「批評」を「批判と評価」みたいな形で理解するように、「解釈」を「解体して釈明する」って友人に話したら爆笑されましたね。

 うん、誰に釈明すんだよって質問された。んなもん作品に決まっとるやん。作者は死んどるんよ。ゾンビだゾンビ。

 さて、そろそろ二つ目に参りましょう。

 古月「【批評祭参加作品】ひろげた本のかたち(佐藤みさ子)」
 (http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=201266&from=osusume.php%3Fosuhid%3D7764

 本作の書き手は虚子に材を求めた客観描写に関する文章が獲得ポイント数トップとなっとるけど、こっちのがおもろかった。客観描写のほうも実作を織り交ぜながら虚子の理論を“客観”的に記述してみたらおもろいなあ、と。

 ないものねだりはやめましょうね。では、本作。恥ずかしながら「佐藤みさ子」なる俳人を知らなかったのですが、引用されている作品を読んだだけですが、素晴らしい書き手だな、と。

 佐藤作品のモチーフに着目して、そのイメージを追っていく形で主題に迫るスタンスかしらん。オーソドックスなだけに作品にパワーがあれば読ませるものとなるね、というのは意地悪な読み方やね。

 批評の読み手を3つに分けると、批評対象に好意的な者・批評対象に否定的な者・批評対象を知らない者となります。ま、好意的でも否定的でもなく知っていても興味のない者も含めれば4つですね。んで、この4つの層それぞれの読み手がおもしろがれるものが「いい批評」だと思います。

 佐藤みさ子を知らなかったわたしが本作を読んで佐藤みさ子に興味を持った、という点でポイントしたねー。あ、でもこれ知ってた。

 「正確に立つと私は曲がっている」

 次いってみよう。

 ことこ「【批評祭参加作品】つめたくひかる、3―江國香織の表記」
 (http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=201403&from=osusume.php%3Fosuhid%3D7764

 三連作でしたが通読して好い読後感でしたので、まとめに当たる本作にポイントしてみました。江國香織への愛を感じますね。

 スタンスとしては上述した古月さんと同じだけど、より丁寧な手つきで作品に接しよるね。連作形式にしたことで、二つの作品集へのそれぞれの言及と比較考察を行ってるのも凄い。

 ネット詩の作品を例示して無意識に設定しがちな紙/ネットという発表媒体の違いによる態度変化を、「つめたい」の表記に執着して媒体の差異を無化して、同一の批評文に落とし込んだのも素晴らしいですね。

 もっかい江國香織読もうと思った。

 そうですね。

 さて、ポイントは入れんかったけど、他にもおもろかったんあったね。

 ツユサキさんのショートレビュー・サンデーは以前から知っていたけれど、そうだよねえ、こういうのが書きたかったですよねえ香瀬さん。ま、香瀬みたいなブキっちょにまムリでしょうね。

 あんま強く否定もできんね。

 ツユサキ「【批評祭参加作品】 現代詩フォーラム50選 (2)」
 (http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=201431

 ここの冒頭にある「セガール、ご飯ですよ」氏の諸作品に出会えたのは嬉しかった。まずこの書き手の名前に警戒してしまう自分を叱責せなね。

 大変有益な企画であり記事だったんですけど、文章としてのおもしろみとは違うかな、と。企画のおもしろさかな、と。ただ、この手の選出は批評祭といった「お祭」以外にも草の根的にやってくと、詩の読み手の新規開拓に繋がりそうですよね。

 そういう意味で、Youtubeとかのタグに触れているこれも興味深かったわ。

 KETIPA「【批評祭参加作品】死蔵作品を救うのは批評じゃない」
 (http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=201432&from=listbytitle.php%3Fenctt%3D%25C8%25E3%25C9%25BE

 たとえば、現代詩フォーラムのポイントがタグの代替となって、テーマやジャンルに括られない詩と詩のつながりの役割を果たしているとしたら、その役割ってどんな意味があるんだろうと思ったり、まあ、つながりというのは興味の(未知への)連鎖を期待している部分があると思うんだよね、amazonの履歴からオススメを表示したりするのも、そのあたりを刺激してるんじゃないかしらん。

 あるユーザーの「おすすめ」を母数として、その内訳を書き手別の割合で示す。全ユーザーの「おすすめ」を割合で示したらなんか傾向が見えそうですけどね。まったくわかりません。ただ、システム・デザインは必要ですね。これは現フォに限りませんが。

 それとコメント欄(http://po-m.com/forum/pointview.php?did=201432&from=listbytitle.php%3Fenctt%3D%25C8%25E3%25C9%25BE)もいいね。このコメントの例えに習えば、批評は墓荒しであり、システム・デザインは墓場の観光地化かしらん? せっかく盗掘するなら高く転売したいわ。

 下品な例えですね。転売の際の価値点検はどうするんです?

 K「【批評祭参加作品】「批評」ってつまんなくね?【批評祭参加作品を、切る】」 
 (http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=201407&from=listbytitle.php%3Fenctt%3D%25C8%25E3%25C9%25BE

 メタ批評、笑。ま、批評をメタ言語と見做すのは危ないっていうか無益、テキストとして見たとき批評も批評対象もフラットに、読み物としておもろいか否かのみが重要やね。

 ん、香瀬さんの書いたんがおもろいか否かはわからんけども、批評を批評対象とする批評文もまた批評対象になっていくようなメタ・ゲームではなくて、読み物=テキストとしての強度が肝要、つまり批評対象はどうでもいいね、書かれている内容や批評対象がそのテキストの価値を決定するわけじゃないってことです。

 KETIPA氏とK氏はわたしの文章に触れてくだすってんのもあって、ポイントは控えましたー。

 こんなとこでしょうか。

 そうだね。批評祭は賞レースもあったんだけど、「古株さんに有利」って主催者が言っちゃうのは、たとえ事実だとしても萎えるね。

 

 なんだかんだで、投稿時に予期していた以上の反響をいただき、いい経験をさせていただきました。あらためて、ありがとうございました。

 多謝!

 



































tb: (0)    com: (4)
 
おお。ありがとうございます。

びっくりだ!
  by case
 
大変遅くなりましたが、新人賞発表されました!
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=202886

おめでとうございます!

主催者は若干ネット環境が不自由なひとなんで、連絡すこし遅れるかもしれないですが、そのうちご住所をお伺いする連絡がいくと思うので、気長に?待っててみてください。



全作品通読!も、おつかれさまです&ありがとうございました。
また次回(!)も、お時間があれば、宜しくお願いいたします。
  by yuko
 
 こんにちは、ことこさん。コメントどうもありがとです。こっそり拝読ですか。なんか照れますね。

 エネルギーを貰ってなんて読んでくれた人に言ってもらえると嬉しいですね。これが、「うおーやったぜ!」みたいな達成感ですね。わかります。

 作者の意図とは別に作品に見られる言葉の配列からそのように読まれたのなら、それはやっぱり良い作りだったといえると思います。まあ、わたしのすべてに意図なんかないんで、せめてきれいな配列くらいは心がけたいなって。あ、基本ですよねそうですよね。

 わたしも楽しいお祭でした。ありがとうございました!
  by case
 こんばんは
はじめまして(と、きちんと挨拶するのは多分これがはじめてだと思うのですが)、いつもゴルでお世話になっています。
あと、ブログも以前からこっそり拝読してました。
お祭りおつかれさまです。

実は今回、初めは別の本で参加する予定だったのですけど、手に入らなかったため、急遽、手元にあった江國香織にしたのでした。
で、香瀬さんの批評読んでから、ぐわーとエネルギーを貰ってその勢いのまま書いたので、香瀬さんからポイントいただけたときには、うぉーやったぜ!みたいな達成感がありました。笑

> ネット詩の作品を例示して無意識に設定しがちな紙/ネットという発表媒体の違いによる態度変化を、「つめたい」の表記に執着して媒体の差異を無化して、同一の批評文に落とし込んだのも素晴らしいですね。

ここのところは、まぁなんていうか単に素人なので深く考えずにやったというのが正しいところですが…。
初めはこれまた手元にある「未詳02」から引こうかと思ってたんですけど、やっぱり全文読めるほうが分かりやすいかな、と思ってネットで探してみて、言いたいことはたいして変わらなかったのでネットから引いた、という感じです。

なにはともあれ、なかなか有意義なお祭りでした。
ありがとうございました!
  by ことこ
Posted on 22:20:35 «Edit»
2010
01/11
Mon
Category:【漏洩】

「鈴子」:後記 

 相田さんより長いので三分割にするよう助言を頂く。んで、しようと思ったのですが、あれ? ま、いっか。

 副題を「来るべき一条論のための叩き台ッ!」ってしようと思ったんですが、書かんでよかったですね。


 話は変わるのですが、冬コミで『界遊』なる同人誌を購入。な、なんと、小林レントさんのお名前が! 小林レントさんと云えばダーザインさんお勧めの「秋空の散文詩」の作者さんですね。面白い作品でした。VOL.2には最果タヒさんの作品も。いやふつーにそれ以外もおもろいっす、ヤマカンとかフルカワヒデオとか奇書とか。Vol.1は、もう手に入んないんだろーなー。


 閑話休題。「鈴子」は一条さんが鈴木名義のときに投稿して削除された作品だったと思うのですが、あれをもう一度読みたいなーって思ってどんなんだったかなーって考えた妄想と、「脱一条様式」って云われていまいち意味がわかんなくて過去ログ読み漁っていたりして頭んなか渦巻いちゃった妄想のハイブリッドが、アレです。(?)

 意味のゼロ地点としての固有名詞って「プアプア」っぽいけど、一条さんとの違いは、改行と散文脈という形式ないしリーダビリティをどこに求めているかっていうので、「ずらす」「ループさせる」という言葉の横滑りを固有名詞の空洞化に貢献させている点が、はなからゼロ地点である「プアプア」との違いかな、と。

 固有名詞の扱いでは、bungokuではミドリさんを対比として設定して読んでく必要がありそうです。空洞化されている一条さんの固有名詞と、人格が補充され(それゆえ欠損を描く(?))ミドリさんの固有名詞。これに角田さんの「Mr.チャボ」シリーズの怪人たちに対する命名行為(に伴う奪人間化)を加えてもおもろいかも。主題や手法が異なるものらを比較する上で、ひとつの共通する視点の設定として使えないかしらん。

 「一条様式」については、「一条チルドレン」という語(これもなんなんでしょー、「一条様式」的作風を意識的無意識的に行っているように見える書き手のこと?)が過去ログで見られたので、それらとの相違点を参照してみたい。代表的に云えば、ヒダリテさん。

 


 
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おつかれさまです、りすさん。

ありがとうございます。
斬新とは云いがたいですが、
楽しんでいただけたようで何よりです。
よかった。

はじめはあんな風に書くのではなくて、
いわゆる普通の「論文」形式で書こうと思ったのですが、
ひっぱられてしまった感じです。
一条さんには失礼ですが、
怪我の功名というやつです。

一条さんご本人も読んでくださったようで、
りすさんにも読んでいただけたし、
書かれた「鈴子」も浮かばれるものです。
ありがとうございます。

「箱の中」に「小考」をぶちこんだらふたを閉めて、
がちゃがちゃ掻き混ぜたらできあがり。
「開封後はお早めにお召し上がりください」、みたいな。
  by case
 
こんにちは、香瀬さん。

批評祭参加作品、読みました。
とても斬新な方法ですね。
批評文自体が、一条さんの作品に拮抗するような、
楽しさの中にも迫力が感じられました。
さすがだなー、と感心するばかりです。
香瀬さんの批評を読んで、僕自身も、一条さんという異才を、
再発見する部分がたくさんありました。僕も遅ればせながら、
一条チルドレンになるかもしれません。



  by りす
Posted on 03:20:59 «Edit»
2010
01/11
Mon
Category:【漏洩】

10-01-11(Mon.) 

ということで投稿してしまった。

【批評祭参加作品】失われた「鈴子」を求めて(http://po-m.com/forum/myframe.php?hid=7764&from=menu_d.php%3Fstart%3D0

タイトルだけで何がネタなのかわかるひとは、まあ、いないと思うのですが、興味があったらご覧ください。

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